複雑・ファジー小説

Re: エリスの聖域 ( No.3 )
日時: 2013/04/19 13:11
名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: KE0ZVzN7)


「だぁれ?」

 慌てて口を閉じた所で、時すでに遅かった。
 びくりと肩を震わして、影が咀嚼するような動きを止め、ゆっくりと機械じみた動きでこちらを振り向いた。あぁ、若い女だ。そう判ったのは女の声だった事もあるが、その長い髪を留めている銀の飾りと、胸元の開いた黒いドレスのような格好をしていたからである。

 月の冴えた光に照らされて『それ』の貌が見える。否、見られていたのはこちらか。
 喜悦に歪んだ真っ赤な唇。病的に白い肌。顎から滴る、赤黒い何か。そして、乱れた髪から覗く右の片目がぎょろりと蠢き、立ち尽くす春希の目を捉えた。
 きっと一秒にも満たない時間、春希と女は互いに見つめ合い——そして。
 
 
「——あはっ」

 血に塗れた口元で、どこか濁った眼で、しかし彼女はまるで少女のように笑った。
 不覚にも一瞬、その魔的な笑みに魅せられて。春希は、その場から逃げ出す決定的なチャンスを永遠に失ってしまった。

 女が立ち上がる、と思った刹那、その姿が煙のように掻き消えたと思えば。
 彼女は20メートルの距離が無かったかのように、春希の目の前へと一息に『跳んで』きた。

「な……!」
「ごきげんよう、素敵な夜ね」

 咄嗟に身を引かなければ、唇が触れていたくらいの近さに、艶めいた女の顔がある。左目はやはり髪に隠れたままで、右目だけで心まで見透かしそうな視線が刺さる。背丈は春希と同じくらいか。薔薇の香水も、血の匂いも、熱っぽい吐息さえ間近で鼻をつく。
 もはや驚いている場合ではなかった。その距離は即ち、そのまま『死』の近さだ。

「なにより、気が利いてるわ。おなかは一杯だけど、まさかデザートが出てくるなんて」

 ——氷のように冷たい女の手が頬に触れる。
 まるで死人の手だ、と春希は背筋を走る怖気に耐えた。振り払おうにも、こちらの腕は身体ごと縛られたかのように動かない。それだけでなく脚も頭も、視線すら動かせないのを知って、春希の絶望は一気に深まった。
 
 思えば、逃げ出す逃げ出さない以前に。あの濁った眼で見入られた時から、とうに春希は身体の自由を奪われていたのだろう。そんなことにすら今の今まで気付かなかったとは、と春希は今さらにして自分の臆病さを呪った。

「くッ! なんで、こんな……」
「あはっ、頑張るわね。一瞬でも私の『眼』を見たら、どうやっても逃げようはないのに」

 女は「せいぜい足掻きなさい」とでも言いたげな嗜虐の笑みを浮かべて、春希の顔を愛でるように撫でまわす。その表情のコロコロと変わる様子は、春希のイメージしていた『吸血鬼』とは大分違っていたが……それは却って、不気味さを助長するものでしかなかった。
 そこには残虐な『意志』が宿っている。捕食する獣とも異なる、相手を苦しめて愉しもうとする意志が。

 なんて醜い、と春希は嫌悪感を強めた。それは顔の端正さがどうという問題ではなく、心の在り様がそう見せている醜悪さだった。

「口は動くでしょう、叫んでも良いのよ。誰か来てくれれば、それはそれで美味しく頂くわ」
「…………」

 そうか。2年前、両親を殺した奴も、こうして死ぬまで甚振ったのか。『吸血鬼』とはつまり、こうまで人間の醜悪な姿なのか。
 棺の中で眠る彼等の死に顔は、とうてい妹に見せられるものではなかった。春希ですら吐き気を堪えられなかった形相は、今でも両親のものとは信じられない。
 
 あんな風に、自分も。そう想像するだけで——

「は、冗談……じゃ、ない」

「うん? 何か言ったかしら。もっと大きな声を出さないと、誰も来ないわよ? もっとも、人間(あなたたち)は『夜』に外で何があろうと無関心でしょうけど」

「誰が! あんたらの悪趣味に付き合うつもりはない!」

「ふぅん? あははっ、本当に可愛い子。せめて声の震えくらい収めてから言いなさいな。ほら、こんなに喉が震えて……なんて美味しそう」

 耳障りな声を聞く度、萎縮していた手足に熱が通うのを感じる。
 嫌悪が恐怖を跨いで超えていく。ありていに言うなら、勇気を出すべきは今だろう。臆病なのも良い加減にすべきだと、春希は奥歯を砕かんばかりに噛み締めて。女の『眼』を見ないよう、固く目を閉ざした。
  
 女の視線が喉に粘着した、その一瞬。逃したチャンスは、もう一度だけ巡ってきた。