複雑・ファジー小説
- Re: 神様とジオラマ ( No.55 )
- 日時: 2014/07/14 20:19
- 名前: あまだれ ◆7iyjK8Ih4Y (ID: P.N6Ec6L)
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悪い間を割いて、音無が口を開く。
「ところで」
駄菓子屋の奥、いつも彼女が出てくる場所。招かれ、小さな四角いテーブルをはさんで、柔らかい色の木の椅子に俺は座っていた。
「……本当に唐突なんだけど。私、お話を書いているの」
「オハナシ?」
青い花が描かれたカップから、紅茶の香りが天井へ登っていく。
聞き返したのはほかでもなく、俺がその言葉を知らなかったからである。
「そう、オハナシ。知らないか、そうだよね。今までに知ってる人なんて、会ったことないもの。不思議だけど……」
俺はテーブルクロスの薄い藍色のギンガムチェックを眺めながら、聞いた。
「そうね、お話っていうのは、一つの娯楽ね。……ああ、ここにはあまりほかの娯楽はないのかな。オンガクもエイガも……知らないでしょ。今度教えてあげる。いつかね。
それで、それは人が作るのよ。こことは別の世界を、想像して、伝えるの。それがお話。そこには知らない人達がいて、そこで事件が起こったり、または知らない人が恋に落ちたり、その人がまた別の知らない世界に迷い込んだり……」
「あんまり、よく分からないな」
「そう? とにかく素敵な物よ。ここじゃない、どこか別の世界。わくわくしない?」
「…………」
わくわく。可愛らしい語感だな、と、ふと思った。
考え込んでいるように見えたのか、音無は取り繕うように言った。
「定義はいいのよ、楽しいことが最初に来るべきで」
「そうか。……それで、その、オハナシが?」
「相談があるの」
息を吹いてから紅茶のカップに口をつけ、手を温めるようにカップを持ち直して、音無はもう一度息を吐いた。吐息も白く、宙に消える。ここは冬の寒さを感じさせない、温かみのある部屋だ。
「そのお話をね、本にしないかって言われたの」
「ホン」
口に出して、言ってみる。これもまた、聞いたこともない言葉だった。
「紙の束ね。束といっても、一枚一枚ばらばらじゃなくて……。ああ、上手に説明できないや。とにかく、人が楽に読めるようにするのよ」
「オハナシを読んでもらうためのものなのか?」
「そうね」
彼女は俺の知らないことばかり知っている。
「見たこともなかったんだけど、やっぱり、ここにも本はあるみたい」
独り言のようだった。そして今日は、分からないことばかりを言う。彼女と俺のどこに違いが生まれるのだろうか。いや、俺だけでなく。音無はこの世界の誰とも同じでない。そうかもしれない。
「俺で相談に乗れるだろうか」
なにせ無知だ。ひとりで結論を出すこともできるだろう。しかし、彼女は笑った。
「逆」
「逆?」
「露木くんだから相談しているのよ」
「…………」
紅茶を一口飲みこんだ。
「その人はね、古本屋をやっているんですって。でも、この街に古本屋なんて見たことないでしょ。露木くんが本を知らないんだから。不思議な人でね……何というか。長く話をしたはずなのに、顔も、声も、格好も背丈もあんまり覚えていないの」
「へえ」
俺と同類だろうか。考える。何か害がある力だったら、対処をしなくてはいけないが。
「明るいねずみ色っぽい人だったかな」
「分からない」
よく、いい表現を思いついたような顔をしたものだ。彼女はくすくすと笑う。
「どこで聞いたんだろうね。樹にしか話したことがないのに」
それなら樹が、と言おうと思ったが。
「樹は他の人に言ったりしないと思うよ」先回りをされてしまった。
「そうか。……その、本にするか迷っていると?」
「うん。あんまり信頼できるような人じゃなさそうだし……どうしよう」
また、ため息を吐いた。
「オハナシを人に……何と言うんだ? 聞いてもらいたい、という気持ちはあるのか」
「それが、あんまり。でも、とてもいい作品だからって言うのね。本当にどこで聞いたのか」
考えて、いや、深く考えるまでもなく、俺は答えを出した。
「やめておいたほうがいいんじゃないか」
「どうして?」
「信頼できないのなら。それに、そのオハナシは音無と樹の物だろ。その間に他人が入る必要はない」
「そう。……そうよね」
音無の声には少し、決意の色が見えた。少し、安心する。危険な橋を渡られては俺の気苦労が増えるのだ。
「断ることにする。だってこの話は、私と樹と、それから露木くんのものだもんね」
「え?」
「露木くんにも、話してあげたいから」
照れの混じった笑顔だった。