複雑・ファジー小説
- Re: エリスの聖域 ( No.11 )
- 日時: 2013/04/26 19:47
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: KE0ZVzN7)
3/第一幕:日常(真)
「うーん。この貸しは、そうだねぇ……」
「……どうか、お手柔らかに」
——その邪悪な、もとい悪戯な笑み。
そこにも亡き母親の面影を見た春希だったが、今度は少しも懐かしいとは思わなかった。
貸しと言われれば、確かに貸しである。記憶にないとは言え、血塗れで転がり込んだ春希を二階の自室まで運び、服を着替えさせ、身体を拭くという一連の作業は、夏希にとっては大変な重労働だっただろう。
それに報いるのはやぶさかではないが、それを申し出た途端に夏希の目が光ったのが気になりすぎる。なにか虎視眈々と機会を伺っていたような気配が、そこにはあった。
「じゃあね、一緒に観たい映……」
ほら来た。夏希の満面の笑みに対して、春希は脊髄反射で拒否をしていた。
「却下! ダメ、絶対。ホラーとかもうね、この世から無くなればいいと思います!」
「な、まだ何も……映画みようって言っただけだってば!」
冗談を言ってはいけない。春希とは対照的に、夏希は重度のホラー映画ファンであり、事ある毎に春希にHD(ホロゥグラフ・ディスク)のコレクションを観せたがる。曰く、「ホラーは好きだけど一人で見るのは怖い」のだそうで。
さもありなん。HDとは半世紀前に登場した、立体映像を鑑賞者を中心とした空間の全方位に投影するタイプの記憶・再生媒体で、その臨場感は3D映像の比ではない。ホラー映画に応用すると余りにもエグいので、この媒体で制作されたものは数が少ないのだが、その分最初(はな)から開き直って恐怖を追求したものばかり。春希にとっては、罰ゲーム以外の何物でもなかった。
「ふぅん? ホラーじゃないっていうなら喜んで観るけど」
「ぅ……い、いや、ホラーじゃないっていうか、その。サスペンスホラー、みたいな?」
「もっと悪いわ。胸がドキドキとか血がドクドクとか、もういいんだって」
「むぅ……意気地がないなぁ、ハル」
そう言って拗ねる夏希を見て、春希は苦笑いをするしかなかった。
天国の父さん母さん、貴方たちの教育はちょっと間違えてたと思う。別に妹の趣味に口を出すつもりはないが、あまりに暗くはなかろうか。ここで一緒に観てやると言わなければ、夏希は一人でも観るのだろう。部屋に篭って、カーテンを締め切って。
あぁ、その光景を想像してしまったら負けである。やっぱり叶わないなぁ、と今度は深い溜息をついて。
「はぁ……ほんと、最初だけな。あと、やたら音量上げるの禁止で」
そうして交渉は決し、夏希がニコニコと笑顔で部屋を出て行く。
その後ろ姿を見送って、春希は再び一人になった。彼女が朝食を用意してくれている間にシャワーを浴びて、着替えを済ませ、身だしなみも整えなければなるまい。だが……
「…………」
一人になった途端、両肩にずしりと重しが乗ったような感覚。
何故お前は生きているのか、という見えない何者かからの謗りを受けている気がする。それは春希を殺した女吸血鬼かも知れないし、矛盾を許さない世界そのものかも知れなかった。
これでは、気鬱になるのも当然だろう。自分が生きている理由、もしくは死ななかった理由が明らかにならない限り、この重圧は続くのだ。瞬きをした拍子にでも、邯鄲の夢よろしく、あの『死』の瞬間に帰ってしまうのではないかという恐怖感に苛まれる。本当なら、映画を観る約束なんてしている場合ではなかった。
「考えろ、考えろ……」
ベットから立ち上がって、部屋の中を意味もなく動き回る。
右手の指は先刻から忙しなく擦り合わせていたせいで、もう赤くなってしまっている。それでもカスカスと鳴るばかりの指音に焦りを募らせながら、春希は昨夜の出来事に思考を遡らせた。
事実は一つだけ。吸血鬼は、その細い腕で春希の命を絶った。
どんなに荒唐無稽で悪い夢のようでも、それは間違いない。あの血塗れで破れたシャツが、それを証明している。あんな風に腹に風穴を開けられたのでは、頚から血を吸われるまでもなく春希は死んでいたはずで——
「え、ぁ……血を、吸われた……?」
その時、ふと。
今まで一向に鳴る気配のなかった指の音が、まるで春希の思考を嘲るように。一人、静まりかえった部屋にパチリと響いた。
(第一幕、了)