複雑・ファジー小説

『もう誰にも渡さない』 ( No.112 )
日時: 2014/01/12 10:59
名前: ゆかむらさき (ID: siKnm0iV)

《ここからしばらく高樹純平くんが主人公になります》


 僕は、なみこちゃんを乗せたバスが見えなくなるまで見送っていた。


『おやすみ、純平』
『あっ、待って! お母さん! お願い。もう1冊だけでいいから読んで』
『ごめんね、純平。お母さん達ね、また明日仕事で朝早くから遠い国へ出掛けなくちゃいけないの。お土産に新しい絵本とおもちゃ、いっぱい買ってきてあげるから』
 新しい本もおもちゃなんかもいらないよ。
 僕はただ……もう少し一緒にいて欲しいだけなんだから。
 消さないで……。まだ消しちゃ————


 電気を消された部屋の様に周りの静けさと暗さにやっと気付いた僕。
 大好きな彼女と一緒にいるだけで……そう。彼女が、この寒く、小さな街灯がたった1つだけで照らしている暗いバス停を温かく、明るくしてくれていた。


 楽しかった……。


 今日、ついに叶った念願のデートをもう一度、日記に書き綴る様に初めから思い出してみる。
 自転車の後ろで小さく呟いていた彼女の告白。
 僕がいたずらでわざと大きめに切ったフルーツを小さな口を大きく開けて美味しそうにかぶりついていた愛らしい顔。
 どっちが長く我慢できるかな?
 ……って。すぐに“たべちゃう”のが、もったいなくって、焦らしてみたはいいけれど、結局先に折れたのは僕のほうだった。
 だって……彼女ったら、手の平に軽くキスをするだけであんな声をあげるんだから。……反則だよ。


 振っていた手を止め、胸に当てた。
 ドラマのセリフの様なキザったらしい飾り文句をこの僕が真剣に正直な気持ちで放出しながら、裸にした心と身体で彼女を抱き締めた感触が今もまだ体全体に残っている。


 思えば“愛してる”なんて感情を持った事など今まで無かった。
 この僕が……こんなに本気で誰かを愛するなんて————


     ☆     ★     ☆


 初めて彼女……なみこちゃんと出逢った日————
 そういえばその話は幼少時代から親友関係を築き続けている健にも聖夜にもまだ話していなかった。彼等に僕のなみこちゃんへの想いを告白したのは“彼女が塾に入ってきた日”の時だったから。
「暗いな……」
 黒い雲が空を早いスピードで飲みこんでゆく。
 今朝の予報では今日明日を通して良い天気が続くと言っていたのに。
 これは……今夜あたりから“崩れる”かもしれない。
 どうも嫌な予感がしてならない。
 足を止めた僕は空を睨みながら大きく深呼吸をした。
 何、弱気になっちゃってるんだよ……。
 まつ毛に掛かった前髪を手でかき上げて、再び家へ向かい歩き出した。


 なみこちゃんは帰っていく。
 松浦鷹史の隣の家に。
 明日の朝は登校する。
 松浦鷹史と同じ学校へ。
 次の塾の日は火曜日、か……。


     ☆     ★     ☆


 ————この話は今から3年前の話。僕がまだ小学5年生だった時の話だ。


「いい? 分かってるの? 純平。あなたは将来、お父さんの会社を背負っていく事になるのよ」


 長い間、仕事で滞在していた海外から久し振りに帰ってきたと思ったら、僕に『話がある』と母さんにリビングに呼ばれ、第一声で植え込まれた言葉。
『元気でいた?』とか、『淋しくなかった?』とか、親なら普通、こう言うだろう?
「母さんの言う事はあまり気にするな。お前なら大丈夫だ。父さんは信じているからな」
 優しくフォローしてくれたつもりだけれども、この父さんの言葉もずっしりときた。……期待込め過ぎ。
 まだ10歳だって、僕……。
 お土産に買ってきたテーブルの上のトリュフチョコレートを1つつまんで口の中に放り込んだ僕。呆れた笑顔とVサインを見せて応え、そのままリビングから逃げ出した。


 僕の将来は生まれた時からすでに決められていたんだ。
 親の敷いたレールの上を、受験だとか就職だとか悩んだりもしないで何気なしに歩き続けて、結婚適齢期になれば、『この方と結婚しなさい』と、結婚相手まで勝手に決められて家庭を築き、両親が健在ならば僕の子供も僕と同じ様に……。


「申し訳ありません、奥様! 今後は気を付けますので!」


 母さんが家政婦さんを叱っている。僕の背中にある扉の向こうからこんな声が。
 僕のせいだ……。
 唇の端に付いたチョコレートをシャツの袖口で拭い、僕は自分の部屋に籠った。
 土産のチョコ? こんなの全然美味しくないや。
 駄菓子屋で健達と一緒に買って食べる10円チョコの方が————!
 こんな家の中に居ても楽しくもなんともない。
 別に父さんと母さんが海外へ滞在している間、少しも淋しくなんかもなかったけれどね!
『すまないが年明けのおまえの誕生日に父さんたちは一緒に居られない。どうしても正月も仕事が忙しくてこっち(日本)に帰れなくてな……』
 さっき、そう言いながら父さんが僕の手に分厚い茶封筒を握らせた。
 ズボンのポケットにしまったそれを出し、封を開けると、中には1万円札が20枚入っていた。
 これで好きな物でも買いなさい……ってコトか。


 淋しくなんか……なんともない。
 これだけのお金があれば、当分の間ゲーセンで遊び放題、だもんね。
 茶封筒を勉強机に投げ放し、ベットの上にダイブした僕は枕を拳で叩いた。


 生まれてきた場所を間違えたのかもしれない。どうやら僕にはこの生活環境には慣れない様だ。
 金銭感覚だけじゃない。他の感覚までも、このままだと狂ってきそうだ。