複雑・ファジー小説

『日曜日のあたしは誰のもの?』 ( No.54 )
日時: 2013/10/31 17:08
名前: ゆかむらさき (ID: bIwZIXjR)

     ☆     ★     ☆


「——と、すみません! 遅くなりました! 中の方で少々取りこんでおりまして……すぐに送ります!
 保護者の方には連絡をしてありますので、安心してください」
 蒲池先生は息を切らしながら、あたし達に申し訳なさそうに頭を下げてバスに乗り、エンジンを掛けた。
「では、出発しますね」
 そしていつもより30分程遅れてバスが動き出した。
 信号待ちをしている時に手でトントンと叩いているハンドル。いつもよりも力の込められている発進する時のギアチェンジ。地肌の見える後頭部から吹き出ている油汗。とても焦ってはいる様子だけれども、きちんとスピード制限を守って安全運転であたし達を家まで送り届けようとしてくれている。蒲池先生は大変なんだ。塾の先生だけではなく、わざわざあたしと松浦くんたった2人だけの為にバスの運転手もしているのだから。
 今度、お礼に何かあげたいな……。
「ねぇ、松浦くん……」
 あたしは隣に座っている彼の腕に軽く指をつついて聞いてみた。


「は? 蒲池の喜びそうなもの? そりゃ、髪の毛じゃねぇの?」
 やっぱり松浦くんなんかに聞くんじゃなかった。この人は“人への感謝の気持ち”というものがないのか、ふざけた答えが返ってきた。
 もういい。あたしひとりで考える……。
 あたしは、ほっぺたを膨らませて窓の外を見た。
「おい、なみこ。そんな事より今度の模試……もうすぐだけど大丈夫なのか? おまえの母さんから聞ーたけど、英語が相当苦手らしーな」
 そのまま松浦くんはわざと声のボリュームを上げて先生に聞こえる様に話した。
「塾に入って初めての試験で、いー結果が出せたら、それが一番蒲池喜ぶと思うぜ! おまえの母さんもな。————カタチのあるものだけがプレゼントとは限らねぇよ」
 あたしの顔も見ずに、カバンの中から出したチューイングガムを口の中に入れながら話す松浦くんの言葉が、あたしのほっぺたの空気を抜いていく。松浦くんの傍にいると今までは冷気だけしか伝わってこなかったけれど、今は不思議と……微かにだけれども温かさを感じる。ただ単に先生がかけてくれた暖房が効いてきただけなのかもしれないけれど————


 
 尖っているのは案外髪の毛だけなのかも……。
 窓の外に向けていた視線を松浦くんのムースで固くセットされたツンツンヘアに変え、ボーっと眺めていたら信号が赤になり、バスが止まった。
 運転席の蒲池先生がシートから顔を出して、にっこりとあたしに微笑み掛けてきた。
 隣で松浦くんが少し恥ずかしそうに顔を背け、「暑っちー」と言って手の平で顔をあおいでいる。
 そんな彼に、
「……そうだね」
 なんては言ったものの、よく考えてみたらあたしは勉強の仕方すら分からない。(ちなみに前回の英語の模試の点数は100点満点中12点……とヒサンな結果だったし)


「……俺が教えてやっても、いいぜ」


「え?」
 い、今、この人……何て、言ったの?
 向こうを向いたままではっきりとは聞こえなかったけれど、松浦くんが突然信じられない事を言い出した。
 聞き間違えたかと思い、あたしはもう一度聞き返してみる。
「ねぇ、あたしバカだよ? こんなあたしなんかにに……本当に教えてくれるの?」


 信号が青になり、再びバスが動き出した。
「——プッ。そんな事、ずっと前から分かってるって。英語なんて、俺にかかれば一日漬けで6、70点アップは、あたりまえ」
 6、70点、アップ……。
「仕方ねぇな。蒲池とおまえの母さんだけじゃなく、おまえもついでだ。……喜ばせてやる」
 チューイングガムを風船にして膨らませながらだけど、彼はあたしに優しい言葉をくれた。


 急カーブに差し掛かり、バスが少し傾いた。あたしの心も一緒に。
 松浦くんの腕があたしの肩にそっと触れ、心臓の音が再びさっきの様に騒ぎだす————
 今日松浦くんに強引にされた2回のキスを、今の言葉で許してあげる事にした。正直、高樹くんには悪いけれど、軽いキスだけならば、もう1回されても構わないかな? って思ってしまうくらいに嬉しかった。


「……どうするんだ? ところでおまえは今度の日曜日、空いてンのか?」


 松浦くんはガムを噛みながらカバンの中から黒い皮張りの分厚いスケジュール帳を出し、あたしの顔をジッと見て言った。
 えっ? に、日曜日!?
 だって日曜日は高樹くんとデートの約束の日。
 普段は塾以外のスケジュールなんてものはなく、スケジュール帳を持ち歩かないくらいのあたしなのに。
 よりにもよって、今度の日曜日に2つの(しかも男の子との)約束が重なってしまう事になるなんて思ってもみなかった。
「えっと……にっ、日曜日しか……ダメ?」
 あたしは手の平を擦り合わせながら松浦くんをチラリと見た。


「——ダメだ」


 彼はスケジュール帳を閉じてカバンにしまった。
「じゃ、この話はな無かった事に」
 どうして……?


「悪ィな。俺だっていろいろと用事があンだよ。日曜日しか受けつけない。……残念だったな」


     ☆     ★     ☆


「はい、着きましたよ」
 あたしの家の前でバスは止まった。重たい気持ちのままで座席から腰を上げると、
「わたしも玄関まで一緒に行きます」
 きっと遅れた事のお詫びをするためだろう。多分お母さんはあたしの勉強の事だけしか心配していないだろうから、別にそこまでしなくたってもいいのに……と思うけれど、先生は車のハザードランプを点けて運転席から降りた。そして外から回り、スライドドアを開けてあたしの事を待ってくれている。


 日曜日の“臨時家庭教師(?)”の話を断ってから、結局、松浦くんとは一言も話をしなかった。
 断った理由は聞かれなかったけれど、もし聞かれたとしたら都合のいい嘘をついてごまかしていたかもしれなかった。彼に“は”高樹くんとのデートの事は話したくなかった。なんとなく……言わない方がいいのかと思ったのだ。 
 その日が日曜日じゃなかったとしたら、きっとお願いをしていただろう。(6、70点アップだったし)
 本当は松浦くんの優しさを受け止めてあげたかった。


「…………」
 あたしは、せっかくの松浦くんの優しい気持ちを踏みにじっちゃったんだ————
 バスから降りたはいいものの、そのまま帰る気持ちになれなくて立ち止まっていた。
 先生は、どうしたらいいのかと困った顔をして、おでこに手を当ててオロオロしている。


「はやく帰れ! 先生待たしてんじゃねぇ、バカ!!」


 後ろから来た松浦くんに背中を押され、急かされた。彼にこんな扱いをされるのはいつもの事で慣れているはず。……なのに、さっきの優しい言葉をくれた彼が“本当の松浦くん”だと信じたい————
 松浦くんはあたしを睨み、舌打ちをして、自分の家に向かって歩いて行った。
「おやすみ……なさい」
 あたしは小さく震えた声で言った。
「……あれ?」
 松浦くんは足を止めて振り向いた。……そして、何故かまたこっちに戻ってくる。
「どうしたんだろ……。あれ?」
 声だけではない。あたしの体も一緒に震えている————
 気が付くと、あたしの目からポロポロと涙がこぼれていた。
 今までは、松浦くんにどれだけ酷い事を言われても絶対泣かない、って心に決めていたのに……どうしてだろう。彼の優しさを見てしまったからなのだろうか。
 こんな顔、見られたくなかったのに。
 あたしは両手で顔を覆って隠した。
「——チッ! 何やってんだよ。本当めんどくせぇ女だな!」
 今までとは違う……まるで壊れ物を扱うかの様に優しく————松浦くんに抱き締められた。
 彼に抱き締められたのに何故なのか今回は初めて鳥肌が立たなかった。
 あたし達の姿をチラチラと見ながら、先生はさっきよりも困った顔をして、赤く染まったおでこに手を当ててオロオロしている。


「————どうせ腹でもへったんだろ。はやく家帰ってメシ食って寝ろ。
 ……おやすみ」