複雑・ファジー小説
- Re: はきだめと方舟 [短篇集] ( No.13 )
- 日時: 2014/02/22 22:08
- 名前: 柚子 ◆Q0umhKZMOQ (ID: BoToiGlL)
「おい、汚物。ちょっと顔貸して」
終業のチャイムが鳴ってすぐ、教室の引き戸が開いて名前を呼ばれた。高い声から、女だと分かる。周りの同級生達は「またか」とでも言いた気な表情で、知らん振りを決め込んでいる。相変わらずの汚い世界。溜息をひとつ吐き、机上に広がる教科書をカバンにしまい、立ち上がる。敢えて教卓の前を通った。教室中から向けられた視線は冷ややかだ。
態々開けてくれた扉を通り、廊下に出ると、教室とは比べ物にならない寒さに、思わず眉間にしわがよる。ジャケットを置いてきたことを、少しだけ悔やむ。
「ちゃんと着いてこいよ。逃げたらぶっころすかんな」
高い声で、威嚇するように言っている様がなんだか面白い。特に逃げる理由も無いため、二人のあとについて歩いていく。一人なら逃げることも出来たが、二人だとは思わなかった。寒さに体を震わせる。こんなに寒いのに雪は降らないのかと、外をぼんやりと眺めれば雨が降っている。LEDの電灯が長い廊下を照らし、同じように窓ガラスを照らしていた。
多量の雨粒がきらめいた。なんとものん気で腹立たしい。今、雲から降り落ちるそれらのように、忙しなく動けばいいと心中で毒づく。
階段を下りていくと、僅かな喧騒と小さな人だかりが出来ていた。終業してあまり時間も経っていないのにも関わらず。先導していた二人の女子生徒も、その中にすうっと吸い込まれていく。人だかりの中心にいたのは、大嫌いな男子生徒——空気清浄機——だった。黄色い声の中に向かっていくと考えただけで、気持ちが悪くなる。溜息をもう一つ吐き零して、階段に座り、カバンから『夢十夜』を出した。
漱石の美しい世界に浸ることができる、一番気に入っている本だ。栞を取り、漱石の世界に浸る。黒い瞳。死んだ女との約束と、儚く白い百合との再開。使われる言葉の全てが無駄の無い、美しいものだ。一頁、また一頁と読み進める速度が上がっていく。そうして夢中で本の世界を追っていると、本に影が落ちていた。
本を閉じ、顔を上げ影の主を見上げる。下半身までで、目の前に男子生徒、その後ろに女子生徒が二人いるのが分かった。ゆっくりと更に上へ、上へと首を傾ける。目の前の男子生徒の顔が分かった瞬間に、沸々と湧き上がった嫌悪感を露にしてしまった。空気清浄機が、いるとは思わなかった。後ろにいたのは先ほどの二人。見下ろされるのが嫌で、カバンを肩にかけて立つ。じっとりと空気清浄機を見れば、凛々しい瞳が見返してきた。
無言のまま数秒ほど見合う。目線だけで何か言われた気がしたが、興味はないので気にしない。意外にも先に折れたのは、空気清浄機だった。視線をはずし、中指を突き立てて階段を上っていく。どうやら空気清浄機を見るだけで、拒絶反応が起こるようで、(言い様のない)吐き気に襲われた。
「……どこまで連れて行くつもり?」
空気清浄機の後姿をうっとりしながら見つめる二人に、問いかける。そんなに清浄機はかっこいいのだろうか。二人ははっとしたように肩をビクつかせ、バツの悪そうな顔をし階段をバタバタと下りていく。向かったのは体育館のほうだった。再び溜息を一つ吐き、浮かんだ考えを外に吐き出した。雨はいっそう強く降っている。
◇
「ったく」
大きな音を立てて、椅子に座る。周りの求める『かっこよく優しい人』というイメージが、鬱陶しくて、たまらない。
「せーじょーき、お目当ての子には会えた?」
「会った。けど、連れがいたから戻ってきた」
机においてあった炭酸飲料を、ぐいっとあおる。目の前の友人に、理不尽な苛立ちを覚えた。俺がこんな姿を晒す相手は、本来ならお前じゃない、そう言ってやりたい。そう思いながら、ポテチを食べる。うすしお味。好きな味に、少しだけ機嫌は良くなった。
俺が想っているにも関わらず、汚物はきっと誰にでも股を広げる。根拠の無い考えが頭をよぎると、胸が苦しくなり、腸が煮えくり返るほどの怒りがこみ上げる。それくらい、俺は汚物に惚れていた。もう一度炭酸飲料を飲み、立ち上がる。
「帰る」
「嘘吐き」
目の前の友人を睨む。飄々とした笑みは、その顔から消えていた。心の全てを見透かしているような、陰のある笑み。図星をつかれた事実を隠そうと思うが、口からは何も言葉が出ない。口を開けば、自ら墓穴を掘りそうだ。
「会いに行くくせに」
その言葉の一つ一つが、ゆっくりと聞こえ、ずしりと俺の心の中に溜まっていく。じっと友人の顔をみると、猫のようにニヤッと笑う。相変わらずの、くさい笑顔。
「行ってこいよ。手荒にしてやんなよ? 空気清浄機」
「うっせーよ。つーか、お前は瀬良って呼べよ。清浄機呼びは汚物だけだ」
吐き捨てるように言い、カバンとジャケットを持ち扉を開ける。背中に届いた「分かったよ、梓ちゃーん!」の声には、中指だけを返しておく。この関係が、どうしても心地よく、やめられない。もしかしたら、心のどこかで浮気をする俺を、汚物は嫌いになったのかもしれない。
先ほど汚物と会った階段を下りる。物があまり入っていないカバンは軽く、ぽんぽんと背中をはねていた。汚物のカバンはどれくらい重いのかを考えながら、女子生徒が言っていた特別教室へと向かう。
◇
沢山の小さな世界が一つに重なっていく。そう思ったら、その世界は何倍にも膨れ上がる。外は変わらず雨が降っている。外も中も、何も変わらない。肩がだんだんと痛くなり、床にカバンを置く。溜息を吐いただけで、こっちを見る女子生徒たちの視線が鋭くなった。
「あんたさ、汚物の癖に何様なの?」
偉そうな口調で、声を発したのは違う学年の生徒だった。何人かのグループで歩いていたのを、前に一度だけ見たことがある。受け答えが面倒で黙っていたら、更に視線が鋭くなった。いい加減、迷惑だから止めてほしい。勝手に呼び出して勝手に怒るなと言いたい。
「あんたのせいで、梓くんと話せないんだけど」
勝手に話せば良いじゃないか。そう言おうと口を開こうとしたが、出す寸前で粉々に崩れ去った。遠くの窓に映る外は、更に雨が降っている。雷が落ちそうな気がした。
「空気清浄機は——誰にでも優しいよ。話も、してくれるはずだよ」
静かに目を閉じ、ゆっくりと言葉を吐いた。
暗い暗い世界に写るのは、誰にでも笑顔と愛想を振りまく空気清浄機の姿。どうやら周りの女子生徒たちに、嫉妬していたみたいだった。誰に何を言われても、今はどうでもいい。どうせ、願わなくても空気清浄機はやってくる。
「……俺は、誰にでも優しくねーぞ」
ガラガラ、と引き戸が開く音がした。ゆっくりと、視界に光を入れる。外の雨は、少しだけ弱まってきていた。目を開くと同時に、女子達の黄色い声が鼓膜を振るわせた。誰にでも人気な空気清浄機が、ひどく羨ましいと思ってしまう。
「清浄機。もし僕を好きにしたいなら、後で好きなだけ殴りなよ。清浄機から向けられる暴力は、少しも痛くない。たまった鬱憤は、雨に濡れた黒い猫に発散してよ。待ってるから」
それだけの言葉を置いて、カバンを持って部屋を出る。後ろで聞こえた空気清浄機の、僕を呼び止める声は聞こえない振りをした。
生徒用玄関に行く頃、雨はまた酷く降っていた。遠い昔に見た、雨粒にうたれ濡れ鼠になった黒い猫を思い出す。抗いようの無い力に、屈しなかった黒猫を。雨の強さに、その黒猫は涙を流していた。成猫ではない、小さな黒猫だった。
脳内を駆け巡る過去を思い出しながら、靴を履き、傘を手に取る。玄関から出ると、思っていたよりも強い雨粒の勢いに気圧されそうになった。
僕は何度目か分からない溜息をはいて、
■雨と黒猫