複雑・ファジー小説
- Re: エリスの聖域 ( No.4 )
- 日時: 2013/04/20 18:51
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: n/BgqmGu)
「——黙れよ。俺は、あんな風には死なない」
「えっ?」
総身に力を込め、見えない拘束に抵抗する。
眼を閉じていたのが功を奏したのか、それは案外にあっさりと破れて。女の虚を突き、春希は迷わずに目の前、つまり女に向かって肩から突進した。
「くぅ……!?」
突き飛ばした女の身体は、拍子抜けするほどに軽かった。よろめいた隙を縫って、そのまま前の路地へと走り抜ける。どこまで逃げれば良いかなど、そもそも考えていない。女に『食われて』いた人々の骸を跳び越え、角を曲がる。4人。みんな男で、中には裸に剥かれているものも見えた。深い意味を考える暇など無いが、何か酷く嫌な想像が頭をよぎった。
さて、どうする。
勿論、いくら近くとも、夏希のいる家には帰れない。万が一にも保護してくれる見込みはないが、交番にでも駆け込むか。もっと細い路地に入って、どうにか撒くか。
いや、分かっている。助けてくれる人も、機関も、安全な場所もありはしない。つまりは、この時代において。『夜』とは、人間にとって最悪に生き辛い環境なのである。
故に、そもそも。あの化け物を相手に逃げられるなんて、始めから考えていなかった。
「あはっ——そう。あなたは、今すぐ死にたかったのね」
来た、と思った時には、女の声は背中に貼り付くような近さで。
「く、しつこいよ、お前……!」
なんていう化け物か。半ば自暴自棄になったまま、春希は思い切り振り返りながら右の拳を放った。
顔にでも当たれば良し、外れても、今一度ひるませる事が出来れば良かった。その間に、また少しでも逃げる事が出来ると。そう思って繰り出した渾身の一撃だったが……それは結局、春希が『吸血鬼』というものを良く理解していない故の行動だった。
「が、ぁ……ぁ!」
——その刹那、繰り出された拳は二つ。
片方は虚しく空を切り、片方は春希の腹を容易く突き破って、背から内蔵を掴み出した。
「残念ね。あなたも、死ぬ前には『楽しませて』あげようと思っていたのに。でも、まぁいいかな。追いかけっこなんて久し振りで、なかなか楽しかったわ」
耳障りな甘い声が、耳元で囁く。
女に抱きとめられるような形になったまま、全身から力が抜けていくのが分かった。一瞬の出来事だった故か、あまり痛みもない。足元に信じられない量の血が水溜りのように広がっていくのを見て、ようやく春希は自分の間違いを悟った。
『吸血鬼』とは、決して逃れられない災厄。ならば一番の間違いは、やはり『夜の禁忌』を破った事だった。言葉を返せば、その時から自分はすでに死地に居たという事なのだろう。
「言い遺すことはある? あぁ、もう『お楽しみ』は無しよ。半死体を抱く趣味は無いの」
「は……」
朦朧とする意識の中でも、その物言いには酷く腹が立った。
この女は『人間』を何処までも見下している。血を啜る鬼になった自分を、ヒトより上の存在になったのだと誇示してすらいる。
ならば。せめて、その不遜に伸びた鼻をへし折ってやろうと、春希は精一杯の笑みを浮かべて。
「悪い、けど……お断り、だ」
「ん? なに、聴こえないわ」
「お断りだ、と言った。あんたみたいな『ブス』、頼まれても願い下げだって、ね」
言い終わるのと、激昂した女が春希の喉元に喰らいついたのは同時だった。
本音がよほど堪えたのか、それとも自覚でもしていたのか。まるで獣のように無様に獲物を漁る様子は、さっきまでより余程『吸血鬼』らしくて、何だか笑える。血を吸い上げられるのは悍ましいの一言だけれど、もう全身の感覚も薄れてしまっていた。それに、この身体にほとんど血は残っていないだろうと思えば、益々ざまぁみろといった感じである。
臆病者が勇気を振り絞った結果としては、これはそれなりに上等ではないか。これ以上、彼女には春希の人間としての尊厳を犯す事は出来ない。勝ち負けで言えば、きっと負けてはいまいと春希は思った。
目を閉じる。
もう何も考えられない模糊とした思考の中で——
「あぁ——ごめんな、夏希」
本当に言い残したかった言葉は、喉に溢れる血のせいで、どうも上手く声にならずに。
物心付いてから初めて見る、硝子越しでない『夜』の向こうへと消えていった。
(序幕・了)