複雑・ファジー小説
- 【其ノ一、約束の始り】 ( No.7 )
- 日時: 2013/10/29 17:52
- 名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)
桜も満開の春只中の午後、春うららという言葉が正に相応しい日和にも、吉原ではいつもと変わらぬ日常が流れていた。
「貴椿太夫」
1人の太夫に付く世話役の中でも、それらを取り仕切る立場にある番頭新造である女に呼ばれ、貴椿と呼ばれた女はゆったりとした仕草で振り返った。
「なんでありんしょうかぇ?
何か御用でありんすか?」
古めかした言葉遣いだが、貴椿がそれを操るとどうにも不思議なのだが何の違和感もなく滑り込んでくる。廓詞と呼ばれるそれを如何に流暢に操るかも、遊女の品格を品定めする一つの要素とされている。
「今晩のお客は甚介なお人でありんすから、気を付けてくんなましね」
此方も随分流暢に廓詞を操る番頭新造だが、それもその筈。大見世である惣籬でダントツの人気を誇り、太夫への昇格前に身請けされ吉原から去った、最上級と呼ばれた花魁の一人なのだ。身請けされたにも関わらず、何故番頭新造などと言う身分も低く、面倒な世話係を吉原でしているのかと言うと彼女曰く「この世界は厳しく、楽しいから」と口にしたと言う。粋な彼女の生き様は最早知る人ぞ知るところで、吉原中の遊女達にとっては憧れの「格好良い女性像」を具現化したような存在だ。
「あい、重々肝に銘じていんす。
なんのまあ、お方様に至ってはあの性分は地獄に落ちても治りんせんでおざんしょう。
野分もこないだはお方様に迫られて手数ではなかったでありんすか?」
ヤキモチ妬きの客や、遊女相手に本気になる男も多いが、その中でも特にヤキモチ妬きな男が貴椿の今晩の客らしい。しかも番頭新造の野分にまで言い寄っているのだから、手に負えない女好きだ。
「そんなことに心づかいをなさりんすな、大したことではおざんせん。
今晩はあがりでおざんしょう、吉原もお客入りのけちなこと」
ふんわりと笑う上品な笑みで貴椿の心配を包み込むと、今日は暇だろうと告げて「狐の世話も捗るでありんしょう」と言い残すと今晩貴椿が纏う帯色について訪ねて去っていった。
酔狂な人も居るものだと野分の背中を見送って、貴椿も部屋へともどった。
「ああ、おあげを持って行かねばな」
独り言でそう呟くと、一度厨房へ寄る為に方向転換して歩を進めた。
- 【其ノ一、約束の始り】 ( No.8 )
- 日時: 2013/10/29 17:53
- 名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)
「榊は居るかぇ?」
厨房と廊下か仕切る暖簾を軽く腕で避けて顔を出した貴椿の顔を見て、榊と呼ばれた料理番は効率良く剥いていたじゃがいもをぼとりと取り落とした。
「……き、貴椿太夫!?
ま、またいらしたんですかッッ?」
昼餉も終わり、暇な時間帯であるこの時間を見計らって訪れた貴椿に、顔を赤く染め上げながら榊は動揺した様子で慌てる。
「昼ほどはゆるりとした時でありんしょう?あがりの時分ぐらいゆっくりとさせておくんなまし」
その様子を揶揄うように袖で口元を隠してクスクスと笑う貴椿に、榊はますます狼狽える。こうして揶揄われた過去で勝てないと悟っている榊は、身分の高さにも関わらず厨房などに訪れる貴椿を諌めるよりも、貴椿の目的を早々に達成させて去って貰う事に思考を切り替えて、半ば諦めたように話題を転換した。
「はぁ……、野分さんに俺が怒られるんですよ……。
どうされました?」
貴椿はおあげを貰いに来たのだが、料理人として一流である榊が提供する食事を、例え拾われた狐の餌だとしても忘れる訳はない。朝も昼も、きちんと貴椿の膳と共に狐の食事も運ばれてきて、それをペロリと全て平らげている。それは下げられた膳で榊も確認済みであろうから、どうしたのかと訪ねているのだ。
「それがな、おあげが無いせいか紫紺が不機嫌でな……」
困ったように笑む貴椿は少し首を傾げて榊へと視線を遣る。貴椿の手練手管に榊はまんまと揶揄われ、顔を赤くしながら冷や汗まで浮かべて貴椿の視線から逃れるように、わたわたと冷蔵庫へ頭を突っ込む勢いで覗き込む。
「え、ええとっ
おおおおおあげですね、おあげ!!
おあげ、おあげー……」
覗き込む榊の声が「うーん」と渋る様子へと変化していく。
「ありんせんか?」
心配そうにそう貴椿が問うた瞬間「あっ」と榊の声が上がる。
「あったあった、ありましたよ。」
ニコニコとしながら顔を上げた榊の表情に、貴椿もほんわりと笑む。
「どれぐらいご入用で?」
問われて一瞬考えるように瞳を伏せるが貴椿はすぐに顔を上げる。
「そうじゃな、取り敢えず2枚もありゃあ満足すると思いんす」
「じゃあお持ちします」
不自然に逸れる榊の視線にまだ揶揄いたい衝動が沸き起こるが、部屋で不満を訴える存在の要望を叶えるには榊の手際が重要となる。少し残念な心境を抱えながら榊をそっとしておいてやる事にしたらしい貴椿はやっと部屋へと戻っていった。
- 【其ノ一、約束の始り】 ( No.9 )
- 日時: 2013/10/29 17:53
- 名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)
遊女達の部屋は大抵2階にある。貴椿を支える、趣を重視しているのだろう木目も美しい床や階段は、その見た目に反して中には鉄筋などが通っている。今のご時世、人が住み客を招く空間である以上、耐震性は必須条件と言えよう。そんな裏を知れば興醒めの階段を上り、一番良い位置にある部屋の襖を引いた。
「何ぞけちなことなぞしとりんせんな?」
そう声を掛けながら部屋へ戻ると、もう昼も過ぎたと言うのに敷きっ放しの布団の上で丸まった白い塊が一つ。我が物顔で満足げに目を閉じていた。
「また気ままなことを……
食べてすぐ寝ると牛になる、言うことわざを知らんのかぇ?」
塊に向かって呆れたようにそう零す貴椿の声に、塊がむくりと膨らんだ。四肢が綺麗に伸び、面長の顔は寝起きの様子で目を眇めている。やっと起き上がった白狐は、名を紫紺と言う。今は一尾しか生えていない尻尾も、出会った当初は九尾あった。化け狐だと踏んでいる貴椿は尻尾が9つあった理由も、今は一尾な理由も聞かず、その内何処かへ行くだろう狐に寝食を与えて世話をし、時たま自身も狐に癒されながら、八分咲きだった桜が満開を迎える時を過ごした。
ふてぶてしく注文をつけてくる狐に可愛気があるかどうかではなく、動物自体がセラピー効果を発揮しているのだ。元来動物の好きな貴椿には嬉しさ半分、化け狐故に複雑さ半分、といったところなのだろう。狐の注文に、今のところ問題なく応えているようだ。
足元まできた狐を貴椿はひょいと抱き上げる。
「主は愛らしいの」
不満げにフンッと鼻を鳴らした狐の前足を肩に掛けさせ、重心を傾けると片手で抱え込む。そのまま部屋へと入り開けっ放しだった襖を閉めると窓の側に座り、狐を膝の上に下ろした。
狐は嫌そうでも嬉しそうでもなく、下ろされたからそこに居る、といった風情で貴椿の膝の上から動かなかった。
「撫でられるのは好かねえことはないんでありんすね」
つるつると艶があるのに、触れば柔らかい体毛をゆっくり撫でる貴椿の顔をちらりと見遣り、また満更でもなさそうに目を閉じた。
「ああそうじゃ、おあげは榊が持っておいでなんす。
後で頭の一つでも撫でさせておあげなんし」
「おあげ」の単語が聞こえた瞬間、耳がピクリと反応する。それにクスクスと笑いながら、紫紺を撫でる手はそのままに窓の外を眺めた。樹齢100年を超える桜の木がその姿を誇るように満開の薄桃の花弁を纏っている。いっそ折れるのではないかと幼稚な考えを抱くほど、樹には桜が花開いていた。
「綺麗じゃな……」
最盛期を迎え気が済んだ花びらから、順々に散り始める様子を眺める貴椿に釣られて、紫紺も窓の外へと首を向ける。目を眇める様子は人間くさく、感情が伺える。
2人で何をするでもなく窓の外を眺めて、時折貴椿が呟くように唄を歌う。透き通るように、流れるように紡がれる音を、紫紺はゆったりと聴いている。毎日の流れが穏やかで、紫紺が来てからのんびりと過ごす時間が増えたことに貴椿は気づいていない。
稽古に追われ、知識を蓄え、恋人ごっこを演じる。客と連絡を取り、騙し騙されながら恋愛を演じる。そんな時間に疲れを感じていたことに、誰が気づいただろうか。
人ではない白い狐だけは、もしかすると気づいているのかもしれない。
- 【其ノ一、約束の始り】 ( No.10 )
- 日時: 2013/10/29 17:53
- 名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)
ゆったりと時間を過ごしていると、襖の外に気配を感じたのか紫紺が窓から視線を外し、襖の向こう側を見透かすように視線を投げた。
貴椿が「おや?」と思った瞬間、カチャリと陶器の擦れる音がした。
「榊です。
貴椿太夫、お持ちしました」
「あい。
手数を掛けんした。そこでよござんす」
貴椿の言葉に従い廊下におあげを置いたまま、退去の旨を告げて榊は下がっていった。
榊の持ってきたものが何かとうに察している紫紺は、期待するように耳をピンと立てて急かすように貴椿と襖を交互に視線を彷徨わせる。
「そう急かすもんではありんせん」
幼子をあやすような心地でそう呟いて襖を引くと、そこには榊の用意してくれたおあげが綺麗に盛られて鎮座していた。盆の上には醤油と生姜、ネギの入った小皿に箸まで付いているところを見ると、貴椿も食べられるようにとの配慮が伺えた。
わざわざ気を使わせてしまったな、と今後の榊に対する接し方に気を付けようと考えながら盆を紫紺の前に置くと、醤油やかやくの入った小皿とおあげの盛られた皿とを交互に見る。少し考えるように首を傾げた後、貴椿を仰いだ。
「ん?どう……」
どうした、そう貴椿が言い切る前に口を塞いだのは他でもない、もう幾度か経験した獣の口だ。短い毛はチクリとする。貴椿が驚きで身を引いた瞬間、ぼわんとでも音がしそうな程煙が周囲に広がる。
ああ、変化か——
貴椿が心中でそう理解すると同時、目の前の存在感が増す。少しだけ冷たい煙が晴れ、視界がクリアになって目に映るのは、人外。
美貌。
美しい、かんばせ。
それどころではない、この世界の美をどれだけ寄せ集めても、神聖ささえ漂う本当の異形には叶わないと、人の手が、文化が、生が、及ばぬ所にいる者、それは尊ささえ伴って畏敬の念を抱かせる存在なのだと、貴椿が悟ったのはそう幾ばくも昔ではない。
煌く銀糸の髪は、輝く銀細工。肌は滑らかで透き通った陶器のような白肌。均整の取れた肉体は細身で、きっとその中身さえも正しい位置にあるのだろう。纏う衣服の皺でさえ、そうあることが一番美しい角度であるかのように。スッと通った鼻梁に、柳の葉のように優美な眉、紫水晶に金を溶かし込んだような虹彩は見るものを射抜く神聖さがある。
決して人の踏み入れない領域だと、目にするだけで悟れる。
美しさ故にまるで神の彫像のそうな存在は、貴椿の顔の両脇に腕をつき上から貴椿の瞳の虹彩を眺めている。尤も、貴椿にとっては心臓に悪いことこの上ないので早急に状況を打開したくはあるのだが、何度この状況を体験しても最初の一句を紡ぐことはできない。
畏れ、尊いあまりに、罪を犯す際の高鳴りにも、恋しいものに触れる時のときめきにも、恐ろしいものに出会った時の動悸にも似た感覚で、心臓は早く、早く鼓動する。
そうなっている貴椿の状況は分かるだろうに、紫紺はいつもこの体制から変化する。前足が腕にあたるのだろう、後ろ足を膝に前足を肩に乗せて2本足立ちになる紫紺の体制は、変化後には貴椿が重みに耐えられず押し倒される状況に至っている。
- 【其ノ一、約束の始り】 ( No.11 )
- 日時: 2013/10/29 17:54
- 名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)
「……」
「……」
どちらも言葉は紡がぬまま、けれど心中の穏やかさは比ぶべくもなく紫紺に軍配が上がっている。暫く貴椿を光から攫った後、動かぬ彫像でもない紫紺がやっと僅かに動きを見せた。髪結いをしていない貴椿の床に広がった、濡れ羽の髪に指をスッと通した。
「前から思っていたが」
徐に口を開いた紫紺に、貴椿はやっとこの状況を打開する糸口を見つけてホッと息をついた。その視線が執拗な程に貴椿の瞳を見詰めているのだけは勘弁願いたいと心中で呟いたが。
「お前、その瞳の色は生来それか」
低く、だがよく通る声は厳かな音色な筈なのに、聞くことは的外れで貴椿はやっと口を開く。
「……あい、瞳の色は生まれつきこの色でありんす。
いつまでもそう女の上で口上を述べるもんではございんせん、まだまだ宵の口は先でありんすよ」
女の上に乗っかって喋るだけとは野暮だと告げれば、何とも堪えていない様子の紫紺だがようやく貴椿の上から退いて、その形の良い指が動くと同時貴椿の黒髪が艶と共にするりと再び床に落ちた。
動揺を隠すように廓詞が口を吐いたしまった事には、貴椿自身しまったと思ったのだが紫紺は気にしていない。その様子を見て、貴椿も何もなかった風を振舞うことにした。
「それにしても全く不便な身体になったものよ」
ふう、と変わらぬ表情で瞳を伏せた紫紺の言葉に、貴椿はこの性別などあるのかと不思議になる程の美貌を持った男との初対面を思い出す。
拾った白狐と唇を合わせるだけのキスをしたかと思えば、突然煙に覆われ重みが増したかと思えば肘を背面に突いて半分押し倒されたような体制になり、煙が晴れたかと思えば恐怖さえ抱く程の顔ばせがドアップ、その上勢いのまま貴椿に自分の面倒を見させると約束させ、居座ってしまって早一週間。
狐の嫁入りは一族総出で嫁に行く狐を見送るのだが、その参列から落っこちてしまい、紫紺は下界に嫁に来たことになってしまったらしい。嫁ぎ先にまで敷かれた絨毯を外れると掛かる呪いは、そのまま紫紺にまで作用し、性別的に男であろうが女であろうが人間の伴侶を娶るまでは禄な術も満足に使えないと言う。
少し崩れた襦袢の衿を整え体を起こし、貴椿はようやくおあげの盆の前に座った紫紺を見る。
「それで、何か思い付きんしたか?」
「お前が早く嫁に来ればよい」
以前聞いたセリフと全く変わらない状況に溜息を吐いて、貴椿は茶を入れるために部屋の端にある茶托の前に移動した。
「そりゃ無茶と言いんした。
外の一般の女なら兎も角、この吉原に居るのは殆どが事情があって遊女をしとる。わっちもここのお楼様には恩がある。年季も明けぬ、身請けもされぬのにこの吉原から出れば犯罪者になる」
昔の花魁は蔓延する病気や、掛かる性病によって死ぬケースも多くその多くが若くして命を落としたが、近代の技術ではそう死ぬこともない故に、昔よりも長く現役を続けることができる。
17歳で突き出しと言われるデビューを果たし、それから10年間27歳になって晴れて引退し吉原から出ることができる。それを年季が明けると言ったが、現代の法律でそんな人権を無視した労働は認められていない。だからこそ、いま現代の吉原には自分の意思で赴き、身をやつしている者が殆どだ。
現代の吉原は水商売と呼ばれ得る職業の中で、厳選され、高度な教育と技術を持った者だけが入ることのできる最高の色町。とは言っても、ある程度の自治が認められている小さな独立国家には、随分と苦労して客をとっている遊女もいる。そこまでするのは、全員借金がある為だ。寝食、服、簪身の回りの全て、それらを払えない状況から始める多方の遊女達は、見世からの投資で数年を送り十分な準備や技術を身に付けた後、働いて借金を見世に払う。
その借金を返す方法は三通り。ひとつは客に借金を肩代わりして貰う代わりにその身を渡し、大半はそのまま妻となる。それを身請けと言う。ふたつめは遊女自身が借金を返し切り、見世が遊女自身からの利潤が十分であったと判断した場合にできる、足抜け。そして借金を返すとは意味合いが異なるが、遊女の契約が切れることを年季明けと言う。27歳で切れる契約を再び履行するも、晴れて吉原の外に住所を持つも自由だ。
- 【其ノ一、約束の始り】 ( No.12 )
- 日時: 2013/10/29 17:54
- 名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)
「言ったであろ?借金を支払わず逃げた者は前科一犯、とどのつまりは犯罪者になってしまうんでありんす」
幼子を諌めるようにそう口にしながら、熱い湯を湯呑に注いで湯の温度を下げ茶碗を熱すると、茶碗に入れた湯を茶葉の入った急須に入れる。食器に触れた時の温度差や熱すぎる湯は茶葉の渋みを出しすぎる為、一度こうやって湯の温度を下げその湯は同時に茶碗を熱する。昔からあるこのふかむし茶と言う淹れ方は、まだ見習いの禿であった頃、貴椿の姉女郎が教えたものである。
「犯罪者は国から追われる身。吉原で働いていると言っても、所詮は色売り。吉原の名の庇護下から出て犯罪者の烙印を押されれば、世間は冷たいものよ」
そして刑務所に入った女は、もう吉原で働くことも出来ず残った借金のカタに内蔵をバラされて売られたとも聞く。滅多にそんな事はないが、恋しい間夫と添い遂げるため外に出ようと藻掻いた遊女の末路だ。だが自分で選んでここに居る以上、逃走しようなどと思う遊女の方が稀で、実際にここ何年もそんな話は聞かない。
急須を揺すらず回さずに蒸らすことで雑味のない味に仕上がった筈の緑茶を、まだ十分に熱の残る茶碗の中に少しだけ注ぐ。薄い最初の方を一気に注げば片方は薄く、味の濃い後半の渋い茶が出来上がってしまう。それゆえに少し注いで次の茶碗、それに注げばまた次と交互に少しづつ淹れるのはマナーだ。
「そんなものか、人間はいつの世も憐れよの」
興味があるのかないのか、貴椿の話を聞いているのかいないのかも分からない紫紺の様子だったが、どうやら話はきいていたらしい。目の前のお盆から箸を取り、器用に操る様子はよく様になっている。おあげを満足げに嚥下したところで、貴椿は淹れた茶をそっと右側から差し出して、自分も近くに腰を下ろす。何も言わずすっと茶を口にする紫紺と1週間生活して、貴椿が先ず感じたことは「世話を焼かれ慣れている」ということだ。
狐の社会など人である貴椿には分かるまいが、紫紺の立ち居振る舞いには誰かの上に立ってきた貫禄と態度が滲んでいる。
「そうじゃの……。
やはりお稲荷様からすれば人は愚かに映りんすか?」
「そうだな……
妖も人も神も、性根はそう変わらん。欲もあれば情もあろう。人は愛しすぎる」
愛すぎる。
人の恋情とは、異形にとっては未知の感覚なのかもしれない。
「まるで火のようかぇ?」
「理解はできん。だが多くの妖は羨み、神は妬み慈しむ」
「羨ましいと思いんすか?」
窓枠を背もたれにそう問う貴椿を見遣ると、紫紺は一瞬瞳を伏せて2枚目のおあげに手を伸ばす。
「……長く人の世に寄り添い、願いや想いを視てきた。
人は愚かな幼子で、この世の心理も見えん生き物よ。だが同時によく働き、様々なものを生み出す。」
そして大きく口を開けて、一口サイズに切られたおあげを一気に3つ程頬張り咀嚼する。ゴクリと白い喉が動き、最後の馳走を狐は嚥下した。
「厭うてはいない」
「そうでありんすか」
「そうだと思った」と言いかけた言葉を咄嗟に言い換えて、自ら淹れた茶を飲んだ。
———嗚呼、良い昼だ。
優しく微笑んで閃かせる桜の花弁を窓から眺める貴椿に、紫紺は何も言わず茶を含んだ。ふっと浮かんだ口元の優しさを、まだ貴椿は知らない。
- 【其ノ一、約束の始り】 ( No.13 )
- 日時: 2013/10/29 17:54
- 名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)
「貴椿太夫、髪結い師がおいでなんした」
おあげを綺麗に平らげて人型から狐へと戻った紫紺は、貴椿の膝の上を陣取りその毛並みを櫛で整えて貰っていた。その表情は穏やかで、寛いだ様子がありありと現れている。貴椿はその毛並みに癒されるように母のような優しさで毛づくろいをし、紫紺は心地よさそうに瞳を閉じている。
襖の外から掛かった野分の声を、紫紺はもっと前から分かっていたのだろう反応は見せず、貴椿もそろそろだと分かっていたので別段驚くこともなかった。
「あい、お通しなんし」
下で待たせているのだろう、野分は一度階段を下り髪結い師を伴い戻ってきて、やっと襖を引いた。
現れた人物に、貴椿はいち早く声をかける。腕の中の狐の毛が膨らんだのを、宥める様に撫でながら。
「ようおいでなんした、ご苦労さんでありんす。お上がりなんし」
先程までの少し崩れた廓詞ではなく、どこから聞いても隙のない音に野分は安心したように微笑んで、廊下から襖をそっと引いて行った。
ばれてるな、と紫紺と二人で居るときの言葉遣いを思い起こし、野分の目は誤魔化せないと内心苦笑するがそれはおくびにも出さない。目の前に、客ではあらずとも人が居るのだから。
「じゃあお言葉に甘えて。
何だ、今日は太夫の膝で毛繕いか?世の男共全員の嫉妬の的だな」
貴椿に軽く会釈をすると、特徴的な外見の男は紫紺に声をかける。いきなり部屋の主に話しかけるよりも早く狐に声を掛ける男の態度は、それこそ「世の男共の嫉妬の的」である。
前髪を緩く後ろに纏め、髪は髷(まげ:頭頂部分で膨らませて作る髪結いの際用いる部位のこと)や髱(たぼ:うなじ上部分で膨らませて結い上げる部位のこと)は作らず、腰まである長い髪を左側に緩く紐で結んでいる。前髪部分に簪を幾本か刺している様子は、男か女か一瞬戸惑う。その顔はよく整っていて、どことなく誰かを彷彿させる。
「あまり口さがなく仰りぃすと、また仕置かれなんすよ」
ぶわりと警戒や不快感で総毛立つ毛を相変わらず宥めながら、片方を眼帯で覆っている男を見遣る。赤い着流しに緩く結んだ長い髪と刺した簪、その派手さを着こなす美顔に右目に掛けられた眼帯と長身。髪結い師と呼ばれる、複雑で精巧な遊女たちの髪型を作り上げる腕の良い職人だ。名を東雲と言い、貴椿の髪結いを許された唯一の髪結い師である。
「そりゃ堪らん。また姿を解かれたら俺は出入りもできなくなって仕事がなくなる」
おどけた様にそう言う東雲は、貴椿が紫紺を拾ったその日、勿論紫紺とも顔を合わせている。一尾の狐となって普通の狐よりも少し色が薄い程度に擬態した紫紺を見て、唐突に一言。「天狐様とは珍しいもん見たな」と。
長く付き合いのあった貴椿は、東雲とはただの髪結い師として接してきた。だが唐突にそう口にした東雲と、警戒で唸る紫紺、勘の良い貴椿には分かってしまう。「人間ではない」。
東雲の正体は、妖。それもどんな妖の姿も見破る術を持つ、雲外鏡と言われる妖。それは化かしの狐にとって天敵どころではなく、最早相性悪くも変化の通じない相手である。紫紺は貴椿の膝から飛び降り東雲に向かって怒りに唸り、前屈姿勢となって威嚇した。ビリビリとした空気は貴椿の肌を刺し、東雲を威圧した。唐突に振り向いた紫紺に何かと思っていれば、次の瞬間には首筋に鋭い痛みが走り噛み付かれたのだと気づくと同時、目の前には完全な人型ではなく獣の耳と尾を生やした紫紺、煌びやかで仰々しく曇りひとつない鏡が落ちていた。
それは東雲の本来の姿、百年の時を生き命を得た鏡、神社に祀られ九十九神となった雲外鏡の姿だった。それを知った時の貴椿の心境たるや、首筋の出血も忘れて鏡を手に取った程だ。
「この世は摩訶不思議とは、よう言いんしたものでおざんすなぁ」
肩を竦める東雲を見て貴椿はくすくす笑う。まさか長年幼き頃より知っている髪結い師が、出会ったばかりの異形と同じ同士だなど。だが有り得ない事が起こり、知らない事が当然なのもまた世界だと、貴椿は改めて思うばかりだった。紫紺に噛み付かれたこともそのひとつで、伴侶候補である貴椿からどんな形であれ生気を得ることができれば変化は可能だと言う。傷は東雲を雲外鏡の姿に戻して、取り敢えず気の済んだらしい紫紺に一瞬で消してもらえたが、当たり前だが痛みはあるし着物も汚れる。普段変化する時は口づけにしろと、貴椿はそのあと紫紺に頼んだ。
兎に角そんな出会いもあり元々相容れぬ妖と言う事もあってか、毎日東雲が仕事に訪れる度一悶着あるので、自由な入室を許可していた東雲だが野分に取り次ぎをして貰い、膝の上に紫紺を確保してから入室して貰うようにした。そのお陰で貴椿が宥めている間は、比較的大人しくできるようになった。
「狐は人間が好きな一族だしな、貴椿太夫の器量なら座敷わらしでも守り神でも寄ってくるさ」
それを聞いてやっと落ち着いた膨らみが再び膨張するのを、貴椿は含み笑いをしながら宥める。
「そりゃ騒がしくなりんすな、わっちゃあ今のまんまで十分楽しゅうござんす。
あれ、お天道様がおやすみなんすよ」
はやくしなければ太陽も沈んでしまう、実際にはまだまだ沈む時間でもないが会話を繰り返していても紫紺の機嫌が降下していくだけだ。東雲にそう声を掛けると「早く結っちまおう」と、姿見の前まで移動して掛布を上げて鏡を顕にする。
何故髪結い師をしているのかと随分昔に聞いたことがあった。その時東雲は「アンタが芸妓を習ってる理由とおんなじことだよ」と言った。自ら選んだのだろう職業に、貴椿は誇りを持っていた。そして恐らく東雲も。
道具箱から櫛を取り出す東雲を見て、貴椿も紫紺を抱いてそこに向かった。
- 【其ノ一、約束の始り】 ( No.14 )
- 日時: 2013/10/29 17:55
- 名前: 桜詞 (ID: ehc5.viK)
「で、今日のご要望は?」
姿見の前で、紫紺を膝に抱えて座った貴椿の髪の毛に櫛を通しながら東雲は問う。
「新日本髪で頼みんす」
「あいよ。にしても、アンタはよくもまあ律儀に毎日髪結いなんぞするもんだ。
お陰で俺も仕事ができるわけだけどな」
鏡越しにそう言って笑った片目と目が合う。
「来る日来る日に髪結いなんぞ、するがされるが、何方も手数でありんしょう」
「そのされる方のアンタは、何で来る日来る日に髪を結ってるんだ?」
現代の吉原で、本来の日本髪を結う人間は殆ど居ない。と言うのも、日本髪とはそもそも一度結えば最低でも2日、それ以上となると5日程そのままでいられると言う代物だからだ。日本髪には風情があり、ならではの髪艶は何とも言えぬものもあるが、2日頭を洗わない事に耐えられない遊女もしくはそれを不潔とする客、結う手間と結った後維持する為の手間、そして何よりも床入りに不便だからである。
昔の遊女は髪を結ったまま事に及んだ。きちんとした手入れをしなければ、2日以上保つ髪型など解けるはずもないからだ。その上、結った髪に気を配ると言う概念が欠落している現代人に、その配慮を求めても無茶と言うもの。
画して、吉原から日常より日本髪を結うと言う概念は失われた。
「お客は夢を買いにおいでなんす。
その国で外と変わらぬ物を見なんしたら、ここで買うも外で買うも同じ事。地女と比べられちゃあ、そりゃ形無しでおざんす。
所詮は色売り、されどここは吉原じゃ。そんじょそこらの女郎と肩を並べるなんぞ、この街の傾城(けいせい:城が傾くほど金を注ぎ込んでしまう女、またはその価値がある遊女の事を指す。吉原の女郎のみの呼び名)共が嘆きんしょう」
膝の上の紫紺の尾を櫛で梳かす穏やかな横顔は、先程までと変わらない。その瞳に揺れる光だけが「誇り」なのだと、苦界に沈んだ女の矜持を感じさせた。
「だから外では見られない景色を客に見せるために、先ず自分からってことか」
「そんな大層なもんじゃアおざんせん。あいさ吉原は意地と張りの街。
それを忘れんした女郎はただの肉塊、足蹴後ろ指、如何も文句はおっせん。
もしへ意地と張りは吉原の女郎が傾城たる所以でありんす。それを失っちゃあもう傾城とはおっせんわいな」
ふふっと底の読めぬ笑を浮かべながらそう言う貴椿の髪を位置毎に分けながら、東雲は内心脈打つように沸き立つ心を宥めていた。
———嗚呼、映してみたい。ウツシテミタイ。
化生の性が体中を侵す。ぐちゃぐちゃと、理性が混じり合っていく。
———どんな心意気なのか、気になる、どうなってる?どうしてだ?
人の本性を映し、妖の姿を見破る。その性は、存在意義は、他を映すことにある。理由などない、ただ人の心を、妖の姿をその身で暴くことだけが、雲外鏡と言う妖の性なのだ。
「もしへ、あまり怖い顔をしなんすと、白狐に絞られなんすよ」
そう声を掛けられてハッと鏡越しの貴椿の視線を感じると同時、物凄い殺気が貴椿から向けられているのがわかった。
いや、大元は隠れているが、それは殺気と言うよりも妖気で串を握った東雲の手にじわりと汗が滲んだ。上品に笑みを浮かべる女の足元、鏡に映るのは女の上半身だけだ。角度を変えれば異形と目が合うのだろう。その瞬間、右目の眼帯に隠された秘密は粉々に砕け、その身は大気となり散るのかもしれない。
嫌な汗が背を伝う。妖でも人型を取れば汗も流れるのかと、思考の端で静かに考えがよぎる。
九尾の狐、それは天狐。神と成り得る存在だ。狐の業である化かしは雲外鏡には効かない。
———知っているか、東雲。
だが雲外鏡は、妖だ。
———狐と狸はな、我々には逆えん。その変化も幻術も、我らの目には真実しか映らぬからだ。だがな、気をつけろ。
昔ただ一度出会った同じ種族の妖は、東雲に生きる術を教えた老爺だった。
———ただの狐狗狸ならば恐るるに足らない。
その時老爺の顔は見えず、ただ闇が広がるようなイメージしかなかった。
———知らないのなら教えてやろう。気をつけろ、ただの狐狗狸ではない存在に。
その時、フラッシュバックしていた老爺の顔が唐突に消えた。それなのに、重苦しい空気からは抜け出せない。
何故だと視線を動かして、ヒュッと妙な音が出る程、喉が空気を取り込むことを拒否する。櫛を持つ手は汗で濡れ、何故櫛がそこに留まり続けているかさえ不思議な程だ。
唐突に。
その瞳を見る。
———血に闇を溶かした瞳を持つ者。それは我々の存在し得ない場所にいる。
夜の闇、暁の朱。それを混ぜると、何になる?
———それは、神だ———
紫紺。
妖力と命を司る色。
全てを思いのままにする、残酷な主。
すなわち、
神だ———。