複雑・ファジー小説
- Re: 夏のおわりの挽歌 ( No.9 )
- 日時: 2013/06/09 14:06
- 名前: 名純有都 (ID: GUpLP2U1)
第九章 蝉時雨の中で
不幸、という概念が渦巻く。
憎たらしい青い空が光る。
入道雲が絶えず形を変える。
鬱陶しい夏の風が吹く。
誰かの血の色が蜃気楼に反射する。
大切なものが、この中のどれにも無いと、気付いた私がその風景の中で泣いている。
おぼつかない足取りで、夏の終わりのくせをして真夏日の炎天下を歩く。
「赤いわねぇ。ぜんぶ、ぜんぶまっか」
悲劇のヒロインであれば。誰かを愛し、この人がいればもうなにもいらないと思えるようなひとがいれば。切望すればよかったのかもしれない。人のぬくもりを。
しかし私はきっと、どこかから誰かが手を差し伸べてくれるものだと思っていたのだろう。見限ったのだろうか、宿命と言う、私の路が。
ここまで後悔をしなかっただろう、そんな人がいればと。意識下で思う。
枯れ果てたはずの涙が溢れ出る。それは生理現象だった。
空虚の中で、揺らされたコップからわずかに零れおちた一滴。中身はもう無くなる。
だからこれは、よろこびの涙ではない。生きている。わかる。それは、わかる。永遠に楽になれることは無い、それもわかったけれど。
失ったならつくればいい。
絶望が諦めを揺るがす。コップの中の水を、まるで最期の水滴まで搾り取るように。
——殺してくれない。
——誰も。私を〝救おう〟となんて、してくれやしない。
——死ねない。
——怖くて怖くて、仕方がない。
広太郎君は「不幸」と言った。「幸せに見えた私」を、「不幸」と。言いきった。
私は。「不幸中の幸い」で、「とても可哀想な人」。自分が一番不幸だと思っていた人間はドラマの様な私の状況に驚愕しただけで簡単に「可哀想」と言う。
それは私が、自分の過去をさらし、彼に散々希望を見出せと説いたからか。死ななければ私は楽になれないと、彼は手紙に残した。
「サヨナラ、斉藤広太郎君。お粗末なバッドエンドでごめんね」
私は、視界の端でゆうらゆら蠢く赤を見た。
誰の血だろう?見ると、それはほど近くから滴っている。
ああ、私のか。なんだか、ありがちな展開だ。ドクン、と鼓動が大きく脈打ち、一層血は流れる。
痛みは興奮によって快感へと変換されていた。これは興だ。狂ってしまえ。
多分私は、チエおばあちゃんの家を抜け出し、刃物で衝動に任せて首を切った。頸動脈はしっかり狙っていたのだ。苦痛は不思議と感じない。どれほど私は、この血を流したかったのだろう。ぼたぼたと地面に赤がシミをつくる。酔ったかしら。夢心地の中、踊っているような心地よさだ。暑さもなにもかんじない。神経まで麻痺したのだろうか。
ざっくりと斬った首筋から、胸元、やがて腹へと血が流れ、脚に到達する。生温かく、血がへばりつく。
「——ああ、いや」
振り払う。残像までもへばりつく。母の衰弱した顔。父の死に際の普段通りの顔。その時も血だまりの中で眠っていた誰かが……父は、私に「ごめんな」と言って死んだのだったか。
群れていた女子を思い出す。中学校の時は、私は何をしていたのだろうか。つらかったという過去形での感情が巡り巡って甦る。
どれだけ逃げただろうか。記憶が曖昧だ。過去がわからない。パァン、と銃声が放たれるような勢いで、なにかが弾ける。
「——あ」
イタイ。
痛い、いたいいたいいたいイタイ痛い。
麻酔が解けたようにそれは寸断されて、幻のように意識は鮮明になる。
死に際のまたたく光がよぎった。
「ねぇ、このまま助けがこなければ良いのよね。私、〝救われる〟のよね」
誰かに問うた。
それは結局死んだ母か、私を捨てた父か、かつての同級生か、チエおばあちゃんか、私と床を共にした男たちか、その中の一人、広太郎君か。
ああ私、こんなにも生きていて嬉しかったことは無い。
苦しみから解放される瞬間が待ち遠しかった。
腹が立つほど澄みきって私を受け入れない蒼穹と、威圧してくる入道雲を視界に残したまま、私はふらりと木の陰に身を預けた。
「夏は、……私のことが、きらい——かしらね」
わたしはあなたがだいきらい。
意識が閉じて行く感覚は、こんな感じなのだな、と直感する。痛みに負けない激しさで、また蝉が啼く。蝉時雨の一斉の声が、耳朶を侵す。
じりじりとまるで私を追いこむかのように。
結局私は夏に殺される。
頬には笑みが浮かんだ。私の死体を見つける人は、どうかチエおばあちゃんでありませんように。
どうか、広太郎君が生きれますように。
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夏、某日。女性の変死体が●●村で発見された。
女性の戸籍照合は難航しており、情報がない。
ふらりとこの村に現れ、やがて定住したそうだが、どこから来たのかさえわかっていない。「さよちゃん」と呼ばれていたそうだが、 それ以外は何の手がかりもなく、彼女が住んでいたという家の家主は別の人物の管理下という話である。
死因は頸動脈からの多量出血。暴行された痕もないため、警察は自殺とみてDNA鑑定を進めている。
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その死体(ホトケ)は、静かに微笑んでいた。
しかし、珍しいものだとこの事件を担当した刑事は思う。戸籍情報がない。それはつまり、彼女は何らかの理由で、都市から逃げてきたという事になる。
死を望んでいたひと。その死体は酷く美しかった。退廃的で幻想的で、……不謹慎だったが絵になる死体だった。木の陰に体をあずけ、なにかに安堵した微笑を浮かべる女。
壮絶なまでに悲しく美しい光景だった。
「心から死を望んだ人間は、死を救いだと思っているのかもしれないな」
死ねなかった時の恐怖を知っているから。
刑事は、女性に眼を閉じ合掌した。