複雑・ファジー小説
- Re: エリスの聖域 ( No.10 )
- 日時: 2013/04/26 19:46
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: KE0ZVzN7)
カチカチという秒針の音が、妙に耳に障る時間が続いた。
そのうち時計をデジタルにしようとか、いい加減に部屋の模様替えをするべきだとか、そんな現実逃避してみても状況は変わらない。
夏希は月を半分にぶった切ったような目を向けたまま逸らそうとせず、まさに針の筵になった気分。きちんと学校の制服を着て仁王立ちする夏希と、寝巻きのままベットに正座する自分とでは、どっちが年上か判らないくらいだ。とは言え、自分にもさっぱりな事を、一体どう説明しろというのか。春希は深く肺を絞るような溜息をついて、誤魔化すように笑ってみせた。
「あー、ちょっと、な」
「ちょっと、じゃないってば」
「……はい、ごめんなさい」
びしっと鼻先に指を突きつけられて、いよいよ進退は極まった。
本当の事を話す訳にはいかないだろう。しかし、全くの嘘というのも難しい。なにせ夏希が生まれてから15年、物心ついてからでも10年の付き合いである。根本的な所で下手な嘘をついても、一瞬でバレてしまうのがオチだろう。
それに、だ。夜毎に必ず血を抜かれた死体が見つかる、この時代である。夏希にだって、だいたいの予想は付いているはずだった。
言いたくないのだが、仕方ない。静かに息を吸って。なんでもない事のように、できるだけ昔を思い出させないように、春希はその言葉を口にした。
「——吸血鬼、だ」
「っ……!」
夏希が肩を震わせる。2年前からずっと、その単語は兄妹の間ではタブーだった。
2/第一幕:日常(偽)
「な、なんだか信じられないけど……」
嘘のコツは、中身に少しだけ事実を混ぜることである。と、どこかで読んだことがある。春希が必死になって頭を回転させて紡いだ言い訳は、半信半疑ながらも夏希を納得させたようだった。
それも出食わした化け物から逃げ出し、途中で転んだ拍子に先にやられた他人の血を被ったらしいという、明らかに無理のある話だった。嘘のコツとは物の言い様で、つまりは長年の間で何となく培った夏希を騙すコツである。
「きゅうけ……アレから無傷で逃げてくるなんて。ハル、そんなに足速かったっけ?」
「地味に傷つくな、それ。お前と一緒に走ったことなんて無いんだから、分からんだろう?」
「あー、うん。そうだよね……そもそも、わたし走ったことないから分かんないや」
「ん……悪い。そういうつもりじゃなかったんだけど……」
気が緩んだのか、普段は絶対に言わないような失言を漏らしてしまった。
先天的に腎機能の障害を抱える夏希は、定期的に血液の人工透析を受ける必要がある。それゆえに幼い頃から激しい運動は禁止され、学校も休みがちになってしまう。両親が逝ってからは特に、中に閉じこもり気味になっていて。春希には明るい表情を見せるものの、その事に対して寂しさや歯がゆさを感じているのは間違いなかった。
だからこそ。春希は、妹の為ならば出来うるだけの事をしてやりたいと常々思っている。断じて、断じてシスコンの類ではないし、夏希もブラコンではないと思う。
そう。お互いに唯一の肉親として、縋らなければ生き辛い世の中だというだけ。
「ううん、いいの。『おにいちゃん』は、わたしに気を遣いすぎなんだよ」
「……とりあえず、その呼び方は止めれ。こう、何かゾワっとくるから」
「えー、ひどいなぁ。いいじゃない、仲良さそうでさ」
「は、なんだそれ。仲悪くはないだろ、ほら」
ベットから立ち上がって、夏希の頭をくしゃくしゃと撫で回す。
さらさらとして指通りの良い髪は、いつも少しだけひんやりとしていて心地良い。
「ん……」
身長は頭二つ分も違うから、まだまだ子供に見えて、つい手を置いてしまうのである。普段なら直ぐに擽ったがって猫のように逃げてしまうのだが、今日は目を瞑ってなすがままにされている。
思わず「どうした」と言いかけて。そのとき夏希が見上げるように顔を向けた事で、春希は言葉を出せなくなった。
——その穏やかな笑み。
不覚にも言葉に詰まったのは、そこに懐かしい母親の面影を見たからだった。
「うん……ほんとに、良かった。もう心配させないでよね、ハル」
あぁ、生きている。理由も意味も分からないけれど、自分は生きているのだと、春希はその実感で涙が出そうになった。一度は諦めなければならなかった。だが、それでもまだ続けろというのなら……
「……あぁ。善処しますよ、お姫様」
黒須春希は、彼女の為に生きると誓おう。