複雑・ファジー小説

Re: 夏のおわりの挽歌 ( No.6 )
日時: 2013/03/28 22:31
名前: 名純有都 (ID: td9e1UNQ)

第六章 微睡んだ夢

 仕事の時間には、辛うじて間に合った。
 昔なら「娼館」とも呼べそうなこの施設の女将が、私の服が土に汚れているのを見て無言で察したようだった。しかし、行為の有無だけは聞いてきた。

「最後まで、したの」
「……いいえ。普通どおり、客は取ります」
「無理しなくてもいいのよ?」
「いいんです。今月は火の車なので少しでも稼ぎたい」
 
 ジョークのつもりで言ったはいいものの、笑えない。口角が若干ひきつる。
 追い詰められたものだな、私も。
 人間的な感情から言う、もう疲れたとか面倒だとかのもっともな言葉は出てこない。言ったら最後本当に死にたくなる。思うのはまだいいけれど。

「そう……。今日は、指名が入ったみたいよ?たった先刻だけれど」
「——え」
「この前の、広太さん、だったかしら」
 
 広太。——広太郎君。なぜ。さっき、置いてきたのに追いかけてきたのか。
 
 薄ら寒くなる、しかし、なにか違うような気もした。彼は、ストーカーのようなことをするために私を追いかけてきたのではない。

「……わかりました。受けます」
「じゃあ、今日は松部屋よ」
「はい」
 
 知る必要がある。彼がなぜ、私をまた求めるのか。


 三重になったふすまの最後の一枚が開く。そこに立っていたのは、まぎれもない先ほどの青年。恰好は相変わらず薄汚い。

「広太郎君。なんで、また来たの」
 
 間髪を入れず問えば、彼は行為に入ろうとはせずにどかりと腰かけた。

「ここは、昔の花魁たちがいたようなれっきとした商売じゃないんだよ?」
 
 彼は、続く問いかけにこたえようとはしない。

「貴方は、ここに来ていいような人じゃないの。まずは、チエおばあちゃんにこのことを知らせて、」
「俺は」
 
 そして突然、広太郎君は私の言葉を遮った。

「——一度、この村の人間に誘拐された」
 
 誘拐? ……誘拐。脳に響いた言葉が、二回目くらいで浸透してくる。
 この村の?では、彼は、この村で生活していたのか。

「……でも、」
「俺は、いいように使われた。女のかわりにさせられた。でも必死で逃げてきて、そしたら俺は死んだことになってた。それこそ死んだようにはなってたけど、でも生きていると信じていて欲しかった、待っていて欲しかった、俺は」
 
 俺は。その言葉が体現している。彼の想いを。
——彼は絶望していた。
 なんで、そんなことを私に言うのだろうか。私に、それがどれほど不幸なことかを鑑定でもさせたいのだろうか。

「私はね」気付いたら、私は話し出していた。「いろんな人が、死んだよ」
 
 その程度のことか、とあからさまに気落ちした顔を、真っすぐに射る。

「母は車に轢かれて死んだ。父は、面倒だと言って自殺した。父方の祖母は鬱にかかって、それから立て続けにみんなガンとか精神病になって死んだよ」
「……」
 
 広太郎君が何も言わないのをいいことに、私は全部吐き出すように言う。

「私の身分を証明するものは、無くなった。だから私は、もうこの世にいないことになってるの。私を助けてくれる人はいなくなった。私は、戸籍を失ってお金を失って家族を失って友達を失って夢を失って将来を失って過去を失って未来を失って、ここまで逃げてきたの。その過程で、なにかを恐れる心も失くした。だってもう、私に失うものなんて命くらいしかないもの。
 だから、男に抱かれるのももうどうでもいいし誰に犯されようがどうでもいいし、貴方にこれから殺されるならそれでもいい。犬死にして野垂れ死んで、鳥に死体をつつかれようが、もう私に奪えるものなんてない。生きる意味は、とうに無かったから」
「……だから、何だって言うんだよ」
「貴方は私よりも不幸じゃなかったのよ。幸せじゃなかったでしょうけど、貴方にはまだ失うものが山ほどある」
「——五月蠅い」
 
 私が追い詰めた青年は、どこか虚空を見ていた。あ、これ殺られるかもしれない。 まあいいか、それがかつての望みだったわけだし。

「貴方には、『信じて欲しかった人』がまだ存在している。まだ自分が信じている人が、いる」
「黙れッ!!」
 
 だん、と壁に叩きつけられる。喉元を、喰い破る勢いで手が絞めつけて、爪が食い込む音がする。
 ああ、やっぱり彼はチエおばあちゃんに一度顔をみせなくちゃなあ、と穏やかに思った。チエおばあちゃんの眼は、待っている眼だった。

「わかったように言うなよ。俺がどんだけ苦しかったか、知らないくせに」
「わかりたくも、ない……、け、ど、苦し、みの、果てに、ある、のは、ぜつ、ぼうじゃ、な…、…くて、『諦め』だ、よ」
 
 絶望の淵に立たされたとして、彼はまだ諦めてはいない。逃げ出せる力がまだあったのだから。

「五月蠅い、うるさいうるさいうるさいッ!!!」
 
 力が、抜けて行く。脳に血が行かなくなったのだろうか。視界が白む。まるで酒に酔ったみたいな、少しの浮遊感ともうすぐ意識が途絶える予感。
 首絞められて死ぬって、なんかベタだな私。
 やっと解放される。私は口元に微笑みが浮かぶのがわかって、さよなら、と心で呟いた。
 なぜか広太郎君が視界の端で手を離すのが見えて、私は床に崩れ落ちた。