複雑・ファジー小説
- Re: ケイオズミックス・ホラーズ(短編詰め合わせ予定) ( No.5 )
- 日時: 2013/04/27 13:33
- 名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: CymMgkXO)
- 参照: 僅かな疑問と、消えぬ痣ばかりが残るのは、夢の終りが唐突だから。
1-3
* * * *
——夢から醒めて私は自分の首を擦る。
そこにはありありと手の形に痣が残っていた。 あの化け物に締め付けられた痕が。
ホテルの寝室はいつの間にか汗をかくほどに暑くなっていた。 カーテンの隙間から差す陽射しが、室温を上げると同時にほんの束の間、私の心を和らげる。
貪欲に深呼吸をして、私は緩慢な動作で上体を起こすと、そのまま靴を脱いで私は洗面所向かう。
ぺたりと汗ばんだ足が床に触れると、ひんやりとした心地よさが全身を駆け巡る。 その感触が束の間だけ私の心を包み込むと、すぐに体は叫び声を上げた。
私は駆ける事も忘れてその場で盛大に嘔吐する。 あの制服を着た悪魔の薄ら寒い醜悪な笑み、それが脳内で再現されるだけで、私は胃の中の物体を全て絞り出し、震えながら這いず事しか出来なくなった。 ルームサービスを頼まなければ、等と考える余裕さえない。 私は兎に角必死で洗面所へ這った。
脱衣場を越えて浴室へ服も脱がずに転がり込み、私は目一杯シャワーの蛇口捻る。
このまま永い、永い眠りについてしまえば、あの男の恐怖から逃れられる。 嗚呼、このまま溺れ死んでしまいたい。
そんなことをぼんやりと考えた私を、電話の音が遮った。 けたたましく鳴り響いたのは、ポケットに入れっぱなしになっていた携帯電話だ。
濡らさない様に着信を受けると、刑事の怪訝な声が聞こえた。
「シャワー中に電話か?」
確かにそれは可笑しな事だった。 それにさえ気付かないほどに私は消耗しているらしい。 これはまずいと思い、私が悪夢の事を話すと、彼は呆れとも失笑ともつかないモノを溢してから、急に真面目な声になった。
「きっとまだ弟さんの死に動揺してるんだろう。 彼の部屋を見てみたらどうだ? あそこの検証は終わった、案内するよ。」
そんな刑事の言葉に、私は急激に現実へ引き戻された。
正直、弟の葬儀で随分と出費が重なった。 一般的会社員である私にとって葬儀費用は決して安い額ではない。
遺品を整理して、処分できるものは処分し、売れるものは売ってしまおう。 結局私は、刑事を朝食へと誘い、そのまま案内を頼むことにした。
それが、一番良いことに思えたのだ。
* * * *
刑事は食事をしながら散々に愚痴た。 葬儀に出席していた弟の友人を片っ端から取り調べたが、皆異口同音に同じ様な事しか言わないらしい。
「奴等が言うには弟さんは大層なオカルト狂で、見ちゃあならない"向こう側"の知識を手に入れたせいで闇の魔物に魂を奪われたらしい。 そんな馬鹿な話があってたまるか。 黒猫とブードゥードールで人が殺せるなら、オレはとっくに弟さんを殺した犯人を呪い殺してる。」
今までの紳士的な振る舞いだけは崩さずに、刑事は肩を落とした。 葬儀の後、私も何度か弟の職場へ電話を掛けたが、職場での認識もだいたい同じ様なものだった。 突然オカルト、それもチンケなゴシップ記事の様な物理的根拠の欠落したチープな邪教の研究に没頭し始め、段々と仕事中にも熱っぽくそれについて講義を始めるようになった。 そんな弟を周囲が好奇の目で見たことは言うまでもなく、疎んでいた事も事実だった。 だが弟はそれを気にする風でも無かったらしい。 自分のオカルト研究に一種の矜持を持っていたものか、弟は周囲が何を言ってもその研究をやめることはなかった。 その結果、段々と仕事の段取りが悪くなり、業績も落ち、そろそろ肩を叩かれるのは時間の問題だったようだ。
だが、弟は突然辞表を出して消えた。 職場にも勿論例外的なオカルト好きが居て、友人が全く居なかったわけではないらしい。 それなのに、弟はそういった人々に何を伝える事もせずに消え、何度か彼らがコンタクトを取っても全く音信不通だったそうだ。
まだ実家に住んでいた頃を思い返すと確かに弟はホラーが好きだった。 映画はよく一緒に観たし、弟の部屋にはオカルト本やホラーに対する評論の本も沢山あった。 枕元には不気味な怪物の置物なども幾つか有ったが、それでも弟は盲目的なオカルト狂信者ではなかった。
弟はどちらかと言うと理系の人間だったし、何より彼はオカルトが好きだったからこそ、荒唐無稽な出鱈目には酷く批判的だった。 少なくとも、私に知っている弟は。
私は、少しだけ迷ってからその事を刑事に伝えた。 刑事がオカルト趣味に偏見が無いことを祈りつつ。
だが私の告白を聞いて、刑事は少しだけ悩むように眉根を寄せるだけで、特に何を言うでもなくテーブルに残るハムエッグにフォークを刺した。 そして肩を落とすようにして溜め息を漏らす。
「弟さんの部屋は普通だった。 腐乱死体があった以外は何処にでもあるアパートの一室だったよ。 確かに凝った本は色々有ったが、黒魔術の傾向は無かったし、鉤十字もヒトラーの写真も無かったよ。」
そう言って小さく笑う刑事のユーモアに気付くまで、私は暫く時間がかかった。
刑事の言葉の最後は完全にジョークだ、悪夢に魘される私を気遣ったものだろうか。 そんな刑事に微笑み返して、私は少しだけ安堵していることを知った。 また彼に助けられてしまったようだ。
「さあ、弟さんの部屋に行こう。 まだ所持品の内の幾つかは警察で預かっているが、家財品は殆ど戻した。 部屋を引き払うなら、掃除もしないとな。 夢を怖がってる場合じゃない、家財品を処分するのは案外大変だぞ。」
そう言って席を立つ刑事は、軽く笑いながら私の背を叩く。
そう、現実にはまだやるべき事が山積しているのだ、他愛ない夢に怯えている場合じゃない。