複雑・ファジー小説

Re: 【散文】コワレモノショウコウグン【掲載中】 ( No.22 )
日時: 2013/12/07 12:27
名前: 夕凪泥雲 ◆0Tihdxj/C6 (ID: FvI/oER9)
参照: 元唯柚。

【この種を孕んで —青い鳥籠—】


 少し開けた窓から、春の柔らかい風が入る。
 ゆらりと顔に触れる髪がくすぐったくて思わずクスリと笑うと、丁度検温を済ませた看護師さんが「どうしました?」と首を傾げた。

「髪がくすぐったくて、思わず」

 子供っぽく見られてしまったかもしれないと思うと、恥ずかしくて顔が熱くなった。
 看護師さんはそんな私を見てつられるように笑う。
 不思議な気分だった。入院し始めたのはつい昨日や一昨日くらいの事なのに、ここの病院の温かい空気はもうずっと前からいるように、私に馴染んだ。
 まあ、ずっと前から病院にいるなんて、実際はあまり良いものじゃないんだけど。
 というか、もう日付感覚無くなっちゃってるなぁ。まだ何カ月も入院しなきゃいけないのに、社会復帰出来るか今から心配になる。

「今日も異常無し、ですね。……それじゃあ、またお昼に来るんでなにかあったら呼んでくださいね」
「分かりました。ありがとうございます」

 部屋を出ていく看護師さんを笑顔で見送る。
 カチャリというドアが閉まる音がして、部屋は私一人になった。

「…………」

 なんとなしに、お腹を撫でてみる。
 シーツとパジャマ、それに自分の体を挟んで自分以外の命があるというのは、不思議な感覚だった。
 少しだけ、不安だし怖い。でも、それ以上に守ってあげたくて、幸せを約束してあげたい。
 それは今まで経験していたどの感情とも違う、静かだけど希望に溢れて、とても強い気持ちだった。
 顔を見るのが待ち遠しくて、この気持ちを一足早く伝えたくなる。

「君のお陰で、私は強くなれたんだよー」

 だから、はやくこの幸せな世界に出ておいで。

          ☆

 来客があるというのを聞いたのは、お昼を食べる直前。食べ終わったら庭に散歩にでも出ようかと思った時だった。

「昼日向さん、お見舞いの方が来てくれているんですけど、会われます?」
「……? お見舞い、ですか?」

 誰だろう? 交友関係は決して狭くはないけど、ピンとくる人がいない。
 私が首を傾げたのを見て、看護師さんは察してくれたらしい。昼ご飯の食器を全てベッドについた小さなテーブルに置くと、少し考え

「えーっと、確か名前は……羽瀬川瀬良さんっていってましたよ」
「えっ、瀬良ちゃん!? じゃなくて、羽瀬川さんですか!?」

 思わず身を乗り出して大きな声を出すと、看護師さんに「取り敢えず落ち着きましょうか、ね?」と宥められた。恥ずかしい。

「すいません、思わず……。学生の時からの友達なんです」
「そうなんですか。では、先生に面談の許可を出してもらいましょうか」
「宜しくお願いしますっ」

 この病院は念には念をと、主治医の先生に許可を貰わなければ面会は出来ない事になっている。今回は先生も快く許可を出してくれたらしい。
 結局、今日は体調も良いし、折角来てくれたので少し待ってもらって、お昼を食べたら午後の検診まで面談させてもらう事になった。

「それじゃあ、食べ終わったらお連れしますので呼んでくださいね」
「はい、分かりました」

 笑顔で出ていく看護師さんを見送ってから、手を合わせて「頂きます」
 ここの病院は病院食がとっても美味しい。そういう面も含めて『彼』はこんな良い病院を探してくれたのかと思うと嬉しいけど、同時に『彼』の心配性ぶりに苦笑が漏れた。
 私のお腹はまだ膨みが目立っていない。それなのに『彼』は、元々身体が少し弱い私を気遣って早めに病院に入院して、私とお腹の中の子両方になにも起こらないようにと図ってくれた。そのお陰で私は、今のところ体調を崩してもいないし経過も順調だ。
 今まで世界で一番愛していた彼。これからはこの子と同じくらい愛していく彼。彼と出会えた事は、私の人生の中でも凄く幸運で幸福な事だと思う。

          ☆

「……なぁんて、本人に言ったら調子に乗っちゃうよねぇ」
「そうだね。乗りまくって有頂天になる可能性も出てくるね」

 熱くなった頬に手を当てながら惚気る私の言葉に、瀬良ちゃんはとっても冷静に頷いてくれた。
 瀬良ちゃんはどうやら、私がお昼を食べてる間に看護師さんが病院食を御馳走してくれたらしい。「ここの病院食ってクオリティ高過ぎでしょ」とは、部屋に入ってきた瀬良ちゃんの第一声である。気持ちは分かる。とっても良く分かる。
 私の惚気が一息ついたところで、改めてお互い挨拶しあう。

「……久し振りだね、棗子さん。幸せそうでなにより」
「瀬良ちゃんはとっても大人っぽくなったよねぇ! 昔からすっごいかっこよかったけど、更にかっこいいよ!」

テンションが上がり過ぎて、また瀬良ちゃんに「ちょっと落ち着こうよ」と言われてしまった。このペースだと、今日中にあと四回は誰かに言われてしまいそう。
でも、なにせ数ヶ月、下手すると一年振りの再会。たまに連絡を取り合って遊んでいたとは言え、別々の大学に入ってしまうと日常的にはお互いの顔を見れなくなってしまった。更に、三年生の半ばからはお互いに就活で手一杯になっていて、ゆっくり会う事なんてほとんど出来ない。そしてそのまま私は入院していたから、多少なりとも興奮してしまうのは仕方ないよ。自己正当化なんかじゃなくてね。

「子供が出来たなら、もうちょっと大人っぽくなってるかと思ったんだけどなぁ」

 そう言って少し笑った瀬良ちゃんに、「むぅ」と頬を膨らます。……確かに少し子供っぽいかもしれない。

「……棗子さんは本当に幸せそうだね。なんかこの世の春って感じ」
「ふふ、そうかな? 青春はそろそろ終盤だけど。瀬良ちゃんは最近、その……大丈夫そうで安心したよ」

 『あの事』をなんて言ったらいいか分からず言い淀んだ私に、瀬良ちゃんは言いたい事を分かったように「まあ、そうだね。大学入ってから落ち着いたからなぁ」と笑って頷いた。
 記憶にある瀬良ちゃんよりずっと落ち着いて大人びたその様子を見て、今更ながら高校生活はずっと前に終わっていて、大学だって私はもう行く事が無いんだという事がじんわりと胸に沁みてくる。
 なんとなく心のどこかで、私達はいつかあの高校時代に帰ると思っていた。そうじゃなくても、あの自由でちょっと気怠いけど不思議と活気のある大学生活がずっと続くのだと。でも、私はもう高校生でも大学生でもなくて、お腹の中の子を産めば比喩じゃなく私を取り巻く世界は変わるのだろう。
 でも、後悔はしない。だって、彼が植えてくれて、私が守って育てるこの種は、きっと幸せの種だから。

「……そろそろ時間かな」

 ふと瀬良ちゃんが腕時計を見て、ぽつりと呟く。もうそんなに時間が経っているのか、とびっくりしてしまった。話しているとあっという間だったから気付かなかった。
 久し振りに会えたんだし本当はもう少し話していたいけど、お医者さんからの制限という事はこれ以上はあまり身体に良くないのだろう。それはあまりよろしくない。というかとってもよろしくない。
それに、今生の別れという訳でもないんだし。
 座っていたパイプ椅子から立ち上がってドアに向かう瀬良ちゃんを、エレベーターまで見送ろうかと私もベッドから降りる。
瀬良ちゃんはドアノブに手をかけたところで、ふと動きを止めて部屋の隅にあった箱に視線をやった。

「……これ、なに?」

 瀬良ちゃんは中が薄青に塗られて、小さな建物などが入ったそこそこ大きな箱に軽く触れる。

「看護師さんが暇だろうからって持って来てくれたの。中に建物の模型とかを入れてジオラマを作るんだけど、上手く出来たから置いておこうかと思って」
「……ふぅん。通りで退屈してなさそうな訳だ」

 実は、箱の中の街はお腹の中の子を育てたい『理想の街』だったりするけど、現実主義者な瀬良ちゃんにそんな事言えば鼻で笑われるのは分かり切っているから、そこは秘密にしておく。
 瀬良ちゃんはそれでもう箱から興味が無くなったらしく、何度か「送るよー」「いや入院してる妊婦さんにそんな事させれないって」というやり取りをしてから、結局押し切られて見送りはしない事になってしまった。残念。

「じゃあ、元気でね」
「そっちこそ。お幸せに」

 客人を送った後の部屋に、再び緩やかな静寂が戻ってくる。久し振りに会った瀬良ちゃんの相変わらずな様子に、ほっと安心した。
瀬良ちゃんはそういう雰囲気になったら、あっさりと別れの言葉と共に部屋を出ていく。昔はそれがちょっと冷たい気もしたけど、今なら寧ろそのあっさりした空気が瀬良ちゃんらしくて好きだった。そういうところまで変わってなくて良かった。
 ……早く元気な状態で退院して、また話したいな。

「……よし、お母さんと一緒に頑張るよー。おー!」

 私の中の子にも届くように勢いよく、でもびっくりしないように小さく言うと、両手の拳を白い天井に向かって挙げた。

          ★

 手に持っていたコートを羽織って薄く色の付いたガラス戸を押すと、隙間から冷たい風が雪崩れ込んできた。暖房が効いた室内に戻りたくなるのを我慢して扉を開ける。
まだ暦上は秋とは言え、もう気温は冬並みに下がって来ている。数歩歩いただけでもう、身体の端から凍てついて取れていきそうだ。
罅割れたアスファルトが敷かれた広い駐車場のような場所を抜けて、門を抜ける。
門には朽木同然の木板に、褪せた薄い字で『×××病院精神病棟』と書かれていた。
最寄りの駅行きのバス停まで、私の足で十五分。長い間整備どころか歩行者すらいないような荒れた道を歩く。
緩い下り坂のため、行きよりは楽だが足元に気をつけなくてはいけないのが面倒臭い。道の両端は鬱蒼とした森だからか、心なし風が強かった。

「……寒い」

 冷たい風がコートの中まで這入ってきて、背筋が震える。私の中で呑気に寝ているであろう生き物が憎たらしくて、自分の腹の中に小言の二つや三つ言いたくなった。
 歩いていても景色が楽しめる訳でも無く、歩きながら出来る様な娯楽も持っていないので、自然と思考はさっきまでいた病院に向く。
 私がさっきまで古い友人と会っていたのは、所謂精神病院。当然だが妊婦を受け入れるような場所ではない。
 そしてこれも当然だが、棗子さんは妊娠などしていない。それに『彼』は妊娠させた相手を病院に入れるような心優しい人間ではなかった。
 この寒い日に窓を開け、冷たい風が吹き荒ぶ中穏やかに笑っていた彼女。
 彼女の目には、私はどんな幸せを上塗りさせられて映っていたのだろう。

「……まあ、考えたくも無いけど」

 自分を発狂させるまで追い詰めた人間が目の前に現れて、それでもニコニコ幸せ一杯に笑える人間の思考を、私は理解したくない。
 久し振りに見た棗子さんの笑顔は、高校時代から全く変わらなかった。

          ★

 私と棗子さんの付き合いは、高校入学からだった。そして棗子さんの幼馴染だった『あいつ』との付き合いも、大体同じ頃からだ。
 その頃家の事が上手くいってなかった私は今思い返すと実体がある幽霊のような状態で、自分から話す事は殆ど無かった。それでも私にくっ付いて来て一緒に行動する棗子さんがいて、そんな棗子さんの世話係のような立ち位置だったあいつがいて、私は孤立せずに表面上は穏やかな高校生活を送れた。
 ただ、私は問題無く学校生活が送れる事しか棗子さんには感謝してなかったし、奴に至っては『殺したかった』なんて過激な言葉を、何時だったかポロリと零していたけれど。
 あの時の私達三人の内、きっと棗子さんだけが心の底から幸せだった。私の無関心も知らず、彼の憎悪にも気付かず、彼女の世界には幸福の種しか無くて、世界からの愛情を吸った幸福の花が彼女の周りだけ咲き乱れているようだった。
 そしてそれは、今でも変わっていなかった訳だ。ただ、花の栄養分が変わっただけで。

「妊娠したのは私で、壊れたのは棗子さんで、いなくなったのがあいつか……」

 高校時代には予想出来なかった今に、溜め息を吐きたくなる。一つずつ後にずれるかと思っていたのに。
 考え事をしてる内にそれなりに時間が経っていたらしく、乗るのが不安になるような音を立ててバスがやってきた。低いステップを踏んで整理券を取り、一番後ろの窓際に腰を下ろす。
 乗客は私以外誰もいない。がらんと空虚な空気を乗せて、バスはゆっくりと走り出した。
 徒歩とは比べ物にならない速さで流れていく景色を眺めながら、私の思考は過去へと流される。
 妊娠が分かった時、既にあいつは行方を眩ませていた。その前から連絡は取れなくなっていたから、姿が無くなってもそれほど驚かなかった。
私は色々な人に助言を求めた。両親からの意見は聞けなかったけど、そういう体験談が載った本も読んだし映像も見た。全ての結論に一貫していたのは、『子供を愛する』事だった。
 愛していれば、どんな困難も乗り切れる。愛していれば、幸せになれる。愛していれば、愛していれば、愛していれば! 気が変になりそうだ。
 そしてさっき見た棗子さんの箱庭。青色に囲まれた世界は、兎に角詰め込んだという感じで小学生が作ったように乱雑なものになっていた。
 幸福の体現者のような棗子さんの世界がそうなら、私には産む事も愛する事も無理だ。やる前から答えは明白だった。
 両親は義務だから私を育てた。あいつは侮蔑と憎悪で私を犯した。私は怠惰で今までそれを放置していた。そうして出来上がったこの子には、愛なんて言葉が入る余地は無い。

『次は終点、××駅。お降りの際は忘れ物の無いようお気を付けください』

 女性の機械的な声で流れるアナウンスで、駅に着いた事に気付いた。
相変わらず周囲は木ばかりだが、低いビルが点々と建っている。いつの間にか町まで来ていたらしい。それにしたってやはり建物も少ないのだけど。
 交通系ICカードで運賃を払って、私はバスから降りた。
駅も外に切符販売機が一台あるだけで、殆ど無人らしい。時刻表を見ると、次の電車までは一時間近く時間があった。
普段なら喫茶店か何かに入るくらい空いているけど、生憎ここら辺で時間を潰せるところは無い。改札に入って、ベンチに座って待つことにする。辛うじて改札はICカードが使えた。
塗装が剥げて錆びたベンチに腰を下ろす。まだ立つのが辛い訳ではないけど、誰だって一時間好き好んで立ち続けたいとは思わないだろう。
 ふと気分が向いて、お腹に向かって声を掛けてみた。

「……ねぇ、どうしようか。どうしたい?」

 当たり前ながら、返事は無い。だからこれは、私が決めなくてはいけない事なんだろう。当事者に任せたかったけど、そうもいくまい。

『まもなく、一番ホームに列車が通過いたします。黄色い線の——』

 踏切が下がる音と一緒に聞こえたアナウンスに誘われるような気持ちで、立ち上がって線路の方に近寄る。
 靴の爪先が点字ブロックの端に重なる辺りで、立ち止まった。

「……ねぇ、不運だったね。わざわざ私なんかに入らなくても良かったのに」

 遠くから列車が線路を走る音が聞こえてくる。結構速いから、特急か何かなのだろう。
 飛び込むには申し分無い。

「でもさ、折角死ぬんだから……ねぇ、独りよりはマシでしょ?」