複雑・ファジー小説

『一線越えのエスケープ』 ( No.38 )
日時: 2015/03/17 09:22
名前: ゆかむらさき (ID: dZI9QaVT)

 パタン。
 ドアが閉まる瞬間の小さな音と共に、あたしの心臓が大きく『ドキン』と鳴った。


「僕の気持ち。今、教えてあげたい。
 なみこちゃんの事をどのくらい好きなのか————」
 電気も点けずに真っ暗な部屋の中。
 高樹くんはあたしの肩に片方の手を乗せ、もう片方の手で髪を優しく撫でながら耳元で囁いた。
 “どのくらい”好きなのか……だなんて、わざわざ教えてくれなくても、耳の穴からストレートに入り込んでくる激しい彼の吐息の量から、もうすでに感じ取っている。
 それにここにあたしを連れてきたという事は————


 初めてこの部屋に足を踏み入れた時は、ここが何の部屋なのか分からなかった。
 でも今は知っている。さっき松浦くんに教えてもらったから。 
 この部屋は、この塾に通うカップル達が二人っきりになって————
 “どのくらい”って一体どうやって教えてくれるんだろう。
 言葉で? それとも行動で?
 暗闇に閉ざされて、彼の声だけしか聞き取る事ができない。
 確か前にも彼に頭を撫でられた事があったけれど、今は顔が良く見えないからなのだろうか。それに“この部屋で2人っきりの状態”でされているからだろう、その時とは比べものにならないくらいドキドキする。
 髪を撫でる高樹くんの手の指が、時々あたしの首すじに軽く触れる。
 触れられる度にあたしの体の力が少しづつ抜けていく。
 そのまま彼は髪を撫でていた手をスーッと滑らせて、今度は腕を撫でてきた。
「ここ。さっき痛そうだったけど、大丈夫?」
 大丈夫じゃ……ないです。
 あたしの足がブルブルと震え出す。
「どうしたの、足。 なんか震えちゃってるよ……」
 高樹くんは少し腰を落として、腕を撫でていた手を、今度は太ももにあててくる。
 今日、ショートパンツをはいてきたあたしは、彼の手の平の体温をじかに感じてしまう。同時に彼の気持ちも充分過ぎるほどに伝わってくる。
 今のあたし達の、こうやって絡み合っているシーンがどうなっているのかを自分で想像してみたら、胸が爆発しそうになった。
 あたしのバカ。想像なんてしなけりゃいいのに。
 お願い。これ以上、その手を動かさないで————


「高、樹くん……」
 もう限界……。
 とうとう立っている事ができなくなってしまったあたしは、高樹くんにしがみ付いてしまった。
「なみこちゃん……」
 力が抜けきって、しがみついているあたしを支えながら、高樹くんはすぐ後ろにあるドアの横にあるスイッチを押し、電気を点けた。


「あっちで“しよう”か」


 高樹くんのさす指の先に見えたのは、ティッシュのゴミがいっぱい散らかったビリヤードの台。
 どうやらワインレッドの照明が高樹くんを狂わせてしまった様だ。
 待って……。
 あたしは、しがみ付く腕に思いっ切り力を入れた。
 ————これでも精いっぱいの抵抗のつもりだった。
 講習はまだ始まったばかり。あたし達2人が教室に居ない事に先生は気付いているのだろうか。
 今、大好きな高樹くんと一緒にいるのに、できる事ならば、この部屋から逃げ出してしまいたい。
 でも……嫌われたくない。
 恋人たちが欲情をさらけ出し合う、この静かで薄暗い“やりまくり部屋”で突然された愛の告白。
 あたしの中ではこの恋物語の展開はもっとゆっくりと進んでいくはずだったのに。
 こんなはずじゃ……なかったのに。
 震えるあたしの顔を覗き込んで彼は囁いた。


「やっぱり、初めてなんだね。大丈夫だよ。ちゃんとおしえてあげるから」


     ☆     ★     ☆


「ん、しょっと。あはっ、すっげー。なみこちゃん、軽すぎ」
 あたしをお姫様抱っこして、やっと高樹くんがいつも通りの笑顔を見せた。
 お、おちつけ、あたし……。
 あたしは今、自分と一緒に高樹くんの気持ちを落ち着かせる事。考えているのは、ただそれだけ。
 まるで時限爆弾を処理する警察機動隊の様に。


「ちょっと待ってて。ここ、キレイにしないと“できない”から……」


 彼はあたしをビリヤードの台に座らせた。そして足元にゴロゴロと転がっている中身が空っぽの封の開いた小さな段ボール箱を1箱手に取り、台の上に散らかっているティッシュのゴミを片付け始めた。


 逃げるなら、絶対、今、だよね……。
 そう思ってはいるのだけれど、こんな時になってもいっこうに震えが止まらないあたしの足。
 彼の気持ちを受け入れてあげたいけれども、体が言う事を利いてくれない。
 第一ないでしょう。こんな大胆な告白パターン。


 手際良くティッシュのゴミを片付けた高樹くんは、さっきあたしが使って中身が無くなったティッシュの箱を潰している。
 彼のサラサラの前髪の間から、長いまつ毛のセクシーな瞳があたしをチラリと覗く。
「なみこちゃんだけに、僕のカッコいー姿、見せてあげる」
 なんと突然、高樹くんは上に羽織っているカーキ色のジャケットをバサッっと脱ぎ捨て、着ているシャツのボタンをプチプチと外し出した。


「!」
 もしかして、あたしが脱がされるんじゃなくって————そっちが脱ぐのッッ!?


「うっひゃあ!」
 高樹くんの突拍子もない行動に、一瞬目が飛び出てしまったけれど、慌ててあたしは両目を手で覆い隠した。
 おちつけ、おちつけ……。落ち着くんだ、あたしッ!!

『一線越えのエスケープ』 ( No.39 )
日時: 2015/06/02 10:17
名前: ゆかむらさき (ID: DdpclYlw)

「————見てないじゃん、なみこちゃん……」


 え……?
 目を隠した手の指と指の間から、おそるおそる高樹くんを見てみる。


 高樹、くん……。
 あたしの腰かけているすぐ横でビリヤードの棒を構えてる彼。
 いつの間にセッティングしたんだろう。台の反対側の端にダイヤの形に並べられた番号と色のついたボールの塊をめがけて、手元の白いボールを思いっ切り突いた。
 ボールの塊をバラバラに散らばらせた後、棒を肩に引っかけて、台の周りを歩きながら慣れた手付きで次々と白いボールを突いていった。そして1番、2番、3番……と、番号と色の付いたボールを若い番号から順番に穴へ上手に落としていく。
 ビリヤードなんて生まれてから一度もやった事なんて無く、もちろんルールも全く知らないあたしだけど、一目で彼の腕は相当なものだと思った。高樹くんの隠れた特技に驚き過ぎて拍手をする余裕も無く、あたしは口を半開きにして彼を見ていた。


 ボールを狙う高樹くんの真剣な眼差し。
 腕まくりしたシャツから伸びる、細めだけど引き締まった男らしい腕。
 そしてセクシーな指先。
 上から3つ目までボタンの外したシャツからチラリと覗く胸元————


 かっこ、いい……。


 もしも自分が今、少女漫画の中にいたとしたら、絶対目がハートになっているに違いない。
 あたしは高樹くんに魂を吸い取られてしまったかの様に、うっとりしてしまった。


 ビリヤードの台に腰掛けているあたしのお尻の傍に、高樹くんが突いた白いボールがゆっくりと転がってくる。
「ハッ」っと我に返ったあたしは手でよだれを拭いて、台から降りた。


「はいっ。じゃあ次は、なみこちゃん、やってみて」


「えっ!? う、うんっ。白いボールを突けばいいんだよ、ね?」
 彼にいきなりビリヤードの棒を渡され、あたしは慣れない手つきで白いボールを狙って構えた……はいいものの、
「————棒の持ちかたが、わかんない……」
「初めてだもんね。ふふっ、この棒“キュー”っていうんだよ」
「きゅっ、キュー?」
 キューと共にキューキュー鳴り出すあたしの心臓。
「構え方は、なみこちゃんは右利きだから、こう持って……こう、かな?」
 へっぴり腰のあたしの後ろに高樹くんがピッタリと密着して優しく両手を回し、キューを持つ手を支えて親切に教えてくれる。


 近すぎる。————もう、びりやーど、どころでは、ない。


 あたしの心臓の音を聞かれてしまうんじゃないかという心配をよそに、高樹くんはキューを持つ緊張で震えているあたしの手の上から自分の手を包みこんで耳元で囁いた。
「5番のボールに当てるつもりで、白いボールの真ん中を強めに突いてごらん」


「はっ、はいっ!」
 裏返った声の返事に加え、さっきからキューキュー鳴りっぱなしで止まらないあたしの心臓。
 ずっとこのまま時間が止まってくれればいいのに————


     ☆     ★     ☆


 せっかくあんなに親切に高樹くんに教えてもらったのに、5回もファウルを(しかも2回、空振り)してしまい、やっとの思いで5番のボールを“ポケット”に落とした。
「——ふぅぅ」
 情けない。ホント、ダメ人間だ、あたし……。


「高樹くん、って、左利きなんだね」
 ビリヤードってこんなに息切れするものだったんだ……。
 と、おでこにかいた汗を手で拭いながら苦笑い。
 高樹くんがズボンのポケットから左手でハンカチを出して、
「んー。一応は両利きなんだけど、左利きの人って少ないでしょ? なんかカッコいいかな、って思って」
 舌をペロッと出しお茶目な笑顔を見せて、あたしのおでこをハンカチで撫でる彼。
 高樹くんは左利きじゃなくっても充分カッコいいと思う。……っていうか、両利きだなんて凄すぎる。


「————僕、テクニシャンだからね」
 高樹くんはビリヤードの台に腰掛け、あたしの手から取ったキューを背中側に持ち、6番のボールをいとも簡単にポケットに落とした。
 そして台から降り、あたしに向けて得意げな顔でウインクをしてきた。
 え? 何シャン?
 拍手をしながら固まるあたしの顔面。
 お願いだから突然の英語はやめてほしい。意味が分からず、あたしは茫然としていた。
 せっかくさっきまで雰囲気良く(?)弾んでいた会話が、あたしのバカさのおかげでプッツリと途切れてしまった。
 とっ、とにかく、この空気をなんとかして変えなくっちゃ——!!
 あたしは頑張って返した。


「てッ、“テクニッシャン”だなんて、すごーい、高樹くん!」


「なみこ、ちゃん?」
「んえっ?」
 ————どうやら思いっ切り墓穴を掘ってしまった様だ。
 高樹くんは大爆笑したいところを懸命に堪えている顔で背中を震わせながら、あたしにキューを渡してきた。
「ああっ、そ、そうだ! 高樹くんっ!」
 あたしは受け取ったキューを再び彼に渡した。


「このボール、9番まで全部ノーファウルで落としたら、今度の日曜日、あたしとデート、してあげる。キスつきで」


「…………」
 ————部屋の中が急に静かになった。
 あんなあたしの言葉をまともに間に受けたのか、ビリヤードの台の周りをゆっくりと歩きながら、真剣な顔で残っている7番、8番、9番のボールとポケットの位置をキューを使って計算している高樹くん。
 “照れ隠し”でとっさに出てしまった、すっとんきょうな言葉なのに。
 しかもこんなにカッコいい高樹くんに向かって、キスつきのデートを“してあげる”だなんてエラそうに。何を言っちゃってんのだろうか、あたしは————
 もうこれ以上何も言わない方がいい。
 あたしは自分のくちびるをギュッと締めて高樹くんを見た。


「一発で落とす……」
 彼は唇を噛み締めてキューを構え、白いボールを思いっ切り突いた。
 白いボールが台の壁に跳ね返りながら転がり、色のついたボールに当たる度にあたしの胸が震える。ビリヤードはボールの位置を把握するだけではなく、微妙な力の加減も大事なのだ。それができないと、こんな風に……1回突いただけで残り3つ、全ての色付きボールに当てる事なんてできない。
 そんな事ができるだけでもすごいのに————


 ガコン、ガコン、
             ————ガコン。


 7番、8番、9番……番号の付いている全てのボールは、次々と綺麗にポケットに落とされていった。
「————すっ、ごぉい」
 白いボールは、高樹くんの勇姿にうっとりと口を半開きにして見とれてしまっているあたしの手元にコロコロと転がってきて止まった————と同時にあたしの心も高樹くんの一発で落とされてしまった。


「今度の日曜日、午前10時、この塾の前で待ってる。
 ————キス、楽しみにしてるよ……」


 高樹くんは嬉しそうにビリヤードのボールとキューを棚の中に片付けている。
 さっきボールの軌道を予測して計算していた高樹くんの顔を思い出した。
 あたしのことも真剣に考えてくれていたんだね。————ごめんね。めちゃくちゃな事言って試しちゃったみたいで。
 あたしは彼の方にゆっくりと近付き、後ろからフワッと抱き締めた。


「あんなに上手だなんて反則だよ……」
「ふふっ。友達とゲーセンで一時期どっぷりハマッちゃってね。気が付いたらなんか上手くなっちゃってた。 
 うん、でも今はもう“違うもの”にハマッちゃってるんだけど、ね」
 ? ちがう、もの……?
 高樹くんはあたしの手をほどいて振り向き、両手であたしの頬に指を添えて優しくキスをした。
「ごめん。我慢できなかった。
 こんなに可愛いなんて、なみこちゃんのほうこそ————反則だよ」


 キーンコーン。
 前半の講習終了のベルが鳴り出した。