複雑・ファジー小説
- Re: 神様とジオラマ / ちゃんとすすんでます ( No.41 )
- 日時: 2014/05/01 10:08
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: 06An37Wh)
◆
「露木くん」
冬の寒さも峠を越え、春の尻尾が見え隠れし始めた頃、ふらりと立ち寄った音無の駄菓子屋で彼女は言った。
「ヒトの祖先って何だか知ってる?」
「猿だろ」
飴の詰まったビン、チョコレートが敷き詰められた飾り箱、天井から吊り下がったラムネの袋。それらの間から、悪戯っ子のような笑顔が覗いている。
「そう、猿ね。……だけど、それって、本当だと思ってる?」
「どういう意味?」
「人間の祖先は猿だとか、地球はもともと宇宙の塵だとか、そんなのはみんな説明用の歴史なの」
古い木の椅子に座って、カウンターの上に肘をついた彼女は指を立てて得意げに言った。
「神様の気まぐれを一生懸命取り繕って、継ぎ接ぎの進化論を語っているのよ。そう考えたことはない?」
無いかなぁ、俺は答えた。
*
「どこ行ってたんだよ?」
拠点に戻ると、起床をしたばかりだという顔をした金堂が機嫌の悪そうな細い目で俺を見て、尋ねた。
「ちょっと、音無のところに」
壁にかかった安い時計は、もうすぐ午後になろうとしていた。
「お前もよく寝てられるもんだな」
「寝る子は育つんだろ」
金堂はそう言って、大きく伸びをした。
俺がこの世界に生まれて三か月。何となく、気が付いたことがある。俺も金堂も食べ物には困らず、金はあまり必要ではないのだ。どうしても必要があるときは御影という男が手配をしてくれると、金堂は言った。俺は神の計らいだと思う事にしている。
不安定に見えるこの世界も、どこかの歯車が上手くかみ合って、上手にバランスを取っているのだ。実に奇妙なことである。
もっと時間が経てば、また何かに気が付けるのかもしれない。頭の奥に引っかかっている、大きな何かすら、時間が経てば。
「散歩にでも行くか」
「ああ、そうだな。ちょこちょこ見回りをしないと、俺が御影に怒られる」
彼は心の底から湧き上がってくる嫌悪感をめいっぱい顔に出して、言った。
- Re: 神様とジオラマ / ちゃんとすすんでます ( No.42 )
- 日時: 2014/05/03 00:13
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: 06An37Wh)
あのビルの屋上から落ちて三ヶ月が経ったということは、音無を知って三ヶ月ということになる。彼女は俺が知りたいことを持っている、そう根拠のない確信があったため、気が向くと駄菓子屋に立ち寄るようにしている。ああ、これも言い訳だろうか……俺にはわからない。
「今日は行きたい場所はあんのか?」
「そうだな……」
彼は俺が生返事をすると機嫌を損ねる。そうまでして考えたい事ではなかった。考えなくてはいけないのに寧ろ、遠ざけたいような。
「街の外れを見てみたい。貧民街の方……案内は?」
彼の視線が泳ぐのをやめてこちらを向いた。曖昧な笑い方をして。
「帰ってくるのを目標にしよう」
「カタジケナイ」
*
貧民街へ行くのは簡単である。中心街と逆の向きに歩けば良い。夜になれば街の灯りがこちらまで届くから、道しるべにはなるだろう。
と、俺はそう思ったから足を踏み出すに至ったのだが、金堂は何も考えていないようだ。いつもと同じ軽い足取り。安いスウェットの擦れる音。呑気だ。
それにしても。
このあたりは随分浮浪者が多い。死人のような顔色をして、汚れた麻の布を被って狭い道の脇に肩を寄せ合って眠っている。彼らはどうして生きていられるのか、不思議に思うくらいに貧しく。
この街は鳥も人も獣もみんな、汚れた体を抱えてなお、安らかな顔をしている。
色の褪せた暖簾。泥水を被った雨をしのぐための布。そんな商店が軒を連ねてはいるものの、灰色の肌をした彼らが売っているのは……なんと言うべきか。見たこともないような茶色の物体や緑色の粒、あれは石だろうか。金堂が軽々としたペースで前を行くから、じっくりと眺める暇もなく、また彼らには観察できる隙がなかった。
雑に整列した骨董品を横目に、光る大きな目でこちらを睨む子供を尻目に。
「やあ、そこの、お兄さんがた」
そうやってしばらく歩いていると、杖をついた老人が一人、こちらへ近寄ってきた。
「何か用か?」
シミだらけの肌、垂れた皮膚。作業着のような、オレンジ色だったであろう、ぶかぶかの縒れた汚いシャツ。破れたジーンズ。それでもまだ余裕があるのだろう、彼は最下層の人間ではないのだろう、と俺は思った。
「いやね、今日はとても良い日じゃあないか」
歯のない口がにこやかに微笑んだ。俺は薬か何かを押し付けてくるのでは、と警戒したものだが、そんなことを一欠片も連想させない声色で彼は言う。
「さっきそれは綺麗な女の子がいてね……。これをもらったんだ」
彼はポケットをまさぐり、その中身を嬉しそうに見せた。金堂は彼の手の中を覗き込んで言った。
「アメじゃんか、よかったなあじいさん」
無邪気な反応は金堂の優しさであろう。または本当に無意識か。俺には出来ない。
小さな飴玉が三つ、皮の余った老人の手の平に収まっているのが見えた。
「今日は良い日だから、君らにも分けてあげようと思ってな」
そのうちの二つを、遠慮しようとする金堂の手に握らせて、老人は目を細めて言った。
「ああ、幸福じゃなあ」
空を見つめる目の奥に、盲信にも似た光が映っていた。
- Re: 神様とジオラマ / がんばってます ( No.43 )
- 日時: 2014/05/04 12:02
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: 06An37Wh)
薬をやっている様子や、怪しい宗教に嵌っている様子もなかった。彼は心から、自分の幸福を信じている。どうしてそう思えるのだろう、俺には理解ができなかった。
世にも奇妙な生き物を見るような顔になってはいまいか。なるべく表情を殺して平静を装った。
「ありがとうな」
金堂は自然に礼を告げた。慌てて俺もお辞儀をすると、老人は笑い、軽く挨拶をして去った。
金堂は気にもとめない様子だ。彼に洞察力を求めるのは無謀かと、軽く落胆しつつもなんとなく安心する。露骨に奇妙でない限り、自然と会話ができるのは彼の良さでもあるだろう。俺には無理だが。
「すげえ綺麗な娘だってよお」
彼は弾んだ声で言いながら、飴玉を手渡した。
「会えるといいな」
心にもないことが飛び出した。
再び、歩きはじめる。
太陽は真上に昇り、汚れ、ひび割れた道路に短い影を落としている。安らかな顔で眠っていた人々が起きはじめる。それでもまだ眠っている人間を、死んでしまってはいないかと心配になる。俺だけだ。人々はまわりのことなど目にも入れず、歩いている。
彼らにもあの老人と同じような考えがあるのだろうか、俺は考える。そうだとしたら、彼らの晴れ晴れとした表情も説明がつくだろう。どこで教育を受けたわけでもないのに、彼らの心には、共通の幸福感がいつでもふてぶてしく居座っているのだ。それはどうして?
共通の理念を植え付けるのにはいくつか方法があるだろうが、一番安易で現実的なのは教育だろうと思う。小さい頃から親に言い聞かせられる。教師や、長の立場にある人間に何度もすり込まれる。
彼らの場合はどうだろう。彼らには誰か、語り部が居るのだろうか。
直接聞いてみたい。しかし……彼らを前にして、顔を歪めない自信は無かった。どうしても彼らを対等の立場で見られないのだ。仕方がない。それなら、会話もしないほうがいいだろう。彼らのためでなく、俺が自己嫌悪に陥らないために。
拠点に戻ったら、音無に聞いてみよう。御影でもいいが、彼はどちらかというと俺に近い存在に思える。
「なあ」
しばらく軽い上り坂が続いていた。
「あれさ、ぽくねえ?」
「何っぽいって?」
彼の視線の先を追うと、坂の上に人影が見えた。オレンジ色の布が光を浴びて、透き通って。
「ほら、あの爺さんが言ってた綺麗な娘」
「ああ……」
坂を上る。彼女の姿がより鮮明に見えてくる。
音無を彷彿とさせるような佇まい。だが、彼女は音無とは、どこか決定的に違う。
彼女が遠い街並みに向けていた視線をこちらへくれた。
「…………まじで」
隣で小さな声が漏れた。まあ、確かに、老人の言葉通りであった。
まさか本当に出会うとは。俺は預言者か。これからは言葉に気をつけなくてはいけないか?
- Re: 神様とジオラマ ( No.44 )
- 日時: 2014/05/04 20:00
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: 06An37Wh)
金堂を見ると、嬉々とした目で彼女に話しかけようと口を開いているところだった。
その時だ。瞬間、彼の口が閉じた。それも反射的に、生理的に、そういった様子で。俺はどうしたかと聞こうと同じように口を開いた。聞かずとも、身をもって理解できた。
水だ。水が、口から異の中に流れ込んでくる。口を閉じざるを得なかった。
吐き出そうと、下を向くとさらに驚いた。またも水だ。エメラルドグリーンの色をした水が、地面を覆っている。驚いているうちにさらに水位は、足首から膝、膝から腹へと増してゆく。衣服は重く、体は軽くなっていく。
思わず閉じた瞼を、生ぬるい水を眼球に被せることを覚悟で開いた。
水が。この坂の上、遠目に望める街を飲み込んでしまっている。日光を受けて輝く水面は遥か、神様に近いところで揺らめいて。
思い出したように、吐く息が泡になって天へ昇っていった。
視界の端にさっきの娘が映った。手のひらを見つめて。俺は酸欠の脳で疑問に思った。俺の足は既に地については居なかったし、金堂も同じくそうだったが、彼女は何故立っているのか。
脳裏にそれが過ぎった時、水の感覚が消えた。視界を覆っていた緑色が消えた。足元を見る。地についている。自分にかかる重力の重さがある。
金堂を見ると、手で自らの喉を掴んでどこか別の世界を見ているような顔つきで、苦しんでいた。無様な。混乱の中、それだけははっきりとしている。彼の顔はおもしろい。
苦笑いを零しながら、彼の肩に手を置いた。
「お、お?」
彼は間抜けな声を出して、手を開いて閉じ、自分の体を触り、顔を触り、辺りを見回して、俺を見た。
これは何だと聞かれるだろう。
「彼女のせいだろう」
少し先の若い女を指して、俺は先に答えを出した。何となくではあったが。
さっきから俺が感じている混乱は、俺の分じゃない。たかが水に呑まれる白昼夢をみたくらいで、もう落ち着いているはずの思考が二つに分かれている。片方は金堂を嘲笑い、片方は何も分からないと主張をしている。彼女のものだ。
「なあ、君。今のは君がやったのか?」
瞬きの多い彼女は、泳ぐ目、きつく結ばれた口を開いて言った。
「……分からない」
まあ、当然か。
- Re: 神様とジオラマ ( No.45 )
- 日時: 2014/05/05 00:06
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: 06An37Wh)
金堂が腹をさすりながらさも不愉快そうな顔をしている。女の影を見たときのあの喜びはどこへ行ったのか。
「水を大量に飲まされた感じがする……しかもあの色だもんなぁ」
そういうと、軽くえづいた。
俺も気持ちは悪かったが、彼の言葉を聞いていると本当に体調が悪くなる。気の持ちようで変わるものだ。
「それで君は……」
言いかけたものの、何を尋ねたら良いか分からない。何者か。名前は。さっきのは。それらはきっと、彼女には分からない。俺もそうだった。俺には、体験がある。それらはきっと、彼女に似ている。
「君は、行くところがあるのか?」
それなら、彼女が聞かれたいことを言えばいい。案の定、彼女は首を横に振った。
「そう、なら……」
「俺らの所に来るべきだよな、そうだろ露木?」
俺は頷いた。転換の早い奴だ。表情に色が戻っている。
*
まだ昼で、太陽など沈む気もさらさら無いような顔をしているが、来た道を引き返すことにした。街の終わりをこの目で見ることはできなかったが、人助けだ。こちら側の人間の。
坂を下りながら、俺は彼女に予想済みの返答を求めた。
「名前は?」
「さあ」
「どこから来た?」
「……さあ」
「以前の記憶は?」
「…………ないわ」
表情はだんだん暗く沈んでいく。それにしても美しい顔をしている。それは何と言うか、芸術的だ。芸術的に、どこかすこし狂っている。美しいが、あまり長く眺めると精神が拒絶する。
「大丈夫だって」
金堂が一生懸命、彼女を励まそうと大げさな手振りをした。
「俺らも同じようなもんだし。な?」
「そうだ。子供の頃の記憶はないし名前だって無かった」
努力も虚しく。
「……貴方たちには名前があるの」
「ああ。俺は金堂で、こっちが露木」
それでも諦めない姿勢は評価できよう。
「そう……」
何となく、思った。俺や金堂の名前は誰が決めたのだろう。御影か? それともまた、帳尻合わせの神様か。
この世界に生きていると、疑問が多すぎて好奇心すら不足する。
- Re: 神様とジオラマ ( No.46 )
- 日時: 2014/05/06 20:57
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: 06An37Wh)
なんて長い道のりを歩いてきたのだろう、と思うくらいに、彼女は口数が無かった。金堂もさすがに折れて、何も喋らなくなってしまった。普段の俺にとっては十分ありがたい沈黙であろうが、今はもう、考えれば考えるほど疑問は尽きないので、考えることを放棄しようと思っていたところだ。
なんてタイミングの悪い。
「あ、ここが俺らのたまり場で……」
万里にも思えた道のりは彼の声できちんと終わった。
「行くとここがないのならここに居ればいい。明日にでも、君のことを知っている人に会おうか」
確信に近い憶測だが。御影なら、と期待をする部分があった。
女は、小さすぎる礼を言った。
*
朝起きると、体が水に浮いていた。
そんな体験をしたことがある人がいるだろうか。なんという悪い目覚め。冷たいものが背中にずっと触っているし、体が波に揺れている。これは何かの拷問か? こんな状況で寝ていられる方がおかしいと思えば、となりで金堂は健やかな寝息をたてている。
「おい……」
彼女の名前を呼ぼうとしたが、名前が出てこない。そういえば名前は無かったか、寝ぼけた頭を覚まさなくては。
仰向けでは、やけに近い配管だらけ埃まみれの天井しか見えない。体勢を変え、彼女を探そうとすると、バランスを保ちきれなくなって水の中に落ちてしまった。
昨日と違って、随分冷たい水だ。彼女の心か。不安が押し寄せているのか。知ったことではないが、水が引いた時の後味が悪いからやめてほしい。
また、昨日と違って息は苦しくなかった。この水が子供だましだとわかっていれば大丈夫なのだろうか。
奥深く、彼女は居た。座り込んで顔を覆っている。服が水を吸って軽くまとわりつき、うまく動けないので仕方なく、潜水をして彼女の下まで泳いだ。
なあ、君……。声をかけようとしたものの、言葉は泡となって消えてしまう。もっと潜らなくてはいけないか。
俺は、顔を覆った彼女の細い腕を掴んだ。彼女の泣き腫らした赤い目が見えた。
水が引く。
「水は君を守っちゃくれないって。あまり深く考えすぎるな」
苛立ちを隠して、彼女に言った。
- Re: 神様とジオラマ ( No.47 )
- 日時: 2014/05/12 00:18
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: 06An37Wh)
重たい、居心地の悪い空気に耐えかねた俺は金堂を強引に起こし、御影のマンションへ歩いているに至る。
彼女のせいで水が嫌いになりそうだった。雨が振りそうな空を見て、苦い気持ちが表情に出る。小さな雨垂れも肌に落ちようものなら、また溺れる感覚を思い出して、水を吐き出したくなってしまうだろう。
金堂が金悪い空気を取り繕おうとしたものの、諦めて黙るほど、彼女の感情は深刻に、深海のように暗かった。実に迷惑なことに、俺が読もうとしなくても勝手に流れ込んでくる。
「よく来たね」
そう言って御影は扉を開いた。彼女の心境とは正反対な、晴れ晴れとした表情で。
「それで、そのお嬢さんのこと?」
ここは応接室なのだろう。この間と変わらぬ黒いソファ、低いテーブル。今回出されたは紅茶であるが。
隣の女はカップに手をつけずに俯いている。
「……どこから説明すりゃいいんだ?」
言葉を出しかけ、詰まり、紅茶を飲み込んでから金堂は言った。
「ああ、いいよ、知ってる。水だろう、君らが困っているのは……といっても、主に被害者は彼女かな」
彼の、もう知っている、に慣れてしまった自分がいる。
異論は無いので同意する。俺も金堂も十分に被害者だが、まあ、彼女の感情といい表情といい、模範解答の被害者面である。
「……わざわざ僕が正解を教えるまでもないと思うんだけど。お嬢さん」
俯いていた彼女が少し視線を上に向けた。
「経験を積め。自分で制御ができないわけがないんだよ。慣れと経験だ」
「……はい」小さな返事が零れた。
「君の力はわりと、有望だから」
俺には御影の言葉にはあまり効果のないように聞こえたが、ざらざらと落ちてくる不愉快な感情はある程度減ったようだ。
随分長い間を取って、彼は言った。
「ああ、それから、露木」
名前についていた「くん」が、取れてしまった。着実に距離を縮めようとしている。俺は身構えた。
「何だ?」
「彼女に名前をつけてあげなよ」
それとは逆に、取ってつけたような提案だった。
- Re: 神様とジオラマ ( No.48 )
- 日時: 2014/05/12 00:15
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: 06An37Wh)
名前と言われても。帰り道、黙ってただ機械のように歩いていた。
彼女に見合う名はどこに落ちているのか。そもそも、彼女のことを知らなければ安易に名前など付けることはできない。そう考えた俺は、気がついた。目的はこれか。取ってつけたような提案だと感じたが、御影なりの思慮と企みがあってのことのように、強く、思えてくる。
どこまでも底の見えない男だ。彼と話していて、一度でも感情が読めたことがあるか? いや、ない。生まれてから少し時を重ね、読もうと思えば読めるようになった他人の思考を、彼はちらりとでも読ませてはくれない。それとも、それは違うのだろうか。俺か。俺が、金堂のように頭の中身をそのまま垂れ流している男と過ごしてきたからだろうか。力不足か?
歩む思考の道はどんどん逸れる。そんなに彼女のことを考えるのが嫌かと、自分自身に腹が立つ。
「なあ」
静かな怒りが彼女に向いた。
「君……名前を決めるまでは、君と呼ぼう。君は自分の力が怖いのだ、違うか?」
彼女は困ったような、泣きそうな顔をして、すぐに目を落とした。
「答えてほしい」
「……そうかも」
「それはどうしてだ、考えたことはあるか?」
「…………」
金堂はあからさまに慌てた素振りを見せた。
「おい、露木……」
弱々しくも仲裁に入るが。
「答えろよ。原因は何だ? 自分の事すら分からないのか?」
どうしても、攻撃的な口調をやめられなかった。彼女の感情がどうにも煩わしくて。とても、どこか。
「……」
彼女が小さな声で何か呟いた。それを俺が尋ねる前に、彼女はもう一度、今度は叫ぶように言った。
「うるさいわね!」
潤んだ瞳は怒りの色を宿している。
すこし、たじろいだ。感覚が。彼女の目から、口元から、立ち止まった姿から、陰から、何もかもから膨大な量の感覚が溢れだしている。許容量はとうに越え、見たくもない物が見え、刺さるように響いた。
絶叫だ。耳を劈くような。死ぬ間際の。断末魔が轟いて。
うるさいとはこっちの台詞だ。思わず耳を塞いで蹲っていた体を立たせて息を長く吐いた。
「……君か?」
彼女を見る。震えた肩を両手で擦りながら、焦点の合わない目でどこか遠くを眺めている。
「答えろよ……」
その者たちの声は耳の奥でごうんごうんとまだ反響を続けている。
「君の能力は何だ」
一つではないのだ、そうか。彼らは這い上がってこようとしている。白い手を次々に伸ばして。彼女の重い口を開いて、この世界に、再び。
彼女は、この辛い「経験」を自分の言葉で自分の口から出すことをせずに、俺が求めた回答を、提示した。他人行儀に。感情を織り交ぜずに。触れたくないものに触れることをせずに。
*
閑静な住宅街であったはずの道が音を立ててひび割れ、色を出して汚れ、声を出して育っていく。スラム街だ。目の前に、あの街がある。
ふいに肩を叩かれて振り返ると、紙袋があった。
男だ。黒いスーツを着て、地に着けていた金属バッドを振り上げて、無表情に。
その時、周りの景色が歪んだ。
ここはどこだ、渦巻きの中に放り込まれたような感覚の中、必死に確かめようともがく。腕も足も動かない。ただ、目だけがその状況をしっかりと捉えて離さなかった。
そこは変わりもなく、見慣れてしまった貧民街に変わりはないが、どこか、別の世界だった。
紙袋の男が再び、視界に現れた。しかし、さっきとは違って。
視界を染めるのは赤い色だった。目が勝手に、周りを見回した。どこも、どこも、どこも。目に入る全ての人間、紙袋の男だけでなく、本当にさっきまで微笑みながら息をしていた人々が。裂け、汚れ、鮮血を溢れさせながら、臓物を零して、ついさっきと変わらぬ笑顔の頭がそのまま、転がっている。
目を覆いたくなるような光景だったのに。
アスファルトの穢れを洗い清めるかのように、深い色の血が道路をみるみる覆い隠していく様子を、生臭いにおいとうめき声、器官から溢れる呼吸の音と共に、凝視していた。
また、景色が歪む。
血は雨に打たれ、色を無くしていく。再び現れた道路は、潔白だった。
手も足も顔も動いた。目に映るのは、何事も無かったかのような、ただ盲目な住宅街のみである。
いつの間にか降り出した春雨が身を打って、地の上で小さく波紋を重ねている。金堂がくるりと背を向けて道の端へよろよろと歩き、膝をついて嘔吐を始めた。吐きだそうとする喉の音だけがする。何も食べていないのだから。
ただ闇雲に水を見せるだけの能力では無いのか。腹の底からせり上がってくる吐き気を飲み込んで、まだ少しぼやける世界を覚まそうと、瞬きを繰り返した。
「……分かったかしら、これで!」
泣き叫ぶ。
「悪意があったわけではないのに。勝手に、身を守ろうとして、関係のない人を……。毎夜毎夜夢に見るのよ……殺してしまった人達の苦しそうな声、顔。手を伸ばして、私を責め立てて……こんな力、欲しいなんて言った覚えは無いのに……」
彼女は顔を覆って、小さな声で叫んだ。それは心からの、魂からの。
「生まれてなんてこなければよかった」
悲痛の叫びだ。
道の端で吐きだそうと吐き出そうと、それを止めなかった金堂の背中に手を当てて声をかけた。彼はすっかり生気を感じさせない顔色をしていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけないだろうが……」
そう言うと、また、えづく。当然だ。俺だってそうしたい。さも平気なように振る舞おうとするこの感情など投げ捨ててしまいたい。
そうすることが出来ない理由があるのだ。彼女を振り返り、見た。
「さっさと戻って休もうか」
興味と、同情と、怒りだ。
*
拠点に戻り、息つく間もなく金堂は冷たい床に転がって眠ってしまった。かなり参っているらしい。
俺は女と向かい合って腰を降ろし、微塵も自分の感情を見せないようにと気を張り、切りだした。
「君の力は、幻覚のようなものだ。そうだろ?」
彼女は腫れた赤い目を伏せたまま頷いた。
「君がさっき見せたのが全ての答えだな? 反射的に、本能が身を守ろうとしたわけだ。だがそれは、君が制御できないくらいに残酷で……」
否定はされない。
「君はすっかり、自分の力が怖くなった。押し寄せる悲しみの海ってわけだ、俺が溺れたのは」
俺は苦く、笑った。
「甘えるな」
- Re: 神様とジオラマ ( No.49 )
- 日時: 2014/05/17 10:55
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: 06An37Wh)
*
何を言ったのか。それは俺の記憶からすっぽり、曖昧さを残すことなく抜けてしまっていた。彼女はどんな顔をしたろう。まだ、名前のない彼女。彼女との間に確執ができたのは確かである。
あれから少しの時間しか経ってはいないのに、最近、ここに生まれてからのわずかな記憶さえ少しずつおかしくなりつつあるのを感じる。はっきりと。確実に起こったことが思い出せない。それなのに、思い出したくないことが思い出されようとしている。悪い予感だ。自分の中で何かが変わり始めている。
特にそれは、音無と言葉を交わす時によく訪れた。
「君は幸せか?」
俺は、そう尋ねていた。
「なあに、急に」
店の奥でダンボールに入った菓子をいくつか取り出しながら、音無は応えた。あの貧民街で疑問に感じたことである。
「……ただの興味」
「嘘だよね」笑い声が混じる。
なんて勘のいい。
「まあ、いいよ。きっと理由があるんでしょ? ……そうだなあ」
彼女は少しだけ間を置いた。
「幸せかな」
背を向けているため、表情は分からなかった。分かるのはいつもと同じ、彼女から流れる暖かい空気だけだ。
「どうして?」
彼女は不意に、驚いたように振り返った。そして、言った。
「どうしてだろう……」
奇怪な会話はそこで終わった。音無は考え込むような表情をして、作業も止めて固まってしまった。
待ってはみたものの、どうして、の答えは出ないようであったから、俺はもう一つ質問をした。
「そういえば」
質問? 違う。
「今……預かっている、お嬢さんがいるんだけど。名前が無いんだ、元々、捨て子で」
こっちこそ甘えだ。名前のない彼女のことを、音無にどうにかしてもらおうとしているのだ。言い出したことを後悔し始める。
「その、名前を付けてくれと頼まれたんだ」
重い口で続ける。
「それで……悩んでいて」
「協力するわ」
気づいているのか気づいていないのか、彼女は微笑んだ。考え事は抱えたまま、どこか虚ろに。
「それで、その子はどんな子なの?」
「淡麗な顔立ちに似合わず、気性は荒いかな」
本当のことだろうか、自信はなかったが。
「あら、よく見ているのね。分からないって言われるかと思った」
「……そうか」
「それなら、簡単じゃない?」
音無は冗談を言うのと同じ声色で、そう言った。
「露木くんが決めてあげるのが、一番いいと思う。彼女のこと、案外よく分かっているんじゃない?」