複雑・ファジー小説

【其ノ一、約束の始り】 ( No.13 )
日時: 2013/10/29 17:54
名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)

「貴椿太夫、髪結い師がおいでなんした」

 おあげを綺麗に平らげて人型から狐へと戻った紫紺は、貴椿の膝の上を陣取りその毛並みを櫛で整えて貰っていた。その表情は穏やかで、寛いだ様子がありありと現れている。貴椿はその毛並みに癒されるように母のような優しさで毛づくろいをし、紫紺は心地よさそうに瞳を閉じている。
 襖の外から掛かった野分の声を、紫紺はもっと前から分かっていたのだろう反応は見せず、貴椿もそろそろだと分かっていたので別段驚くこともなかった。

「あい、お通しなんし」

 下で待たせているのだろう、野分は一度階段を下り髪結い師を伴い戻ってきて、やっと襖を引いた。
 現れた人物に、貴椿はいち早く声をかける。腕の中の狐の毛が膨らんだのを、宥める様に撫でながら。

「ようおいでなんした、ご苦労さんでありんす。お上がりなんし」

 先程までの少し崩れた廓詞ではなく、どこから聞いても隙のない音に野分は安心したように微笑んで、廊下から襖をそっと引いて行った。
 ばれてるな、と紫紺と二人で居るときの言葉遣いを思い起こし、野分の目は誤魔化せないと内心苦笑するがそれはおくびにも出さない。目の前に、客ではあらずとも人が居るのだから。

「じゃあお言葉に甘えて。
 何だ、今日は太夫の膝で毛繕いか?世の男共全員の嫉妬の的だな」

 貴椿に軽く会釈をすると、特徴的な外見の男は紫紺に声をかける。いきなり部屋の主に話しかけるよりも早く狐に声を掛ける男の態度は、それこそ「世の男共の嫉妬の的」である。
 前髪を緩く後ろに纏め、髪は髷(まげ:頭頂部分で膨らませて作る髪結いの際用いる部位のこと)や髱(たぼ:うなじ上部分で膨らませて結い上げる部位のこと)は作らず、腰まである長い髪を左側に緩く紐で結んでいる。前髪部分に簪を幾本か刺している様子は、男か女か一瞬戸惑う。その顔はよく整っていて、どことなく誰かを彷彿させる。

「あまり口さがなく仰りぃすと、また仕置かれなんすよ」

 ぶわりと警戒や不快感で総毛立つ毛を相変わらず宥めながら、片方を眼帯で覆っている男を見遣る。赤い着流しに緩く結んだ長い髪と刺した簪、その派手さを着こなす美顔に右目に掛けられた眼帯と長身。髪結い師と呼ばれる、複雑で精巧な遊女たちの髪型を作り上げる腕の良い職人だ。名を東雲しののめと言い、貴椿の髪結いを許された唯一の髪結い師である。

「そりゃ堪らん。また姿を解かれたら俺は出入りもできなくなって仕事がなくなる」

 おどけた様にそう言う東雲は、貴椿が紫紺を拾ったその日、勿論紫紺とも顔を合わせている。一尾の狐となって普通の狐よりも少し色が薄い程度に擬態した紫紺を見て、唐突に一言。「天狐様とは珍しいもん見たな」と。
 長く付き合いのあった貴椿は、東雲とはただの髪結い師として接してきた。だが唐突にそう口にした東雲と、警戒で唸る紫紺、勘の良い貴椿には分かってしまう。「人間ではない」。
 東雲の正体は、妖。それもどんな妖の姿も見破る術を持つ、雲外鏡と言われる妖。それは化かしの狐にとって天敵どころではなく、最早相性悪くも変化へんげの通じない相手である。紫紺は貴椿の膝から飛び降り東雲に向かって怒りに唸り、前屈姿勢となって威嚇した。ビリビリとした空気は貴椿の肌を刺し、東雲を威圧した。唐突に振り向いた紫紺に何かと思っていれば、次の瞬間には首筋に鋭い痛みが走り噛み付かれたのだと気づくと同時、目の前には完全な人型ではなく獣の耳と尾を生やした紫紺、煌びやかで仰々しく曇りひとつない鏡が落ちていた。
 それは東雲の本来の姿、百年の時を生き命を得た鏡、神社に祀られ九十九神となった雲外鏡の姿だった。それを知った時の貴椿の心境たるや、首筋の出血も忘れて鏡を手に取った程だ。

「この世は摩訶不思議とは、よう言いんしたものでおざんすなぁ」

 肩を竦める東雲を見て貴椿はくすくす笑う。まさか長年幼き頃より知っている髪結い師が、出会ったばかりの異形と同じ同士だなど。だが有り得ない事が起こり、知らない事が当然なのもまた世界だと、貴椿は改めて思うばかりだった。紫紺に噛み付かれたこともそのひとつで、伴侶候補である貴椿からどんな形であれ生気を得ることができれば変化は可能だと言う。傷は東雲を雲外鏡の姿に戻して、取り敢えず気の済んだらしい紫紺に一瞬で消してもらえたが、当たり前だが痛みはあるし着物も汚れる。普段変化する時は口づけにしろと、貴椿はそのあと紫紺に頼んだ。
 兎に角そんな出会いもあり元々相容れぬ妖と言う事もあってか、毎日東雲が仕事に訪れる度一悶着あるので、自由な入室を許可していた東雲だが野分に取り次ぎをして貰い、膝の上に紫紺を確保してから入室して貰うようにした。そのお陰で貴椿が宥めている間は、比較的大人しくできるようになった。

「狐は人間が好きな一族だしな、貴椿太夫の器量なら座敷わらしでも守り神でも寄ってくるさ」

 それを聞いてやっと落ち着いた膨らみが再び膨張するのを、貴椿は含み笑いをしながら宥める。

「そりゃ騒がしくなりんすな、わっちゃあ今のまんまで十分楽しゅうござんす。
 あれ、お天道様がおやすみなんすよ」

 はやくしなければ太陽も沈んでしまう、実際にはまだまだ沈む時間でもないが会話を繰り返していても紫紺の機嫌が降下していくだけだ。東雲にそう声を掛けると「早く結っちまおう」と、姿見の前まで移動して掛布を上げて鏡を顕にする。
 何故髪結い師をしているのかと随分昔に聞いたことがあった。その時東雲は「アンタが芸妓を習ってる理由とおんなじことだよ」と言った。自ら選んだのだろう職業に、貴椿は誇りを持っていた。そして恐らく東雲も。
 道具箱から櫛を取り出す東雲を見て、貴椿も紫紺を抱いてそこに向かった。