複雑・ファジー小説

Re: エリスの聖域 ( No.2 )
日時: 2013/04/16 21:43
名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: YP83uDEF)

 ——曰く、それは新たな時代の『常識』である。

 一つ、決して『夜』に外出してはいけない。
 一つ、家の中に灯りを絶やしてはいけない。
 一つ、『夜』に訪れる者あらば、決して招き入れてはいけない。


 この夏に19歳になったばかりの春希にとって、それは未だ幼い頃に忽然と現れた、絶対の『ルール』だった。
 破れば待っているものは、自ずから知れた事。全てが自己責任。故に、今も誰一人として街中で行き合わないのも、当然といえば当然の事だった。

 『世紀末』が来たのだと、昼間の街では盛んに終末論が叫ばれている。実際、あと数年で世紀は変わるのだが、ここでいう世紀末とは決してそういう意味ではなかった。護身の為には仕方ないとはいえ、一日の半分を奪われた絶望は、それ以前の時代を知っている大人たちから順に精神を追い詰めていた。
 

 2096年、8月。
 陰鬱とした時代が始まってから、およそ20年も経った夏だった。経済も文化も後退して、原始の如く闇に怯える世界。かつて旧世紀の人間が期待した輝かしい未来は、もはや訪れる望みが失われて久しい。

「まぁ……それは、それとして」

 だがそれでも、春希にとっては自分の生きる時代には変わりない。
 どんなに生き辛い世の中であっても、決まりさえ破らなければマトモな生活は出来るし、大学にも通えている。死んだ両親が残した遺産と家があるおかげで、妹と二人で生きるには当分困る事はないだろう。

 だから、そう悪いものではない。というか、それ以前の人が『夜』を楽しんでいたという時代の事を、春希は知らないのである。絶望しようもないし、羨みようもない。春希たちの世代にとって、『夜』はただ危険で不吉なものでしかなかった。


 あぁ、だからこそ。決して、その禁忌を犯してはいけなかったというのに——

「はっ、あぁ、そろそろ着……っ!?」


 その時、音もなく密やかに。今日という日の『夜』は、春希の帰路に落ちてきた。

 ——何かが、この先に居る。
 角を曲がれば直ぐに自宅の裏口という場所で、春希は息を呑んで足を留めた。それは例の直感じみた臆病さが、20メートル先の暗闇に在る異変を感じ取ったのだった。

 粉々に壊された街灯の破片が散らばった道の真ん中に、その『何か』は春希に背を向けて蹲っていた。人の形をした影の向こう側には、もっと多くのヒトガタが倒れているように見えるが、幸か不幸か、月灯りの陰になってハッキリとは判別が出来ない。 
 くちゃくちゃという怖気の走るような音が聴こえて、辺りには酔いそうほどに濃い鉄錆の匂いが漂っている。
 
 いったい、『あれ』は何だ。
 停止寸前の思考の中、春希は辛うじてそれだけを自問した。

 知れたことを。あれこそが禁忌を破った者に訪れる災厄そのものだと、春希はとうに判っている。『夜』はもはや人間の時間ではなく、彼等のものだ。故に、帰るのが間に合わなければこうなるという事も、春希は他でもない『両親の死』を以て学んだはずだった。

「あ、ぁ……」

 しかし、実物を前にすると話は違う。
 人の形をしているのが冗談か何かのような、獣じみた殺気に気圧される。声を出さぬよう必死で口を抑えても、引き攣った喉からは笛のような音が漏れて。踵を返して逃げ出そうにも、両の脚はガタガタと震えるばかりで一向に動こうとはしなかった。
 恐怖。無論、それもある。だが、この時の春希を支配していたのは、純粋な驚きと……そして、自分でも把握出来ないくらい急激に膨れ上がる『嫌悪感』だったと思う。

「あれ、が……っ、吸血、鬼……!」 


 ——そう。あれが、世界を壊したモノ。両親を殺したモノ。
 今や日本人口の0.2%に達するとも言われる、ヒトから派生した血染めの『怪物(フリークス)』だった。