複雑・ファジー小説
- Re: 夏のおわりの挽歌 ( No.5 )
- 日時: 2013/04/05 15:06
- 名前: 名純有都 (ID: GUpLP2U1)
第五章 失せた呼吸
おばあちゃんに一杯果物やお菓子、ついでに野菜を分けてもらって、私は帰宅した。荷物は少し重く感じたけれど、チエおばあちゃんの好意はとてもうれしかった。
「さぁて……」
どさっと上がり框(かまち)に荷物を置き、ほっと一息をついてから慌てて冷蔵庫に駆けよる。なぜ電気が供給されているかは、たぶん前のここの家主が空き家にしただけでここを売ってはいないからだろう。水は近くに清流があるし、電気さえあれば問題なかった。
すかすかの冷蔵庫に、貰ったものと買った野菜を詰め込んで、重い体を叱咤してまた外に出た。
少し風が出てきた。夏の夜の空気が、鼻腔を侵す。草木が真っ黒な影に見えて、ここに来て初めての夏はそれはもう怖かった。でも、たとえここで私が幽霊にでも呪われて死のうと、なんだろうと。もう私に失うものはない。あるのは、この命。
これから、また里に下りなくてはいけない。今日は、仕事を入れた。
汗まみれになった体は、むこうの銭湯で洗えばいい。どうせ、村のものだって気にしないだろう。男衆だって、いちいちくだんの欲を処理する女の顔など覚えてはいまい。
「行かないと」
男に抱かれるのには、もう慣れた。だから、大丈夫。
私は、心なしか己を励ますように心で呟いてろうそくを持ち、歩きだした。
不気味。そう片づけるには、生易しいような静まり返りようであった。あの畑が際限なく広がるあぜ道は、そのだだっ広さが余計に恐ろしく、昼間あんなにも輝いていた木々は、まるで大きな手のように蠢いている。
あ、少し嫌だな。私は暗澹たる気持ちで夜空を見上げた。月明かりに照らされた厚雲が、薄桃色をして広がっている。星の見えない夜は、暗い。
光を放つのは、6時間程度で解けて消えるこの火だけだ。たまに通りかかる家々の明かりはすでに消え失せている。
のっぺりとした、飲みこまれそうな闇。でも、怖いけれど、今ならなにも心配することがないから。さっきから、そう言い聞かせて。なにかいる、そう思うのが嫌だ。
「やっぱり、私も人間なのね」
人恋しくなるのは、女の性だろうか。
がさりと風が草木をゆらす。
……しかしそれは私が風だと思っていただけだった。明らかに今、何かが後ろで蠢く音がした。木が空に手をかざしている音でもなかった。
人の気配。
「——」
声が出せないうちに、後方を振り返る。また風が吹いた。首筋を生温かい風が撫ぜて、一気に体温が無くなって行く。血の気が失せて行く感覚を初めて味わった。
そこには、薄汚いなりをした、男性がいた。
頬は土で汚れ、ぼろを着て、まるで乞食のように。
男というよりかは、青年だろうか。私よりも幾許(いくばく)か年下の、その人の顔をどこかで見たことがあって、直感的に私は——。
その名前を言葉にする前に、私は土の上に倒された。頭を強く打ち、唸る。視界がかすむ。反射で目を閉じても、瞼でさえぎられた世界が回っている。
満足に開かない眼で事態を見極めようとすると、私の上にはその男がのしかかっていた。
荒い息、獣のようにぎらついた眼だった。その腕は、女の私を強く押さえつけて捕食しようとしている。
ああ私、犯されかけてるんだなぁと冷静に思う。
この若者は、今まで何を思い生きてきたのだろう。まるで、幸運にも存在を保ってきた私と対極にあるかのような青年。
その存在を「死」という名前で消され続けてきた、
「広太郎、くん」
初めて会うのに、なぜか私は彼の名前を呼んでいた。疑いは無い。彼は、斉藤広太郎だ。目の前で、血走ったその両目が驚きに見開かれる。
それこそ肯定だと受け取った。肩を抑えつける腕が一層強くなり、私は眉をしかめた。
苦しそうに広太郎君は言った。血を吐くような、辛そうな声だった。
「なんで、あんたここに来たんだよ」広太郎君は、さっきの荒い息が嘘のように呟いた。「こんな辺鄙な村に、来たんだよ」
「貴方こそ、生きていたのになんで今まで顔を出さなかったの。かれこれ、10年以上チエおばあちゃんは貴方のことを待ち続けていたというのに」
「五月蠅いッ、あんたになにがわかる! 俺は、ただ不幸な目に遭っただけなのに」
悲痛な叫び。不幸な目。彼にとってそれはなんだったのだろう。
「何があったの」
「見ず知らずのあんたになんか言えるかよ」
「でも、貴方は私のことを知っていた。私も貴方のことを知っていた」
まさか、忘れたとは言わせない。彼は、里の私が働く「その行為」をする所まで、私に会いに来た。それは故意だったはずだ。それは初めての指名だったのだから。
声だって、わかる。この声だった。
「広太という名前で来たから、まさかと思ったけれど。なんで、あんなこと聞いたの?」
〝なんで、あんたみたいな娘が〟。それはこっちの科白だ、と言い返してやる。
「——あんたは幸せそうに見えた。幸せそうなやつが、なんで身売りなんてしているのかと思った。たびたびばあちゃん家に出入りしてたし、新しくこの村に来た女は目立つ。……若いのは俺くらいだったし、同じく若い女もあんたくらいだ」
幸せ。
愕然とする前に、呆れたと思う。
ふっと意識が軽くなり、私は嗤(わら)った。自分に向けて、目の前の青年に向けて。
「私は、幸せなんかじゃないわ。昔手に入れたものも、これから手に入れるものも、なにもないもの。あるとしたら、この身一つ。時間と命」
冷たく微笑むと、明らかに私よりも幸せ「だった」青年は怯んだ。そのすきを見て、私は彼の腹を蹴りあげる。力が緩む。次いで私はその腕を薙いで取り払った。
彼はすぐ体制をたてなおしたが、私を抑えつけようとはしなかった。
私は立ちあがって、広太郎君を見おろす。
「……ここで逃げても、何の意味がないことも知ってる。貴方には一度抱かれたから、犯されたってさして変わらないのもわかってる。でも、貴方はここでこんなこと、すべきじゃない」
れっきとした罪だ。だから、この青年には、その十字架を背負ってほしくない。
「さよなら。また会うかもしれないわね」
また、嫌だなと思った。人の辛い感情に触れるのは好きじゃない。
揺らぐ。不幸でいいと思った感情が。