複雑・ファジー小説

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.3 )
日時: 2014/01/03 20:37
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: aAxL6dTk)
参照: http://www.kakiko.info/bbs2/index.cgi?mode=view&no=7833


 記憶喪失。つまりはそういうことだ。どうやら面倒事になっているらしいと、彼は理解した。
 何もかもが無いわけではない。記憶の意味も知っているし、失うと言うことも解っている。右手左手の区別もつく。視界に写り込んでいる物は、右から木製のキャビネット、黒ずんだ鉄の壁、蝶番の軋んでいるドア、その奥に立つ男、また壁、棚、棚。そしてあの黒光りするものは拳銃。火薬を用い鉄の弾丸を打ち出す。危険なことは言わずもがなだ。それも問題なく思い出すことが出来て、だから、勿論。
 目の前に銃を突きつけられることの意味も、重々承知していた。
「——死ね」
 何が起きるのか。数瞬先の未来を映すビジョンが脳内で閃く。酷く的確な狙いだ。弾丸は直進し胸を貫通、恐らく心臓の位置。そのまま背後の壁か棚か何かに当たり、自分は血を撒き散らし倒れる。The END。即死か、出欠多量か。何か言い残す暇はあるだろうか。恐らくは無い。いや、そもそも言い残すことなど無いだろうが。自分は記憶喪失なのだから。そう、つまり、だから、こんなことは全くの無駄で。
 電流のように体を駆け巡った危険信号にともない、彼は左方向へ倒れ込んだ。
 風圧。ごく小さな鉄塊が空気を切り裂き自分の直ぐ側を通過した——ような気がした。実際のところどうなのか、彼の目が捉えることはなかったが。
 勢い余って肩を強か床に打ち付ける。湧き立つ埃。思わず顔をしかめた。
 痛い。だがそれだけだ。生きている。手足も動く。風穴が空いた気配は、ない。
 沸騰したような血液が急に下がってきて、彼はどっと襲ってきた疲労感と共にため息をついた。正面にはいい案配にキャビネットが設置されている。遮蔽物としての役目は十分果たしてくれるだろう——と、思った矢先、立ち上がろうとしていた彼の頭上近く、轟音と共に穴が開く。立て続けに二つ。びくりと反射で頭を伏せた。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.5 )
日時: 2014/01/05 21:16
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: aAxL6dTk)

 カラン、と薬莢の転がる音。続けて沈黙、静寂。発砲した誰かは様子を伺っているらしい。
 彼は慎重に体を起こしつつ、どうやら本格的に不味いなと嘆息する。
 記憶が無い。やはりこれは致命的だ。なぜ自分が撃たれなければならないのかも分からない。闘うべきか、逃げるべきか、最善策は。いや此方は丸腰だ、勝機がない。まず此処は何処だ。何故自分はここにいるのだ。知らなければ逃走計画を立てることすら出来ないだろう。
 思い出せない。
 経歴も、親族も、友人も、趣味も、仕事もそして——
「っ、名前も、か……」
 がらんどう。渇れた泉のように、何も閃いてこない。乾いた胸の内が皹割れているかのように潤みを欲す。しかし痛みはない。ぽっかり空いた空間は虚しすぎて、苦痛どころか悲しみも現実味も無かった。先程は近すぎる生命の危機に咄嗟に動けたが、再現するのは難しいだろう。次は確実に、撃たれる。
 そうこう考えているうちに、相手は痺れを切らしたらしかった。
「——出てこいよ、あぁ?」
 声変わりを既に終えている、胴に響く声。男だ。
 鼓膜が肉声で震えるのは、ずいぶん久方ぶりのような気がした。痛い。ひりついた喉に前振りもなく液体を流し込まれたような。そんな経験があるのかどうかは謎だが、彼はそう感じた。
 ささくれだったその声は不機嫌さを隠そうともしない。酷く投げ遣り。しかし力が無いわけではない。いや、むしろ強硬。どんな不条理だろうと無茶だろうと平気で押し付けてきそうな声音。というか、彼にとっては突如として鉛弾を打っ放してきた相手自身が不条理なのだが。次の瞬間、何処か平坦さを強いているような、抑揚の無い声が紡がれる。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.6 )
日時: 2014/01/07 22:10
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: aAxL6dTk)

「黙って出てくるんなら撃たない。……今のうちだ」 
 彼は逡巡した。軽く目を瞑る。
 選ばなければならない。選択肢は二つだ。突然発砲してきた相手の前に身を晒すか。キャビネットの陰に隠れたままか。見たところ出入り口は相手が立ち塞がっているであろう一つしか認められないのだから、いずれにせよ対峙は避けられない。そしてどちらにしろ、逃がしてもらえそうにはなかった。しかし、どう考えようと銃器を持った相手に何の心得もない自分が勝てるとは思えない。このまま身を潜めてどうなる。追い詰められて撃たれるだけだ。しかしあの銃口をまた間近で目にすることになるのも遠慮したい。
 ——伸るか、反るか。どっちにしろ同じのような気もするのだ、どちらでもよかろう。
 一歩踏み出す。同時に、聞き覚えのある破裂音。
 撃たれた。
「馬鹿かお前……」
 声が降る。今度は声の発生源が近い代わり、やたらと位置が高かった。それもそうだ、彼は今床の上に寝転んでいるのだから。
 銃弾は当たらなかった。僅かに右の肩を掠っただけだ。ショックでもんどり打って倒れたのはご愛嬌。この狭い部屋で跳弾が無かったのも幸い。そして相手が一撃しか放たなかったことも。
 はじめて相手の顔を見ながら、彼は静かに同意する。
 バカだ、うん。
「マジで出て来るかよ、普通」
 黒髪の青年は、呆れ一割困惑一割、残りは敵意と言った具合で彼を見下ろす。
 否応なしに目が引き寄せられるのは、やはり底無しに黒く光る拳銃。獲物を欲するかのように、鈍く禍々しく光を跳ね返す。次に古めかしい黒のロングブーツ。彼の胸を容赦なく踏みつけ、肺を圧迫している最中である。
 ボロ布を体に巻いている……と思ったら、よくよく観察してみるとそれはコートだった。使い古された深緑の、恐らくはフロックコート。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.7 )
日時: 2014/01/10 22:46
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: 3nksBUD/)

「……撃つかよ、普通」
 口の中で転がした言葉は相手に届いたのかどうか。
 拳銃はぶれずに額へと狙いを定め、胸の圧迫がより一層強まる。
「答えろ。どこの差し金だ、あぁ?」
 高圧的な問いの意味は、当然のごとく分からない。むしろこっちが教えてほしいのだから、答えられるわけがない。彼は不満げに顔を歪めて相手を見上げ、拳銃越しに顔を捉えた。
「……ぁ」
 目。黒い瞳。荒々しく歪められた夜の色。無造作に短く刈られた髪も漆黒。そこで思い出す。記憶の欠陥を。欠けているものの一つを。
「……あぁ。なぁ、おい」
 人と対話するのも、ずいぶんと久しぶりのようだ。油の足りない機械のように声がざらつく。痛い。あぁ、また。何もない胸腔が痛む。
「ちょっと聞きてぇんだけど」
 深い考えがあるわけではなかったが、彼ははっきりその問いを口にした。
 先はどの短い攻防の中で、度々視界の端に写っていた、自分の髪も黒。どうやら少し長いらしい。では、それなら。
「俺の目は何色だ? 自分じゃ確かめようがねぇから」
「……は? 何? 質問の意図が分かんねぇんだけど、よっ」
 ブーツにかかる重圧が増した。肺が痛い。骨が軋む。彼は浅い呼吸で言葉を紡ぐ。
「素直に話せ。末路なんて分かって——」
「あと、此処は何処だ。お前は誰だ。で、あと、」
 若干躊躇い、間が空く。いい加減苦しくなってきた。黙っていても事態が動かないことは理解している。それでも認めるのには、ある種の覚悟は必要だった。
 一段小さな声が、彼の口からこぼれる。
「……俺は、誰だ?」
「——……は?」
 相手は——酷く微妙そうな顔をした。
 なんとも形容しがたい表情だった。剥き出しの敵意に正体不明の感情が浮かび、次いで消える。困惑でもあり怒りでもあり憎しみでもあるような、何か。あるいは、記憶の欠損故にそう感じたのかもしれない。やがて相手は黒い瞳を細め、そこに僅かに——本当に僅かに——憐憫の色が滲む。敵意も変わらない。銃口もぶれない。けれど確かな変化。
 ようするにそれは、可愛そうな人を見る目だった。
「心神喪失とはなぁ——」
 黒髪の青年は細く、長く、息を吐き出す。残念だとも、面倒だとも取れる、けれど確実にネガティブな感情を込めたため息。
「……役に立たねぇなら、仕方ないな」
 カチリ、と鉄の鳴る音。何だ、何の音だ。彼は直感した。今の自分に対し最も不都合な結論が出ている。
 ぐ、と。指に力が込められたのが見てとれ。
「待っ——」
 目を瞑るのと銃声は、ほぼ同時だった。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.8 )
日時: 2014/01/12 21:04
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: 3nksBUD/)
参照: http://www.kakiko.info/bbs2/index.cgi?mode=view&no=7833


◆◆◆

「いっ、づぅ、ぅ……」
 本音を言えば、恥も体裁もかなぐり捨てて叫びたいほどの痛みだった。だが、少年は歯を食いしばり、悲鳴を噛み殺す。単なるプライドだ。代償に、血の味が口内を転がる。
 確かに自分のミスであった。彼等とは旧知の仲である、制裁があることも予測はしていた。だが事の全容を語る最中に撃たれるとは。性急さを甘く見ていた。いや、失敗した時点で末路は同じか。自分も、彼らも。
 銃弾は右肩を、恐らく貫通している。存外軽い銃声と共に弾けた激痛は、体の内部に鮮烈に残っていた。そこからビリビリと広がる熱さ。体に穴が開いたのだ。それだけで空恐ろしいものがある。普段は決して晒されることの無い肉の断面。外気に触れるだけで、乾き、犯され、腐っていくような錯覚。
 しかし、それでも少年は、痛みによる無様な悲鳴など挙げなかった。代わりに口を突いて出るのは、怨嗟の言葉だ。
「ふ……っ、ざっけんなよこの野郎! いってぇだろーが! あぁ!? いきなり撃ってんじゃねーよ、馬鹿ッ!」
「……いい加減、自覚なさい」
 ——ぴしゃり。
 と、平手打ちに似た音が聞こえそうな。或いは、よく研がれた刃物のような。ともすれば、音のみで痛みすら感じそうな——絶対零度の声音が、少年を射抜く。驚きか恐怖か、少年は僅かに目を見開いた。
「馬鹿は貴方よ、無知の王《Knowing King》。お使いも出来ないなんて、見た目以下ね」
 口角も眉もピクリとも動かない。唇はただ言葉を紡ぐのみ。肌は一貫して羽のように白く、瞬きすらも必要最低限の回数のみだ。表情から得られる情報を一切合財破棄し、ただひたすら「冷気」のみを発して、少女は言った。
 右手には少女の細腕には似合わない大口径の拳銃を持つ。銀色の銃身で鈍く光るのは、無数の傷達。十代前後と思われる少女の様子には、やはり不釣り合いな年季の入り方である。銃を持つ手をだらりと垂らし、手持ち無沙汰な風に撃鉄を起こしては倒しを繰り返す動作は、銃を扱い慣れた者のそれ。
「み……っ」
 少年の舌が縺れる。
「見た目はどうでもいいだろうがッ! 俺はてめぇより上なんだよ!」
 患部を押さえつつもそう言う少年は、どう見ても十代に入っていない。幼子の体躯だ。ボロを纏っているせいか、華奢な肉体はさらに小さく、頼りなく見える。それに反しての不遜な口調は、酷く滑稽だった。
 少女の顔に浅い笑みが広がる。
「答えなさい、無知の王《Knowing King》」
 それは薄氷の如く、今にも割れてしまいそうな脆い仮面だ。裏が見透かせない。だが、得体の知れない何かが黒々と蠢いているのだけは分かる。半透明な氷の向こう、見てはいけないナニカ。そしてそれは割れたら最後。底の無い水の深淵よりも暗いものが溢れてしまう——
「ぃっ……」
 その時を想像し、少年は背筋が凍った。少女の小さな口は淡々と言葉を紡ぐ。
「貴方は、一体何処で落とし物をしたの?」
「っ、……お、俺はっ、ぁ」
 思わず、声が先細る。気迫負け等より質が悪い。もっと本能的なモノ。脊髄が痺れるような恐怖だ。あらゆる器官が全力で警鐘を鳴らしている。ここで答えを間違えれば……死より耐えがたい苦痛がその体を引き裂くだろうと。
 知らず浅くなる呼吸を繰り返し、少年は乾いた唇を舌でそっと撫でた。
「こ、こじゃ、ない。ここに来る……前……」
「そんなこと」
 少女は少年の胸ぐらを掴み上げる。少年の喉が鳴った。爪先が地面を擦る。
「そんなことは分かっているの。いくら貴方でも行っていない場所に落とし物をするなんてこと、出来ないでしょう」
 少年は意味の無い呻きを漏らした。絞まる首。中途半端な浮遊感が胃を掻き回し、唾液が口の中でじわりと染み出しす。
「うぅっ、う……」
 喘ぐ。肺が空気を欲するが、少年は解放の術を持たない。
 無理矢理小さく息を吸って、彼は叫んだ。
「うっ、兎だ!」
「……兎がどうしたと言うの?」
 少女の力が僅かに緩む。言葉の効果を確かめるように、少年の言葉に間が空いた。もう一度、今度は深く息をし、唇を嘗める。
「兎がいた……。俺が落としたとき、近くに兎がいた。兎を探せばアイツを見つけられ……」
 落ちた。少女の手から、少年が。抵抗する間もなく落下し、彼は背面を石畳にぶつけた。
 一瞬体が硬直し、直後に肺の中身を全て吐き出す。噎せかえる少年。目尻に生理的な涙が浮かんでいた。だが、少女は心配するどころか路傍の石ころを見るのと大して変わらぬ視線を飛ばす。
「及第点ね。……次は無い」
 その言葉は刃物だ。労りなど存在しない。少年は彼女を睨み上げたが、それだけだ。先程のように思いのまま罵倒することなどなかった。それは怒りか、萎縮故か。彼は何も言わない。
「……本当に、下らないわ」
 少女は小さく呟く。それは誰にも届けるつもりの無い言葉だ。勿論足下の少年には聞こえていたが、それは少女の意思ではない。気に止めなかった。それだけのこと。
「あの人の考えていることはいつもわからない——」
 言葉と共に、ゆるりと周囲へ視線を巡らす。
 道の端々に見える、俯いて歩く大人達。外界を拒み、建物沿いに踞る子供達。微動出せず、物言わぬヒトビト。
 発砲したところで、それが自身に当たらなければ騒ぎ立てることもない。いや、当たったところで騒げるのかどうかは疑問だが。もし仮に誰かが倒れたとしても、やはりここは——この街は、回り続けるのだろう。昨日のように今日も、今日のように明日も。誰が望んでいるのかも分からない姿で。
 解を求めるでもない、無益な問いだ。分かっていながらも口にしてしまう。いや、分からないからこそ、敢えて口にするのだ。
「——こんな所の、何が良いんでしょう」
 少女の独り言は、 音も無く地へと落下していった。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.9 )
日時: 2014/01/20 19:14
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: WSDTsxV5)
参照: http://www.kakiko.info/bbs2/index.cgi?mode=view&no=7833

◆◆◆

「……あ、あれ」
 痛みは無い。
 いくら待っても、何の変化も訪れない。
 彼はゆっくり目を開け、次いで瞬き。強く目を瞑ったせいで若干動きが鈍いが、それだけだ。目の前には数瞬前網膜に焼き付いた銃口と、男の姿が変わらず在る。いや違った。銃口は向きが僅かに逸れているし、その銃を支える男の腕には、誰かの手が添えられている。その向こうには、驚愕で目を見開く男の顔。どうやらこれは不本意な結果らしい。
 いつの間にか現れていた手を視線で辿ると、そこに立っていたのは一人の少女。
「……失礼。遅れ馳せながら参りま——」
 銃声が、鈴のような声を遮る。少女は後ろに向かって吹っ飛んだ。そのまま、背後の棚にぶち当たり、やたらと金属音を奏で落ちてきた様々な備品——銃弾が詰まっていた箱、ナイフ各種、その他ワイヤーなど用途不明なもの——に埋もれてしまう。他人事ながら痛そうである。
 ついさっきまで空だった男の左手が握っているのは、もう一丁の銃。くすんだ銀色のフォルム。すでに取り出していた一丁と比べれば、幾分ほっそりしている。
 男は右に立つ少女に対し、こちらへ向けている右腕と腕を交差させ、少女へと左の銃で狙いを定めていた。一瞬の早業である。目の前にいても止める間すらなかった。いや、その必要性すら分からないのだから、あったとしても止めたかは定かでないが。ただ目の前で人に銃が向けられていると言うのには強い抵抗があっただけだ。勿論、それには自分も含む。
「……どっから沸いてきやがった?」
 すぐにそれとわかる、強張った声。先程とはうって変わって感情を遠くに置いた、ひたすらに冷酷な音色。男は少女を警戒している。同時に、混乱しそうな現状を整理しているのだろう。少女の様子をじっと窺っていた。銃を向けられている当人は一度去った危険に肩の力を抜いていたものの、お零れのような殺気に再び身をすくませる。いかに自分が手加減されていたか……いや、嘗められていたのか実感していた。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.10 )
日時: 2014/01/28 18:06
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: z.RkMVmt)

 あれ、とふいに強烈な違和感。おかしい。何かが違う、絶対的に何かが違うのだが、原因が思い当たらない。奇妙な感覚ばかりが先行し、首をかしげたその直後。ようやく違和感の正体に気付いた彼は、背筋が凍った。——男の左側に、人が立っている。
「——ハッ。あー面白いなぁ。さっき空けた奴が空けられてやがる! ざまーねーや、は、は、は。自業自得だバーカ!」
 ぐわん、と、耳障りな哄笑が頭を刺激する。聞いている方の喉が痛くなるような語気だ。音の主の声は幼く、体躯は小さい。男とも女とも取れる高い声のせいで、性別は判然としない。ただ、それらの不確定要素が気にもならなくなるように、ひたすら。子供は自分の存在を主張するよう、朗々と笑っていた。
 が、別段楽しそうではない。声に抑揚がなく、むしろ何かに怒っているように見える。恐らくそちらが本心なのだと彼は何となく察した。なにせ、目が全く笑っていないのだ。
 男は、やはり驚いた顔でそちらを向くと——もう2、3発ぶっ放した。
「ちょっ、ばっ!」
 それは子供の声だったのか、床に寝転がる彼の声だったのか。双方慌てて後退する。
 といっても、片方は反射で体を動かしただけであり、今だ男のブーツが彼を床に縫い付けていたのだが。
「あぶねぇ!」
 子供は既に穴の空いている——見覚えのある——キャビネットの影に隠れ威勢良く叫んだ。姿は見えないが、変わらず威勢はいい。何処か滑稽なほどに。
「ったく、何なんだよ! どいつもこいつも人の顔見りゃあよぉ! 殺すぞ!」
「……それはこっちの台詞だぞ」
 男は眉根に皺を寄せ、不機嫌そうに呟く。
「なぁ。ここって所謂密室だろ。何でこうも侵入者が湧いてくるんだよ」
 恐らく、その侵入者のなかには彼のことも含まれているのだろう。いやそんなこと知らんわと思うものの、あとの二人に関しては同感だ。近づく足音どころか気配も衣擦れの音もなかった。正に降って湧いたようだ。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.11 )
日時: 2014/02/03 19:16
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: CQQxIRdY)

 厳密に言えばドアは開いているのだが、その唯一の入り口の前に男が立っているのだ、出入りに気付かない筈が無い。
「ハッ。密室? そんなの俺らにゃ関係ないね。アンタらが作った都合だろ」
「…………」
 舌打ち。男は苦々しげに顔を歪め、左腕を動かそうとし——
 直後、真横に体が飛んだ。
 先ほど一度聞いた、金属がぶつかり合う耳障りな音が生じる。心なし一回目より派手だ。
 彼は瞠目する。男は自分から吹っ飛んだのか?そんなわけがない。正面には、男の代わりに一人の少女が立っていた。
「ご挨拶ですね、ほんと」
 冷たい黒水晶の瞳で彼を見下ろし——少女は言う。
 陶器を思わせる、傷一つ無い白い肌。光の燐光のような、朧気な輪郭を作り出す白いワンピース。不作法に広がってはいるものの、それでもなお黒髪はベルベットのような艶で波打つ。見事なまでのコントラストを彼女の体は作り上げていた。その上でなお、その存在は線が滲むように儚げだ。手を伸ばしても実体の掴めない、まるで幽鬼のような。
 距離感が、狂う。
「——それでは、ようやく。色々と邪魔は入りましたが。これから勝利条件、得点勘定その他の説明をします、お聞き逃しの無いよう」
 唐突に告げられ、言葉に詰まった。そこに相手を慮る心情の無いことは明白。これでは置いていかれる。そして彼女は一向に構わないだろう。そう直感する。
 彼が聞き返そうとした言葉は、しかし、口に出されることはなかった。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.12 )
日時: 2014/02/10 19:21
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: aR6TWlBF)
参照: http://www.kakiko.info/bbs2/index.cgi?mode=view&no=7833

 直接何かされたわけではない。遮られたわけでも、またぞろ銃器を向けられたわけでもない。発する前に、思わず飲み込んだのだ。
 咄嗟の判断だった。予感、と言うよりかは確信めいた、もっと鋭く恐ろしいものが、近くに。肌で感じる。ぴり、と僅かな痛みを伴う、冷気を。体が自然と萎縮し、どろりと嫌な感触で血管が脈打った。そうさせるだけの鋭利な何かが、少女の瞳に、容貌に、潜んでいる。
 曰く——"ただ聞きなさい"と。
 闇の中に光を閉じ込めた瞳が、小さく眇められる。美しく妖しい、煌めき。同時に繊細で、儚げで、だが弱々しくはなく。触れれば切れそうな、工芸品の刃物のような——
「……聞いてます? 聞いてませんね?」
 思考が遮られる。それは鈴のなるような、女性らしい声によるものでは、無い。
 自重に逆らい浮かぶ体。彼の胸ぐらを少女が掴み上げている。伸縮性の無いシャツが、皮膚を擦った。おかしい。足がつかない。少女はこんなに大柄ではなかった筈だが。一体どれだけの腕力が必要だというのだ。
「聞きなさい。これを知らずして、帰れる道理はないでしょう」
「っ、か……」
 言葉が喉につかえる。
 帰る? 何処へ? どうやって? 聞かなければいけないことは満載だった。しかしそれを言葉にすることは叶わない。いや、息をすることすら難しい。焦る気持ちに、思考が追い付かない。
「ではまず——」
 少女はちっとも表情を変えず、淡白に言った。
「ようこそ、このゲームの舞台兼、唯一の世界"閉ざされた街≪the depth≫"へ。私を含む一部の人たちはあなたを歓迎します。——まぁ、恐らくは」
 どうでも良さそうに付け加え、続ける。
「これからあなたが参加するのは泡沫の遊戯。得られるのは勝者が手にする、たった一つの権利のみ。名誉も栄光も、期待しないことですね」
「っ、ぁ……」
 頭が暑くなるような感覚。膨張するようなそれの原因は簡単だ。酸素不足である。呼吸がままならないのだ。これでは分かる話も分からないだろうに、止まらない。話し続ける。
「ゲームは参加者同士の決闘≪the hand≫で構成されています。その勝敗によって、このゲームにおける得点と言えるもの——ツールが配分され、勝者が決まる。そう難しくもないでしょう。問題なのは、この決闘に関し皆さんが拒否権を有していると言うことです。それがゲームの停滞を招いているのですが、まぁ。主の意向ですからね。なにも言わずにおきましょう。さて、では決闘に関してですが……」
 少女はふと言葉を切る。ようやく彼の状態に気がついたらしい。やや意外そうに眉を上げる。彼は無造作に放られ、再び床に転がった。埃が立つ。噎せる。だが起き上がる気力もない。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.13 )
日時: 2014/02/12 20:34
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: caCkurzS)

「すみません。失念していました」
 そう言う少女の顔には、少しも悪びれるような色は無かった。それを裏付けるように、また淀み無く言葉を綴る。
「では、続けますが……決闘のルールに関しては、特に規定はありません。双方の同意さえあれば、賭けでも殺し合いでもご自由にどうぞ。ただ、中止と言うのはあり得ません。また、その際審判を選出することを忘れないよう。でないと無効になってしまいますから。……さらに、審判が勝敗を決し、勝者はツールと、もう一つ得ることが出来るものがありまして。それが、私たちに一つだけ質問する権利です。ゲームの意欲を高めるための工夫、らしいですが。勿論回答はすべて真実ですからね。……あとは——」
 す、と。彼女は視線を宙へ逸らす。まるで何かを諳じるように。虚ろな瞳は景色を透過し、ここにはない何かを見ている。
「……役≪card≫、について。現在このゲームの参加者は12名。各々ゲームの参加資格でもある役名を与えられています。意味は……ご自分で考えて下さい。まぁ、有るとも無いとも限りませんが。参加者の意思で他人に譲渡することは出来ませんし、名乗らない限りは分からないでしょう。ただ、決闘を開始する時点で互いの名は名乗ってもらいますので。——貴方の」
 息が途切れる。このとき、ほんの一瞬だけ、少女の瞳がしかと彼を捉えた。そう見えた。
 近い筈もない。だが、彼の視界には清んだ闇色が満たす。為す術も無く飲み込まれてしまいそうな、圧倒的な光。暗く昏く、不透明に、尖鋭に。
 彼を射竦める。
「貴方の、名は——」
 淡いロゼの唇が、抑揚無く言葉を紡ぐ。
 聞き漏らすまいと、彼は知らず全身で耳を傾けた。一滴も溢さないよう。静かに水を受けるように。
「——……っ、は、ぁ」
 それらをすべて呑み込んで。
 急に、緊張の糸が緩んだ。
 浅く息を吐く。小さく。段々と大きく、正常に。体の機能が戻ってくる。頭の中で反芻し、咀嚼し。
 彼を押さえ付ける黒のブーツはもう無い。少女の切りつけるような視線も、氷のように冷徹な声も、今はない。自由だ。彼の体は今、何にも縛られていない、が。
 それでも、立ち上がれない。
 体に力が入らなかった。内側から動きを拒否しようとする力が働くような。意識の不調和。酷く怠い感覚が体に絡み付く。彼の中に重石として有るのは、数多の疑問と困惑と、それともう一つ。
 あまりに先行きが見えない。あまりに突拍子もない。あまりに勝手だ。けれど、それでもその中でたった一つだけ、異彩を放つ確固たる事実がある。それは彼の胸の内を熱く抉った。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.14 )
日時: 2014/02/24 19:32
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: jJ9F5GeG)
参照: http://www.kakiko.info/bbs2/index.cgi?mode=view&no=7833


「……っておい、待て!」
 彼の声に、少女はいかにも怪訝そうな顔で振り返る。
 いつの間にか彼女は、部屋から出ていこうとしていた。聞きたいことなど山ほどあるのだ、引き留めないわけがない。
「勝つって何! 何に勝つんだ? 何のために? それは俺にとってやるべきことなのか? つか、俺は誰なんだ。お前はどこの誰で、俺はどこの誰なんだよ? 何で俺は撃たれたりされなきゃなんねーんだよ。あと、お前、さっき撃たれたじゃねーか。なんで大丈夫なんだ?」
「……最後の質問にのみ答えましょう」
 少女は表情を変えず。しかし、声だけ僅かに重く、億劫そうに口を開く。
「確かに当たりました。が、もう治った。それだけのこと」
「……嘘だろ」
「嘘ですね」
 それだけ言って踵を返す。破けた白いワンピースの裾が不規則に揺れ、知らず視線が吸い寄せられる。
 ちらと視線を脇にやって、彼女は囁くように言った。
「出てきなさい、キング。いつまで赤子のように隠れているの」
「っ……誰が赤子だ、誰がッ! くそっ」
 キャビネットの陰から、蜂蜜色の頭が覗いた。キョロキョロといっそ滑稽なほど周囲を伺ってから、ようやく顔を出し、それに見合わぬ尊大な声を上げる。彼に向かってだ。
「開始早々リタイアすんしゃねーぞ! まった面倒な手順を踏まなきゃなんねーからな」
「私達がね。貴方は関係ないでしょう」
「うるせぇルーク! このっ……なっ、何でもねぇ!」
 言葉が途切れる。子供はそれだけ言って部屋を出ていった。早い。完全に逃げ腰だった。顔が見えなくても分かる。狼狽だ。少女に怯えているのだ。彼自身、この数分の経験のみで、少なからず少年に共感することが出来そうである。かの少女は常に自然体で儚く、透明で朧気で——同時に何かを仕出かしそうな、危うい空気があるのだ。見た目通りの細々しい少女でないことは、つい先ほど躊躇いも無く彼を掴みあげたことが証明している。
「……そう言えば、一つ助言を」
 部屋から出る寸前、彼女は急に立ち止まり肩越しに視線を寄越した。
「この建物、いきなり出歩いたりしない方がいいかもしれません」
「……は? え? それどういう——」
「では」
 短く言い残したその言葉を尻目に、部屋のドアが閉まる。
 重々しい金属の音は、何処か無情。
 残されたのは記憶喪失の彼と、先ほどから身動ぎ一つしない男、のみ。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.15 )
日時: 2014/02/26 18:33
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: vlOajkQO)
参照: http://www.kakiko.info/bbs2/index.cgi?mode=view&no=7833

 暫し呆然とし、我に返り、ああでもないこうでもないと長考したのち思考を放棄し、さんざん周囲を探索した挙げ句、彼はようやく気絶している男との対話を試みることにした。
 部屋の外も覗いてみた。が、無理だ。すぐさま諦める。一歩たりとも踏み出せそうにない。
 鉄のような、鼻を突く臭い。経験したこともない——記憶がないのだからある意味当然だが——涙腺を刺激する悪臭。青臭く、また焦げ臭く、自然に発生する、例えば花や虫の臭いなどとは比べ物にならない、悪意のような香り。
 今居る部屋の内装と同じような鉄製の壁や床を、目の眩むような赤色が染めている。危険色だ。赤く、本来ならば晒されることなど無い、艶々した液体。体が痺れるような、毒々しい極彩色。
 斑な模様と生乾きの艶は、小洒落たアートにしては生々しすぎた。
 進めない。視線を上げることすら出来ない。目の端に映った、廊下の隅に転がる肌色の物が、誰かの手だと認識するのが精一杯だった。
 咄嗟にドアを叩き付けるように閉め、両の手で口を塞ぐ。
 唾液が溢れる。
「……っう、ぐ、うぅ。……」
 胃を宥め、歯を食いしばって。声を殺す
 嫌だ、と泣きたい。どうして、何故と文句の一つも言いたい。だが、そうして泣き帰る所すらないのだ。慰めてくれる者も居ないのだ。足りない。自分には何もかもが足りなさ過ぎる。ならば、進むしかあるまい。 
 先ず、彼は音を立てないよう、必要以上にゆっくりとした速度で男に近付いた。相手は動かない。完全に気絶している。ばらまかれた金属類の下に、険しい表情で瞼を閉じている男の顔がある。意識がなくともその表情か。彼は唾を飲み込み周囲に視線を走らせる。
 探しているものは、銃。男の拳銃だ。あれがあっては出来る話も出来ない。そして安全の確保は何より重要だ。既に二度、男に銃を向けられたが、その際は即座に逃げるという考えがなかった。呆然としていたのだ。現在の状況も分からなかったのだから。
 だがあれは愚行だった。間違いない。一歩間違えば——すでに間違ってたのだが——死んでいた。
 同じ轍は踏まない。彼は一丁、銃を見つけ、そろそろ手を伸ばす。銃身の方を掴んで、予想以上の重さに肩が強ばる。
 ——果たして。こんなものを迷い無く打つ男と、会話ができるものだろうか。
 ふと頭をもたげた疑念を、即座に打ち切る。ならば外へ出るか。無理に決まっている。
 少し考えた後、銃は壁際に置いた。さらに探す。もう一丁。男を跨いで少し離れたところにあった。大袈裟なくらい迂回し、回収する。
 持ち上げた瞬間、鉄の重さと冷たさとを掌に感じた。やはり重い。硬い。自然物では有り得ない、禍々しいほどの存在感だった。
 不意に、音。衣擦れの音。僅かな音も、この静かな部屋では銅鑼の音色に等しい。
 瞬時に顔をあげた彼と漆黒の瞳が、かち合った。

Re: 円舞の国のアリス——Who are you?【キャラ募集中】 ( No.16 )
日時: 2014/03/01 20:07
名前: ブラウ ◆Tegn1XdAno (ID: XpbUQDzA)
参照: http://www.kakiko.info/bbs2/index.cgi?mode=view&no=7833

「——っ!」
 幸か不幸か。彼の右手には拳銃。僅かな、一瞬にも満たない躊躇の後、拳銃を男に向け、見よう見まねで構え。
 瞬きする間に距離を詰めた男が、その右腕を体の外側へ弾いた。
「いっ……!?」
 目まぐるしい。景色が回る。視界が混ざる。
 意図せず訪れた浮遊感に驚く間もなく、彼は後ろの棚にぶつかる。鉄の音。五月蝿い。
 鋭利なものの、感触。背だけではない。正面もだ。男の片手には、獰猛な刃物の煌めきが握られていた。
 決して大ぶりではない。だが確かな形。人の営みを、立ちきる形。それが流れるように、彼の喉へと吸い付く。
 また、一体何処からそんなものを。半ば感心すら抱きながら、彼はそれを視界に納めていた。
 逃避気味の、些細な感傷かもしれない。だが思った。
 自分は弱い。どうしようもなく、自分は弱いのだ。だから死ぬのだ。ここはそう言う場所らしい。この男しかり、先の少女しかり。少なくとも今この空間はそうで、自分は不適合者だ。ここでの活動には、適していない。
 腹立たしくはある、反発心も当然ある。抗えるものなら抗おう。だが、どうこうできるわけでもない。知るのが遅すぎた。諦観と義憤が、並行して入り乱れる。
 終わりが迫る。ナイフの尖った切っ先が、喉の皮を貫き肉を抉り空気が漏れだすその時。指先一つ動かす暇もなく。
 終わって。
「——なんで!」
 男が叫んだ。
「何でだよッ! 何で——ッ!」
 彼は目を閉じなかった。
 平然としていたのではない。恐怖も憤りもある。ただたんに、時間が無かったのだ。だから見た。
 男の手が、腕が、不自然な唐突さで静止したのを。
 ぎちり、と。人体の軋む音すら聞こえそうなほど、力の込められた腕は 、しかしそれでも前に進まない。空気が硬化してしまったように、男の腕がその場に縫い付けられている。
 燃えるような憎悪と、困惑と、僅かな不安が入り交じり、黒い瞳はありったけの怒気を彼に叩きつけた。

「——てめぇを殺せねーんだよッ!」

 喉の皮で微かに感じる、小さな切っ先。
 それは、小さく震えていたように、彼には思えた。
 情動から来るものなのか、或いはただ筋肉の痙攣か。
「二度だ、二度殺し損ねた! 何で掠りもしない? 俺の目が節穴だとでも? な訳あるか、んな距離で! でもってこれだ、何で刺せない!? いきなり湧いてきやがって! お前何なんだよッ!」
 ナイフは変わらず向けられている。だが、動かない。届かない。とどめは、刺されない。男は明らかに動揺していた。いや、激昂していた。
 殺意。いわれのない、とは断言できないが、やはり理不尽だ。まるで生きていることを咎めるかのような姿勢である。何故と疑問が膨らむ。聞きたいのはこちらだ。加えて不平不満もこの短時間で山のようにある。いきなり銃を向けるな、打つな、踏むな、人の話を聞け、等。
 男の質問には知らない。と言うしかない。そもそも回答が得たくて問うたわけではないだろう。ただの八つ当たりのように見えた。先ほどまでの冷酷さ冷静さをかなぐりすて、腹立たしさに任せた感情的な攻撃。手を出せないが故の舌端。彼はふと、その言葉の一つだけ解答し得ることに気付く。
 知らず知らず、止めていた息を吐き出す。乾燥した唇を舐める。
「俺は、」
 言葉に詰まる。呼吸を整えたつもりが、また止めていた。酸欠だ。落ち着け。吸え。
 彼は先ほどの熱い感覚を反芻しながら、答えた。
「——アリス」
 初めて名乗る、はすだ。しかしおかしい。地に足がついたような、妙な安定感がある。何一つ事態は好転していないが、肩が重く、体にしっかりとした輪郭が出来るような。
 夢から、覚めるような。

「俺はアリス、だ」

 もう一度。噛み締めるようにその名を口にする。たった一つ、自分が持つ、確かに与えられた、明確なもの。
 本名ですらない。だが十分だろう。名前は名乗るためにあるのだ。人に認識されれば問題は無い。無いと困るが、必要以上に飾り立てる必要はないのだ。ならば、人は何で構成されるのか。
 記憶だ、勿論。
 それがない。ならば、探す。そして作ろう。
 過去の自分を。この先の自分を。幸いまだ、終わらないようだから。
 彼は形作られた心中の思いに唇を引き結び。

——男の目をしかと睨み返した。