複雑・ファジー小説

第13話 感触 ( No.14 )
日時: 2013/05/11 17:31
名前: 聖木澄子 (ID: b5YHse7e)

 光が収まると同時、とん、と軽やかな靴音が部屋に響いた。
「……ん、ぁ、え?」
 エルの机の前には、柔らかだがどこか食えない笑みを浮かべた、かなり長身の男がいた。海の色を思わせる青色の髪、透き通るような青色の瞳、そして赤ぶちの眼鏡。レオとほぼそっくりの顔立ちだが、その雰囲気は彼女よりもどこか妖しげだった。
「ん……? 見慣れぬ男がいるようだが、エル、コイツは誰だね? また惜しいからといって拾ってきたのか?」
「いや、ショウが間違ってぶっ殺した。さてこの飲んだくれ、さっさと自己紹介と仕事をしな」
 エルの、ショウやマリアさん、レオやアイルや俺へとは違う、一見雑極まりないが信頼が微かに覗く態度。言葉こそぶっきらぼうだが、それはこの青年を嫌うからではなく信頼しているからだと、兄としての経験から察する。
 ふむ、と青年は一つ頷き、俺へと向き直った。レンズ越しのどこか油断ならない目つきが俺を見据える。
「僕はツバキ・ヴェリアサファイア。ご覧の通りそこの彼女、レオの実兄だ。死神としてのランクは聖五位、そのうち煌(こう)を司る者でね。
 ああ、それとだな——」
 一瞬言葉を切った、と思った瞬間、俺の本能は瞬時に次にくる"モノ"を察知していた。脳が思考するより早く、ツバキがどこからともなく大剣を手にするよりなお疾く。俺の右手は、刀の柄を握っていた。
 カァアンッ!!
「ッ、く……っ!?」
「なっ、ちょっ、兄貴!?」
「——ほう? 受けたか」
 音もなく鞘から放たれる鋼、刃と刃が触れ合う金属音、そして金属音と同時に両手を容赦なく襲う痺れ。本能に次ぎようやく理性と思考が『斬りかかられた』という事実を認識した瞬間、俺はぞっとした。
 ——忘れた、はずだったのに。
 気付けば、鞘を走らせていた。気付けば、何の違和感もなく刀を打ち合わせていた。その事実はまるで、体に染み付いた癖は、体に染み付いた臭いは、何よりも犯した罪は、いくら善行を積んだとしても贖えるようなものではないと俺につきつけるかのようで——びちゃりと、頬にあの時の血が飛ぶ。
「ッ!?」
 あまりの嫌悪感と産毛が立つような怖気に、精一杯の力をもって切り払う。ツバキの大柄な体躯はそれに抗うことはせず、ひらりと同じ場所へと舞い戻った。おそるおそる左手で頬に触れる——嗚呼、錯覚だ。頬に血などついていない——だというのに、掌には、はっきりと気持ち悪い血の感触が残っていた。
 ガスッ
「何やってるのよ兄貴!? 光はまだここに来たばかりなのにそんなことしてっ!! この、バカ兄貴ッ」
「いてて、ちょ、やめ、レオ、お前の身を思ってやったこと、ってちょっとやめたまえ本気で痛い痛い痛ぁッ!?」
「……ぁ、……」
 レオとツバキの言い合いで、目が覚めた。気付けば掌の感触は跡形もなく消えていたし、勿論血なんて一滴もついてはいなかった。錯覚。そうだ、錯覚だ。あの時の血が、今になってついているはずがない——。
「大丈夫かい? 光兄」
「あ、ああ。……大丈夫、だ」
 刀を鞘に収め、ソファに沈む。そんな俺と姦(かしま)しい兄妹を尻目に、エルの瞳は、俺の何かを見透かすかのように細められていた。