複雑・ファジー小説

Re: 【第二幕】ケイオズミックス・ホラーズ【開幕】 ( No.20 )
日時: 2014/08/18 22:43
名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: DgbJs1Nt)

1-2

*  *  *  *

 気付けば、男が来てからあの不快感は一度も襲って来なかった。 やはり彼の思い込みか、何か精神の疲労か、もしくは少し部屋に篭り過ぎていて、少し神経が過敏になっていたのかも知れない。 そう思うと、何とも下らない事に自分は躍起になって居た気がする。 何だか妙に肩の荷が下りた気になって、彼は随分と久々に清々しい気分で書斎に引き上げた。 そしていつもの様に書庫塔から持ち出した本を読み、すっきりとした疲労を感じていた。 その時だった。
 一寸見やった窓の外、屋敷の庭の木々の間で何かが動いた。
 別段、何かを探すような、何かを見ていたわけではない。 ただ、心地よい疲労を首と肩に乗せて、窓の外へ視線を向けただけだ。 なのに、何かが見えた。 それは彼の好奇心を刺激し、彼の恐怖心をも刺激した。 だがその恐れは未知なる物への恐れではなく、リフォーム業者の男が証明した不可解な点は無いという現実に支えられた、もっと物理的な恐怖だった。 それは即ち、物理的に払拭できる恐怖だった。
 彼は廊下へ出て、壁に掛かったマスケット銃を手に取って——それは飾り物で弾が入っていないことを思い出したので、玄関まで走って祖父のウィンチェスター銃を手にして書斎へ戻ると、庭に何が居るのかを見極めようと書斎の窓を開けた。
 夕日も落ちた庭の木立は不気味に風の囁きに身を揺らしていたが、書斎やその他の部屋から洩れる明かりは充分に庭を照らしていたし、手の中にあるウィンチェスター銃は二階の窓から十分に庭が狙えて、そしてその距離で充分な破壊力があることを彼は知っていた。
 野犬だろうか? それともこそ泥か? どちらにしても彼の中で今、物理的な現実の証明を糧にして、大地主としての威風が成長していた。 例えばこそ泥だったとして、もしくは覗きの変質者だったとして、もしくは枷の外れたイキ過ぎの馬鹿なカップルだったとして、もしくは小汚い浮浪者だったとして、問答無用で撃ち殺して何の問題があろう。 ここは私有地だし、自分は人望厚い大地主の家の跡取りだ。 誰が騒ぎ立てよう。 そう思い至った時だった。

——がさり。

 そんな音と共に、屋敷の照明と庭の植木が落す複雑なチェック模様の中に——ソレは飛び出した。 ソレが何と呼べるものだかを説明するのは難しく、それを理論的、もしくは物理的に、冷静に分析するのは更に難しかった。 だが、そんな鬱陶しい脳内処理よりも早く、意識を超越した本能がウィンチェスター銃の引き金を引かせ、爆発音にも似た重たい発砲音が響いて、二百三十三グレインもある弾頭が火を吹いて飛ぶと、ソレは驚いたように飛び上がって再び木立の闇へと消えた。 彼の撃った弾が当たって吹き飛んだのかも知れないが、そんな事を考えている余裕は無かった。
 あれは何だったのか……彼は新しい弾丸を装填することも忘れて、今見た光景を仔細に思い出そうと勤めた。 屋敷の使用人たちが駆け回って、何かを叫んでいるのが聞こえたが、彼の耳には届かなかった。
 あれは、そう、まず淀んで、飛び出した目があった。 それから鰓の様な筋があって、だが口は蛙の様だった。 ヌメヌメとした粘液で腕が光っていて……あれは鱗か? 手にも水かきがあった様な気がするが、そんな事はどうでも良い! あれは二本の足で立っていて、人間の服を着ていた!
 彼は窓の外へ思い切り嘔吐した。 あんなに不快なものは見た事がなかった。 何が不快なのか? ヒトに似た化け物が居た! あれは、ヒトに似ているんだ! それが何より不快で、そして恐ろしかった。
 そうしている間に執事が——父の幼少の頃を知っていると言う老齢の執事長——がやって来て、驚いたように彼の手からウィンチェスター銃をひったくってから何事かと聞いた。 彼はことの次第を話した。
 そうすると執事長は大いに笑って、年寄りをからかわないで下さいと彼の背を叩いた。 それから、一言申し出た。

「では一緒に庭まで検分に行きましょう。 きっと野犬か何かの死体が転がっていますよ」

 執事長は物腰柔らかく、知的な男だった。 彼は執事長と一緒に庭に出た。

「ほら御覧なさい! 何年か前からここら一帯は野犬が酷くて。 今度街に出たら警察にでも苦情を言って参りますよ」

 執事長の言うとおり、庭の、例の木立の間には綺麗に頭の無くなった犬の死体が転がっていた。 痩せ細った、薄気味の悪い犬だった。 近くにはバラバラになった肉片と、バケツを引っくり返したような血の海があった。

「さあさあ、屍肉に他の野犬がやってきますから、私が片づけをしておきますよ」

 執事長に促され、彼は少しだけ安堵した気分で屋敷へと戻ることにした。 だがその安堵はぬらりと光る葉を見つけるまでしか続かなかった。 あの化け物の粘液か? それとも……犬の頭が微塵に吹き飛んだのだ、脳漿か? 少なくとも、彼はそれが犬の頭の中身だとか、犬が粗相をした形跡だとか、そういうものだと期待することしか出来なかった。
 執事長は何事も無く後始末をして、屋敷へ戻ってきた。