複雑・ファジー小説

【其ノ一、約束の始り】 ( No.16 )
日時: 2013/10/29 17:55
名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)

———そうだ、神……

 背筋を流れる嫌な寒気は足元から這い上がってくる妖気のせいだろうか。神?冗談じゃない、これは神気でも霊気でもない。禍々しいものや負の感情を糧とする、妖しか持たぬ妖気だ。
 神じゃない。
 浮かんだ答に、また全身が泡立つ。
 じゃあ、何だ?
 何だと言うのだろう。神の瞳の妖気を持つ者。得体の知れないものに恐怖を感じたまま、スッと視線を上げれば不意に視界に飛び込むのだ。
 三日月のように嗤う、狐と。
 嗤っている。笑うのではない、己よりも圧倒的に劣るものを見る、さながらネズミを弄ぶ猫のような残酷さを孕んで。
 射竦められる。視線を外せない。呆然と見るしかない。全身は焦りで湿っているのに、内心で警鐘が煩い程響いているのに。
 琴線に触れたのか?
 身体にじっとりと汗を掻いて鏡越しの何かに恐怖で瞠目しながら、東雲は固まったように動かない。いや、動けなかった。今居る場所が何処かも、何をしていたのかも、自分の姿さえも分からぬ混乱の中、不意に声が響いた。

「アレ、お止めなんし」

 泥濘ぬかるんだ血沼から、不意に足が外れたように、東雲は重苦しさから解放された。そして我が目を疑った。

「そういさかうもんじゃあおざんせん、こと吉原で争い事を起こしゃア出入りは勿論、おまんまにもありつくが夢物語になりんすよ。
 東雲どん、あまり出来心を起こしなんすな。紫紺の堪忍袋の尾が切れおす。
 主も短気を起こすものではありんせん。東雲どんはお勤めでおいでなんす。主の気紛れに振り回されちゃあ果たせる勤めも出来んせん」

 軽くなった空気は半ば白けたように辺りを満たし、あの最中存在さえも感じられなかったたかだか人間の女風情の一声で、緊迫の糸が緩んでしまった。
 しかも今はその狐の尾に櫛を垂直に当てて、半ば、脅しているように見えなくもない。
 東雲は拍子抜けしたと同時、また今度は違う意味で息を飲んだ。

「それとも、
おあげはいりんせんか?」

 キラリ、必殺技でも繰り出したような鋭い瞳で放った一言の、なんと間の抜けたことか。東雲は思わず口を挟んだ。

「まあその、なんだ。俺も悪かったしな、両成敗ってことで……」

 しかもその必殺技で紫紺の耳が情けなく垂れるのだから面白い。たかが人間、されどその人間は貴椿だ。狐の寵愛をその身に受けて、これだけ平然としていられる人間もそう居ないだろう。東雲は感心したような、恐ろしいものを見たような心地でさっさと貴椿の髪を結い上げ、挨拶もそこそこに宵月喜楽楼の置屋を後にした。

「こりゃあ面白くなりそうだ」

 遊女達の引き込みの掛け声や、個人的な媚声を背に、九十九の鏡はほくそ笑んだ。

【其ノ一、約束の始り】 ( No.17 )
日時: 2013/10/29 17:55
名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)

「全く、ほんに主の堪忍袋が目に見えたなら、定規で長さでも測ったものを」

 貴椿の呆れ返った呟きに、紫紺は不満げに鼻を鳴らした。

「何にしても、敏感になり過ぎじゃ」

 ちろりと横目を寄越した紫紺は、貴椿の言葉を否定するようにまたすぐに視線を逸らす。

「元を正せばわっちに珍事がよう起こるようになりんしたんは、主が来てからぇ」

 紫紺もわかっているのだろう、ふぅとため息を吐き出した。
 少し沈んだ様子の紫紺を、貴椿は膝から抱き上げる。

「気に病むこったありんせんが、そんなら大人しくしやんせ」

 穏やかに笑う貴椿の口元に、紫紺の長い獣の口が触れる。自分の体に重みを感じた貴椿が衝撃に瞑った目を開いた瞬間、目の前には真顔の美神が覆いかぶさっている。

「あれとて妖。
 人の世に混ざり暮らす妖だ、危害を加える気は毛頭なかろうがな、その性は人とは一線を画している。気を付けるに越したことはない」

 いつも貴椿を押し倒しておいて暫くはしげしげと眺めている紫紺だが、今日はいつもと違い直ぐに口を開いた。忠告する為に変化したのだろう。
 貴椿は自分の頬に落ちてきた銀糸の髪をそっと指先で掬って、紫紺の表情を見つめた。少し隠れていた目元が見えるようになって、光を遮っているせいだけではない暗い表情に微笑みを返した。

「そんなら主はどうなのかぇ?」

「………」

 この質問は、何度ももう問うた。だがそれに、返答が返って来たことはない。いつも聞いては、それまでと変わらぬ表情と態度で時間が過ぎる。態度も表情も、空気さえも変わらないのに口は閉ざしてしまう。言いたくないのか、言えないのか。

「いつも主は黙んまりじゃな」

 それを寂しいと感じるでもなく、貴椿も変わらぬ表情で微笑んで、いつもこの会話は流れる。川を流れる木の葉のように。スッと何の違和感もなく通り過ぎていく。

「……」

「……」

 何方も口を開かないまま、窓から差し込む赤い光だけが時間を過ごしているようだ。静止した光景は、そのまま絵画に写しとられてしまいそうな非現実の空間を感じさせる。

 貴椿は悲しくはない。紫紺が正体を語らず、明かさぬ訳を。

 紫紺は言いたくないのではない。ただ不必要だと感じている。

 夕日が一日の仕事を終え最後の力を振り絞って沈んでいく。全ての力を震えるように放出して、最期の時を迎え、これから消失する星のような輝きを残していく。
 毎日死んでいくようだ。出ない声の代わりとでも言うように燃え尽きるような朱さを残して行く太陽を見て、訳も分からず泣いたことがあった。何故悲しかったのか、貴椿には今でもわからない。
 何故か今、それを思い出した。

「……太陽は」

 ポツリと小さく呟かれた言葉にも、紫紺は頷いたりはしない。いつも、聞いていないようで聞いているし、聞いているようで聞いていない。そこに居ても居なくても、同じようにしか感じない儚さを、貴椿はずっと紫紺に対して感じている。

「太陽は、毎日死んでいくと知っていんすか」

 太陽は毎日血のような朱を残して沈む。その様子が、貴椿はいつも太陽が叫んでいるように見えた。二階建てまでしかない造りの建物だけの吉原からは、太陽がよく見えた。
 毎日毎日、死を繰り返しているように見えた。

「主には国境など分かりんせんでありんしょうが、人の世には文化があって、弱い人間はそれぞれの土地に合わせてやっと暮らして生きていけるんじゃ。ほんに脆弱かと思いんしょうが、だからこそ様々な文化が生まれた。
 こことは違うその文化のひとつに、太陽は毎日死んで、生まれて来ると、死と再生を繰り返すと言う思想がありんす。」

 だが、その太陽を気に留める者は誰もいない。その信仰を持つ者でさえ、有難いとあやかるだけだ。
 ただの思い込みと先入観、夜が来る不安、潜在的に感じた侘しさ。それらが重なって、貴椿がただしただけの勘違いと妄想かもしれない。だがもしかしたら、そうではないかもしれない。「もしも」の無意味さは貴椿はよく知っている。「もしも」の現実逃避は無意味だ。だが、可能性を模索する為の「もしも」なら、それは希望に繋がる。

 毎日死んで、また生まれ来る。だがそれが当たり前で、誰も苦しさなど分からない。当たり前に過ぎ去り、また現れる。
 まるで客と遊女ではないだろうか。
 客に本気になったことは一度もない貴椿だが、それでぼろぼろに傷付く者たちを幼い頃よりずっと見てきた。そのせいなのだろうか、それとも真理なのだろうか。人は去り、少しの思い出を抱えて前に進むのだと思っている。
 進むのだ、前へ。
 少しの、思い出と共に。
 共に思い出「だけ」を伴って。

「毎日死んで、また生まれ出ずる。来る日も来る日も、毎日毎日。当たり前に通り過ぎて、当たり前にやってくる。
 じゃあそれは同じ太陽でありんしょうか。」

 もし違うのならば、人は人を、現実を。何を以て同じと表現するのだろう。
 当たり前に通り過ぎる、余りにも刹那的な無常が溢れるこの世界。
 太陽も、客も、遊女たちも。誰も彼もが通りすぎ、宙ぶらりんな貴椿は過ぎ行くものを眺めているだけ。まるで自分は景色で、彼らには時があるようだと、孤独感を感じていた。

「もし違っても、わっちは昨日の夕日を覚えていんせん。一昨日だとも一昨昨日だとも、おぼえていんせん。
 皆そうじゃ。それが普通でありんす。わっちも覚えていんせんのじゃ、じゃがそれは寂しい。
 わっちが去ろうと、誰が去ろうと、それを見送る側だとていつかは去る者になろう。ただ堂々巡りで、何が残りんす」

 今宙ぶらりんな気がしている貴椿とて、いつかはこの街を出て行くだろう。見送る景色から、見送られる景色へと変わっていく。だがその先もずっとそんなことは繰り返されて、時と言う無常が訪れるだけだ。

【其ノ一、約束の始り】 ( No.18 )
日時: 2013/10/29 17:56
名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)

「……お前は」

 ただ語る貴椿の瞳を覗き込むように、紫紺はやっとその口から言葉をこぼした。

「お前は何を手に入れたい?
 お前が言っているのは全ての真理を明かしたいと言っているのと同じ事。所詮は粒だ。この世を無数に作り上げている砂粒に過ぎん。どんな強大な存在も、如何に矮小な生き物も、無限の世界の中では気にも止められぬ一部よ。
 人は妖には矮小な存在よ、妖とて神にすれば瑣末な出来事。神とて多く存在し、その頂点などわかるものか。どんな神とていつかは朽ちて、また強大なものが生まれよう。だがそんな背比べも、矢張り世界で見れば瑣末よの。頂点などと言う概念は、人間なればこそ生まれるもの。
 人は人として生き、妖は妖として存在し、神は神として全うする。過ぎ去るものは短く短命なものが早いが道理。」

 過ぎるが遅いか早いか、ただそれだけのこと。
 人にはわかりえない領域にいる白狐の姿の異形は、楽しげに笑った。ただ愉快だと、初めてその顔に感情を浮かべて。

「お前はそれでは満足出来んと言うのか
 傲慢だな」

 傲慢と言われて、貴椿は目をパチクリと瞬いた。
 生まれて初めて言われた言葉に、内心唖然とした。いつも掛けられてきた言葉は、その真逆ばかりだったからだ。「もったいない」「無欲」そればかりで、実際物欲などは薄く、何かを狂おしく欲したことなどただの一度もない。貴椿自身、何故こんなにも淡白なのかと疑問に思うこともあった。だがそれでも、現状には満足している。穏やかな空間は好きだし、反面渦巻くように人の欲が溢れる熱源のこの街が嫌いではない。
 汚い部分のなんと多く、醜いのが人かと思い知らされることの方が多いだろうが、廓の仲間、そこに生きる人、それぞれの人生が交差する様子。それらの凝縮されたこの街で、なんの不満があると言うのか。貴椿自身はないと思っていたし、この宙ぶらりんな気分がどこから来るのか、それは最早人格の一部なのだと思っていた。

「傲慢、でありんすか?」

「何だ、気づいてなかったのか。
 何処か孤独で、つまらないと感じることがあるのだろう」

 心底愉快そうだった笑みは口元にその影を残して、もうステージからは退場している。

「……」

 ぐちゃぐちゃと言葉を並べ立てても、この狐にしてみればこんな言葉で済んでしまうらしい。だがその通りで、貴椿は僅かに顎を引いて頷いた。
 宙ぶらりんな、周りに感じた疎外感を単語にするなら、あれを孤独というのだろう。そして不意に感じる切なさは自分の居る場所に対する疑問からきていた。

「それは現状に対する不満だ。
 人間が感じる特権そのもので、我らにはないもの。人の中に埋もれて分からずとも、我らには分かる。
 それを持たぬ我らにはそれは光って見えるからな。
 欲望、向上心、探究心。よくよく似たような言葉を人間は考えるが、つまりは欲だ」

 自分は無欲な人間だと思ってきた。
 ここから抜け出したいとも、誰かに愛されたいとも、感じたことはない。
 いつも真顔な上、極端に口数が少なく我が儘極まりない、それこそ傲慢な態度の狐は饒舌に、愉快を口の端に僅か浮かべて、その言葉を口にする。

「それならば、お前の持つ欲求はこの世の心理を知りたいと言うもの。人が持つにはあまりにも傲慢な願いよの」

 とうとう喉の奥でくつくつと笑うのだから、よほど愉快なのだろう。 何故人は過ぎ去るのか、その景色に居たくない自分。だがこの世に存在する全ては景色どころか砂粒で、それが嫌だなどというのは神にでもなろうと言うも同じ事だ。そう言いたいのだろう。そしてそれは端的に、単純に、単刀直入に言葉にすれば「現状に対する不満」なのだという。

「だがそれ故に己が望みの全貌を把握しきれなかたのだろう。」

「……ふむ」

 取り敢えず考えながら、頭の整理をしながら、理解できた部分までで相槌を打つ。
 そして紫紺は一層、今までで一番楽しそうな笑みを浮かべた。

「その願い、手伝ってやろう。
 人よりはこの世の理に近い我が力、お前の下に置くがいい。
 これよりお前のえきとして使えてやる」

「ちょっとお待ちなん……」

「異論は認めん」

 勝手に話を進めるなと遮ろうとした言葉の上に、またさらに被せられて、貴椿は勢いに押されて唖然とした。紫紺の愉快そうなこと。

「人の存在で俺を使役できるなど、どれほどの幸運か身の程を知れ。拒否権などない。
 人の器には収まりきらぬその願望、落ちた人の世の縁よ。ついでに手伝ってやろう」

 影になっている紫紺の表情だが、何と生き生きとしたことか。まるで新しいおもちゃでも見つけたかのようだ。

「お前には異形に触れる機会を、俺には人の世で学ぶ期間を。
 何も問題あるまい」

 どうやら貴椿のせいで紫紺は人の世に興味を持ってしまったらしい。この狐の我が儘は、貴椿はもう十分身にしみている。恐らく聞きはしないだろう。
 配下に置くと言っても事実貴椿の下に位置する状況になる訳もない。この威厳ある存在が、人の下に甘んじるなど信じられないし、何より本人の性格が確実に向いていないだろう。どう考えても上に立つ、支配し慣れている立場にあるだろうに、そんな得体の知れないものと深く関わるなど考えるだけで頭痛がしそうだ。

「さてじゃが、主は次の狐の嫁入りで帰ると……」

 手っ取り早く帰るには人の世で嫁を取り、文字通り嫁入りして凱旋すれば呪いは効果を発揮しないと言うから貴椿に事あるごとに嫁に来いと声を掛けていたが、どうも道具としか見られていないようだし流していれば、東雲が訪れる前桜を眺めていてポツリと零していた。前からその方法はあったのだが、確実な方法でもない為気乗りしないとのことだった。
 それでも貴椿の様子を見て諦め、次に出くわしたら帰ると言う話だったではないか。

「元よりいつ嫁入りがあるかも分からん。俺が力を使うにはこの世で何らかの契約を行使して、呪いが掛ける制限の領分を押しやらなければ結局は狐の嫁入りに追いつくこともできん。」

 よくはわからないが、嫁取りと同じようなことだろうか。

「呪いは天に入らせぬ為のもので、力を封じる効力はそれほど強くはない。強力ではあるが、なお強い契約や呪いの類をぶつければ呪いの持つ効力は弱まる。そしてその新たな契約が力を使えるものであるならば、その契約が占領した力の範囲内は使える。」

 なるほど、言わば呪いや契約の陣地の取り合いといったことろか。力はフィールド、呪いは敵、契約は味方。で、力という戦場の、呪いの陣地を獲ろうとしているわけか。

「そんなからくりでおざんしたか」

 関心している貴椿の様子に、紫紺は不意に真顔になった。

「それに、孤独感も薄れよう」

 側にいる。
 契約のあいだは。
 突然現れ、そして矢張り突然消えるだろう。過ぎ行くものだから、そう思うが故に、貴椿は紫紺が正体を明かさぬ事実にも悲しみなど感じなかった。最初から諦め、割り切っていた。過ぎゆくものの、多い街だから。
 だが、契約は、約束だ。
 貴椿は胸の内がキュッと痛んだ。

「じゃが、主は帰らねば……」

 期待させるな、そう言って去ってしまうのなら、最初から、期待させるな。
 帰ると言って欲しい。
 帰ると言って欲しかった。
 だが、そう思うのに紫紺の髪をそっと避けていた指先は、僅かに震えを伴って紫紺の陶磁のように滑らかな頬に伸びていく。

「人一人の一生など、俺にとっては一瞬。例えお前が何れ程生きようと、俺の暇な時間潰しの一時だ」

 ゆっくりと、伸びていった指先が、とうとう頬に触れた。

「一生居るつもりかぇ?」

 泣きそうに歪んだ顔で貴椿は笑う。
 種類の変わった胸の痛みに、貴椿はじわりと涙が浮かぶのを感じていた。いつぶりなのか、もう思い出そうともしなかった昔、最期に流したのは初めて客と床入りした時だったか。
 胸は痛い程に歓喜で満ちていく。

「お前が人の世で謳歌する人生と、分不相応なその願いの結末、共に見届けてやろう。」

 頬に伸びた細い指が、大きな手のひらに包み込まれた瞬間、貴椿の頬に一筋、歓喜の雫が伝った。

「そりゃ、指切りじゃな」

 遊女として生きてきた貴椿の、最大の誠意の証は、指切りだ。
 花が綻ぶ様に笑う女を見下ろしながら、異形もふっと優しい笑みを浮かべた。露に濡れた花弁を誇る椿を愛おしげに見つめながら。


———約束だ。


 これが指切りの、始まりだった。