複雑・ファジー小説

Re: 君を、撃ちます。 ( No.42 )
日時: 2013/12/08 19:39
名前: 柚子 ◆Q0umhKZMOQ (ID: YNBvTGT8)

 車に揺られ、景色が流れていく。ビル、ヒト、キ。曇った空から少しずつ少しずつ雨が落ちてき始めた。空が泣いてしまっている。一度だけ読んだ、蟻という作者の『オオカミは笑わない』という文庫本の一部分を思い出した。

『ねぇ、オオカミさん。お空が曇っているよ。
 ねぇ、オオカミさん。オオカミさん、泣きそうなの?』

 ヒツジとオオカミの物語だった。ほのぼのとした日常の話だったけれど、だんだんと移り変わり、オオカミはヒツジを庇って死んでしまう。ヒツジは大好きだったオオカミを亡くし、いつも空を眺めてオオカミのことを思い出していた。相容れないモノが詰まっている。その本は、物語として最高のものであった。
 今は、まさにその部分のようであった。僕がヒツジで「彼」はオオカミ。「彼」の実態も何も分からないまま、「彼」は空へと昇り、乗り移った感じだ。

 ——僕が、見えるかい。

 頭の中で、空に語り掛ける。もしかしたら「彼」が反応してくれるかもしれないと、どこかで期待していた。もう一度だけ、「彼」と話をしたいと、心から思っていた。
 僕が知らない世界を、「彼」は体験している。喜怒哀楽を思ったままに出して、声を上げて笑い、たくさんのことを話している「彼」をもっともっと知りたい。僕の知らない「僕」を見せてくれた「彼」が、脳裏にしっかりと焼きついて離れないのだ。

「ねえ、××。今日の晩御飯、椿木ちゃんが作ってくれるみたいなの。スーパー寄らなくてもいいんだけど、何か食べたいものある? あるなら、寄るわ」

 ルームミラー越しに僕と視線を交えようとした「母親」と視線を交えずに、僕は小さく横に首を振る。「椿木」が晩御飯を作ってくれると聞いただけで、空腹に近かった胃の中は一気に満腹感に襲われた。

「そう、それじゃあ真っ直ぐ家に帰るわね」

 此処から遠いのよーと「母親」苦笑交じりに言う。この病院にきたときのことは覚えていないから、どれくらいの時間がかかるのかは分からない。僕は珍しく、その言葉に小さく頷いて窓に頭の重みを預けた。




「ついたわよ、××」

 「母親」の声に、僕はパッと目を覚ます。いつ寝たのか、全く覚えていなかった。寝起きで少しだるい体に鞭を打ち、ゆっくりと車から降りる。相変わらず足の筋力は少なく、力が入らずに、立つことができないまま芝生に倒れこんだ。
 
「××!? 大丈夫? ゆっくりでいいから。ほら、肩貸してあげる!」

 驚いた「母親」の声が聞こえてから、車のドアが閉まる音がした。僕の視界に広がっているのは、まだ青い芝生の色。感じたのはぽつりと降っている雨。
 車の冷房で少し冷えていた体は、雨の冷たさに負け体温が下がっていっていく。風が吹いていないのだけが、幸いだ。「母親」に、肩を貸してもらい、ゆっくりと立ち上がる。穿いていたズボンと呼ぶには貧相なものは、雨粒にぬれて色が濃くなっていた。

 僕の歩く速度にあわせて歩いていくれる「母親」に、普段なら考えられない感謝の気持ちが僕の心に溢れている。なんだか温かい気持ちで、不思議だった。奥からぽかぽかと暖かくなってくるような、感じがする。
 気付いたら目尻から感じなれた涙が、流れていた。ありがとうを伝えられない代わりに、そっと流れていく。今までの冷たい涙とは、まったく違う温かいそれ。少しずつ強くなる雨のおかげで、「母親」には気付かれなかった。

 解錠し、扉を開けて、家に入る。かぎ慣れた淡いラベンダーの香りが、ひどく懐かしく、綺麗だと感じた。何も感じていなかった匂いは、知らないうちに僕の記憶の中に刻み込まれている。この事実に、とても安心した。
 僕の知っている世界に、ようやく帰って来る事が出来た。心からそう感じている。

 ——ただいま、僕の、小さな世界に。

 いつもより時間をかけて、ゆっくりと瞬きをする。
 いつもと違う、僕の世界は美しかった。