複雑・ファジー小説
- Re: エリスの聖域 ( No.9 )
- 日時: 2013/04/22 16:49
- 名前: Lithics ◆19eH5K.uE6 (ID: 8keOW9sU)
灼けるような『渇き』。
それはきっと始めから、春希の『内(なか)』に在った。
こんなのは、一秒だって耐えられない。
次の一秒が来る前に、その次の瞬間が来る前に。早く、早く喉を潤さなければ、今にも気が狂ってしまう。抑えている箍(たが)が外れて、もっと正視に耐えない何かが今にも『内』から這い出てきそう。
水。いいや、違う。どんなに摂っても、渇きは癒えない。
塩。まさか、充分なくらい足りている。
脂。これも違う。ヒトを作る要素なら、どれも不足はしていない。
——だから、そう、例えば。
駅で見かける事故の痕。暗い夜道に斃れた男たち。そして、腹に大きな穴を空けられた『誰か』。その鮮やかな彩(いろ)が、目というより喉に焼き付いて離れない。
この時代、そこかしこに撒き散らされているモノ。朝、知らぬ間に街を彩り、昼間に消し去られ、夜中にまた塗りたくられる有り触れた色彩。
分かっている。それこそ正気の沙汰ではないが、認めるしかない。
赤く、滑らかなヒトの血。それだけが、この耐えようのない渇きを癒すものであると。
1/第一幕:日常(仮)
——正直な話をしよう。
もし。もしも、である。死後の世界というものがあるなら、最もイメージしやすいのは、なんといっても天国か地獄の二択だろう。そして、どちらにせよ、現実とは掛け離れていなければいけないと思う。それはそうだ。生前と同じような世界だとしたら、色んな意味で『地獄』過ぎる。
だとしたら、一体これはどうした事か。
春希が目を覚ますと、そこは酷く見慣れたベットの上だった。
「……えっと。うん、ちょっと落ち着けよ、黒須春希」
とりあえず、身体を起こして辺りを見回す。丁寧に掛けられたタオルケットを退けると、自分がいつもの寝巻きを着ている事が分かった。壁掛けの時計は5時、丁度日の出の時刻を差している。外は晴れているのだろうか。厚い遮光カーテンの合わせ目から洩れる朝日が、殺風景な部屋を仄かに赤く染めていた。
やはり間違いない。そこは地獄でも天国でもなく、あまりにも見覚えの有り過ぎる桐葉市の自宅。しかも、その二階にある春希の自室だった。
喉に手をやると、じんと疼くような『渇き』の名残りがある。
そういえば、そんな夢を見ていたような気もするが……それはどうでも良い。昨日の出来事が本当に在った事なら、それ以前に喉なんて半分くらい齧り取られて無くなっているはずだった。そもそも、死んでは夢など見られる訳もない。
そう、黒須春希は死んだ。殺された。他ならぬ春希自身が、そう思っていたというのに。
「死んで……ないみたいだな」
しばし茫然とベットに腰かけて、春希は纏まらない思考を纏めようと努めた。
五体は満足で、痛みはどこにもない。腹をさすってみても穴なんて空いていないし、喉には牙の跡もない。血だって足りているのだろう、頭そのものはすっきりとしていた。どうやって自室まで来たかの記憶がない事の他は、至って健康そのものである。
早くも煮詰まって、春希は右手の乾いた中指と親指を何度も擦り合わせ、かすかすと冴えなく鳴るばかりの指弾きを始めた。大学生にもなってみっともないが、物心付いた時からの悪癖ゆえに直しようもない。何故か、こうしていると不思議に心が落ち着いて考えが纏まるのだった。
「はっ。なんだよ、それ」
結局。こうなると、まるで昨夜の事など幻だったかのようで。
もしかしたら全てが夢で、自分は夢の中で夢を見て、そして今やっと目を覚ましたのではないか。
そんな都合の良い方向に考えが傾いていく、その時だった。
「ん……夏希、か?」
——誰かが、静かにに階段を上がってくる音。
妹が春希を起こしに来るのは毎朝の事だったから、その小さな音を聴き取るのは容易だった。やがて絨毯敷きの廊下に上がって足音が聞こえなくなり、直ぐに遠慮がちにドアがノックされる。
あぁ、いつも通り。日常の朝だ。その何故か懐かしい感覚に、春希は心から安堵を感じていた。
「ハル……?」
返事をする前にドアが開き、その隙間から夏希がひょっと顔を出した。
その小柄さ故か、近所でもマスコット的な扱いを受ける自慢の妹である。来月には15歳になるはずだが、まだまだ幼さが抜けないと思うのは、兄の目だからだろうか。おどおどとオロオロを足して二で割ったような表情をしているのは生まれつきで、目を伏せがちなのは癖である。
先天性の持病のせいで身体が弱く、あまり外に出歩く事はない為、まるで透き通るような色の白い肌をしている。それがまた小動物のような印象を強めているが、当の本人は「可愛い」と言われるのを嫌がる年頃で、兄としては扱いが悩ましい所だった。最近になってバッサリと切ってしまった黒髪は、春希と同様に母親ゆずりの綺麗な濡羽色をしていて、兄妹の自慢でもある。
「ははっ……おはよう、夏希」
「ぁ……」
夏希の顔を見た途端、身体中に安堵が広がっていく。
やはり、あんな惨事は夢だったのだ。自分は死んでなどいない。だとすれば残る問題は、途切れている記憶の事だけだろう。隣町から帰ったあと、自分はどうしていたのか。何故、記憶が無いのか。
丁度良い、まずは夏希に聞いてみるべきだと、春希は笑いかけながら口を開いた。
「あのさ。いきなりで悪いんだが、ちょっと聞きた……ぅお!?」
「ハル……ハルっ! 良かったぁ、起きたんだね!」
「な、なんだ? どうした、夏希」
しかし、その問いは夏希が勢い良く飛び付いてきた事で遮られて。
ベットに座っていた春希は、後ろに倒されないように脚だけで踏ん張って、夏希の体重を支えた。まだ子供で軽いと思っていた妹だったが、こうタックルされるとそれなりの衝撃があって、衝撃だけに少しショック……とか、そういう話ではなく。
夏希は思い切り不機嫌に眉をひそめて。春希に軽い頭突きを食らわせてから、一気呵成に捲し立てた。普段は大人しい分、こうなると簡単には止まらないと春希は知っていた。
「どうした、はこっちの台詞だよ! 何があったの、昨日。夕方になっても、『夜』になっても帰ってこないから、わたし、すっごく心配して……それに帰ってきたと思ったら、あんな格好でいきなり倒れるし!」
「きの、う……? 帰って、こない?」
——ぐらり、と。
視界が揺らぐような感覚がして、春希は無意識に腹を抑えた。
昨日、『夜』になっても帰らなかった自分。普通でないくらいに心配している夏希。なんだ、それ。それではまるで……
「ほら、これ!」
「な……!?」
夏希は春希から離れると部屋の隅へと歩いていき、そこにあった洗濯籠から何かを取り出してみせた。
「冗談、だろ」
それは血塗れで本来の色を失った、春希のシャツだった。
腹部から引き裂かれるようにして、背中までの大きな穴が空いている。間違いなく、春希が昨夜に着ていたものだ。
認めたくは無かった。それが在るという事は、昨夜の記憶は全て正しかったという事になるのだろう。今更のように、腹を突き破られる感覚をリアルに思い出して、春希は込み上げる吐き気を抑えた。
頭の中はぐちゃぐちゃで。指が痛いくらいに擦りつけても、少しも考えは纏まらない。
「お願い、ハル。何があったのか、教えて」
じっと見つめてくる夏希から目を逸らす。
何があったのか、それは春希が知りたいくらいだった。分かっている事といえば、それは……黒須春希は一度死に、そして生き返ったらしい、という荒唐無稽な事実だけである。