複雑・ファジー小説
- Re: エリスの聖域 ( No.1 )
- 日時: 2013/04/15 23:02
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: 7hsLkTT7)
『エリスの聖域』
第一章:黒い十字架
——序幕——
どこか遠くで、夜蝉が鳴きはじめていた。
都会の四角ばった空には、鋭く真円を描く満月。その光は硝子の摩天楼に照り返って、夕から夜に移ろうとする街を仄かな銀色に染めている。人の気配は無く、風は死に絶えて。そのせいか生暖かい排ガスが淀んだ路地裏には、じとりと汗ばむような嫌な暑さが残っていた。
「ぅ、まずったかな……もうじきに『夜』になっちまう」
黒須春希(くろす はるき)が隣町での用事を済ませて、この『桐葉市』にある自宅への帰路に就いたのは、そんな既に夕日の残光も消えかかった時刻の事だった。
もっと早く帰れるはずだったのに、予定は狂いに狂ってしまっていた。
帰り際に厄介な知人に捕まったのも良くなかったし、駅に着いてみれば人身事故だとかで電車が止まっていたのも大きな原因だろう。陰鬱な世相を映しているというのか、そういった『事故』は最近とみに多い。現場こそ見た事はないが、今日のように駅で二時間ほど足留めを食うことも、そう珍しい事ではなかった。
だから結局は、それらを予想出来なかった自分が悪い、と言われれば返す言葉もない。もっと言えば、葉月も終わりに近付いた今日この頃、陽が沈むのが斯も早いとは思わなかったという甘さも、確かにあった。
「さ、早く帰らなきゃ。ははっ、夏希(なつき)に心配かけると後が怖いしね」
だが、この際何が悪かったのかはどうでも良い。いくら虚勢を張って笑ってみた所で、その声が不安で震えるのだから我ながら呆れるやら情けないやらで、しまいには違う意味で笑うしかなかった。
残念な事に、春希の臆病な性格は生まれつきである。
内向的という意味ではなく、おそらく防衛本能的なものが発達しすぎたのだろうと思う。勘が良すぎると言ってもいい。そのせいかどうかは知らないが、男のくせに怪談やホラー映画、あまつさえ暗い所にも滅法弱い。
肝試しとかもう何それ状態で、スプラッターの類に関しては本気で消えて無くなればいいとも思う。妹である夏希のイタズラで、居間のテレビを点けた途端にホラー映画のクライマックス・シーンが大音量で流れ始めた事があったが……いや、やめよう、思い出したくもない。
尤も、こんな時世だ。
そんなものを好む人間は文字通り絶滅しかかっていたけれど。聞けば、それらの全盛期はおよそ一世紀前だったとかなんとか。
「平気だ、怖くない。怖くないぞ。こんなの、夏希のアレに比べれば……!」
そう自分に言い聞かせるように呟きながら、春希は駆け足のスピードを上げた。
駅から此処まで駆けて来たせいで、大量の汗で濡れたシャツが肌に貼り付くようで気持ち悪い。息もとっくに上がってしまって、口の中は乾き切っている。だが、とにかく今は急いで、『夜』になる前に帰らなければならなかった。
月が明るさを増していくにつれて、じりじりとした焦燥が背中を焼くように春希を駆り立てていく。そして、もはや蒸し暑さすら忘れ、気付けば春希は全力で無人の街を走っていた。
あぁ、そんなに急ぐ理由?
それは勿論、こんな綺麗な『夜』に出歩く事、
——それ即ち、『死』であるからに決まっている。