複雑・ファジー小説
- Re: 【第二幕】ケイオズミックス・ホラーズ【開幕】 ( No.18 )
- 日時: 2014/07/23 03:59
- 名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: DgbJs1Nt)
【第二幕:水歩く音】
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何処か遠くで、家の中からと言うのは分かっているが、その書斎からは酷く遠い場所でぶつかりあう食器の音を聞きながら、彼は手にしていた本を置いて頭を抱えた。
その書斎は元々祖父のもので、この家、と言うよりは屋敷と呼んだほうが正しい様な家も祖父のものだ。 父は母と駆け落ちした為に勘当だれたが、その父が召集に応じて戦死すると、祖父は大層彼の事を可愛がった。 結局母と祖父の軋轢は埋まらなかったが、同じような時期にそろって病死したのは何か運命的な繋がりのようにも思えた。 少なくとも彼にとってはささやかな運命の繋がりに感じられた。
そうして、大地主だった祖父の遺産の殆ど全てを相続した彼は、若干二十歳にして働く必要もなく、元々好きだった読書に全ての時間をつぎ込む祝福を手に入れた。
勿論、彼は一介の青年で、父を亡くしてからは家計も厳しかった為、そのような恵まれた環境を、言うまでもなく誰もが羨む様な生活に舞い踊るほど喜んだ。 そう、喜んだのだ。
祖父の集めた莫大な蔵書、図書館として運営できそうな蔵書を祖父の愛した小さな書斎で片っ端から読み漁る。 その幸せを彼は噛みしめた。 なんと自分は恵まれたことだろうか。
だが、何かが違った。 何かはわからない。 ただ、五感よりももっと深い、それをなんと呼ぶかは分からないが、強いて言うならば本能が鳴らす警鐘とでも言おうか。
この屋敷は、何かがおかしかった。 ただ、何かはわからない。
だが時折感じるのだ。 何か、彼の知らない何かが潜んでいる。 勿論、彼以外にも屋敷には使用人が居る。 だがそうではない、もっと異質な、眠りに落ちようと目を瞑っている様子を、誰かにじっと凝視されているような生理的に不快な感覚が。
彼は頭を振って意識を本に戻した。 何てことはない、有り触れた流離譚に視線を落す。
そう言えば、最初にあの不快感覚に遭遇したのはこの書斎だった。 だが何処にも異常は無かった。 三階の書斎は外からは殆ど見えないし、壁に妙な穴もない。 丁度されてるのも机と本棚とライトスタンドだけだ。
どうにも腑に落ちなかったが、彼は極力その不快な感覚を気にしないことにしていた。 触らぬ神になんとやら、と言うやつだ。
* * * *
大きな屋敷には大浴場の様な風呂があった。 濛々と立ち込める湿気と湯気と、水の跳ねる音が酷く木霊する、ただ広いばかりの浴場。 石造りの床が、ほんのりと冷気を持って足の裏から熱った体を冷やす。
彼は入浴が好きだった。 読書で凝った首や目が徐々に解れていく感覚や、湯から上がった後の何とも言えない倦怠感、音もなく苦痛も伴わない、水圧による幸福な拘束感。
ハンマームなどと呼ばれる、ローマ王朝文化を模したと思われるこの浴場が彼は好きだった。 祖父の残した屋敷は一貫性が無く、中東文化の様でもあり、西洋文化の様でもある。 蔵書も一貫性が無くて、彼は日々心躍る思いだった。
風呂を出たら、この風呂に関する本でも探してみよう。 そう、思った時だった。
——びたん。
水の跳ねる音の中に、何か異様な音が響いた。
——びたん。
何の音だろうか? 廊下の方で鳴っている様だった。
——びたん。
音が少し近くなり、彼は浴場の戸を凝視した。 水の跳ねる音を掻き消すように、自分の心音が聞こえた。 早鐘のように。
彼は目を見開いて、自分がとても無防備なことを知った。 手元にあるのは小さな桶とタオルが一枚。 後は身一つだ。
あの音は何だろうか? 水を一杯に含んだスポンジを落としたような、異様な音。 だが、もっと重たいものが落ちた音だ……。
湯気の立つお湯に身を浸しながら、彼の背筋は悪寒を覚え、顎まで浸っているのに全身が震えていた。 嗚呼、あの感覚だ。 何かが、じっとこちらを見ている、あの不快な。 視界を遮るほどでもないのに、立ち込める湯気の向こうから覗かれている様な気にさえなる。
だが、暫くするといつもの様にその気配は跡形も無く消え去った。 何が起こるわけでもない、ただ不快な感覚が襲い、唐突に去っていく。 それだけだ。 だが、それだけだからこそ恐ろしかった。 何がある訳でもないからこそ、彼はその気配の正体も意思も分からなかった。 何をどうすれば良いのかも分からなかった。
結局、彼に出来たのは一目散に浴場を出て、誰の制止も聞かずに寝室へ逃げ込んで、震えながら眠りに落ちることを待つ、それだけだった。
