複雑・ファジー小説

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【と詩集】 ( No.1 )
日時: 2016/08/21 15:16
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)

 目で見て、肌で感じて。私の『音』は——何処?


【Sound】


 あるところに一人の少女がいました。
 可愛らしい顔をして、ぱっちりとした青い目に、陶器を思わせる色白のすべすべした肌。ふわっとカールがかかった茶髪に、フリルとレースの付いた洋服を着て、本当にフランス人形のようでした。華奢な身体は、抱きしめたら折れてしまいそうなくらい細くて、小さくて、誰もが認める美少女。
 彼女の周りには笑顔があふれ、幸せな時間を過ごす日々が続く。たくさんの友人に囲まれ、町の人からも愛され、何一つ不自由のない生活を送っているように彼女は思っていたし、実際その通りです。
 でもそんな彼女には一つだけ、一つだけ欠けているものがありました。

——『音』。

 そう、彼女の世界には、『音』が無かったのです。
 八歳の時に罹った病気で、彼女の耳は聞こえなくなってしまいました。でも彼女は、それを全く気にしていないどころか、自分のアイデンティティーとして受け入れ、誇らしく思っていたようです。

 何も聞こえなくても、目で見ることはできる。
 『音』が無くとも、記憶を目に焼き付けることができる。
 私の記憶の中に『音』は残ってる。

 そう思っていた彼女はある日、両親に連れられて旅行に行きました。しかし、旅行先の人々が口にするのは『音』のことばかりだったのです。

「この町はオルゴールが名産で、とても綺麗なんだよ。一度聞いてみたらいい。この世のものとは思えないほど、素晴らしい『音』だから」
「町の中心にある時計塔の鐘は、もうお聞きになった? 次の時間、ちょうど六時の鐘が鳴るから聞いてご覧なさいな。身体全体が癒されるような『音』が聴けるわよ」
「見てごらん。あそこにいる小鳥は、この地方にしかいない、珍しい鳥なんだ。とても綺麗な囀り(さえずり)をするからね。あ、ほら今の聞いたかい? すごいだろう」

 読唇術で読み取った会話の断片で、彼らはこんなことを彼女に伝えたかったようです。しかし、彼女にその素晴らしい『音』を聞くことはできません。町の人、両親、他の旅行者。色々な人が口にする、『音』の素晴らしさ。
 そう、彼女は目で楽しむことしかできない、ということを痛感したのです。
 ガラス細工でドームが作られ、中の繊細な仕掛けが見られるようになっているオルゴール。ゼンマイを回すと、取り付けられた細工が回り、万華鏡になるオルゴール。『音』は無くても、その繊細で美麗な技術は楽しめた。
 時計塔に彫られた彫刻も、時計の文字盤に施された飾りも、見える。てっぺんに置かれた鐘の模様も、見られた。『音』が無くても、塔全体で表現された時の流れを見ることはできた。
 小鳥が木々の間を飛び回るのを愛でることはできる。手のひらに乗せて、餌を食べる様を感じることはできる。『音』は無くても、自然の美しさを感じることはできた。

 でも——。
 オルゴールは、『音』が無いと楽しめない。
 時計塔は、『音』が無いと意味がない。
 小鳥は、『音』が無いと生きていない。

 そんな当たり前のことに気が付かされました。
 そう、聞いたことが無い『音』は聞こえないのです。オルゴールの『音』も、鐘の『音』も、珍しい小鳥の『音』も、聞いたことが無いから聞こえない。つまり、彼女にとってそれらは、ただのモノでしかない。
 目で楽しむだけ、ということが、どれほど味気なくつまらないものなのか。
 旅行から戻った後も、いろいろな所で聞く『音』の話が目に飛び込んでくるようになりました。
 そしてある日。彼女はふと思うのです。

 なぜ、私は『音』を聞くことが出来ないのだろう。小さかったあの頃のように、もう一度『音』が聞きたい。

 そう思い出すと、彼女は堪らなくなりました。今までは全く気にならなかった『音』が、至る所で目につくようになったのです。
 風のざわめき、水の流れ、母親が料理を作る様子、誰かが喋る光景。記憶の中の『音』で補えていたいつもの風景が、いつの間にか消えていきました。

 これは、どんな『音』だったっけ。あの人は、どんな『音』で話すんだっけ。

 焦れば焦るほど消えていく『音』。そして、彼女は本当に何も聞こえなくなりました。記憶の中にあった『音』さえも、失われてしまったからです。
 暗闇の中をもがき続けた彼女は、ふと、あることに気が付きました。
 自分の声は、自分の声だけは聞こえていることに。頭の中で彼女は、どうしたらこの暗闇から抜け出すことが出来るか、必死に考えました。
 そして、今年のクリスマスイブ。
 十四歳の彼女は、サンタさんにたった一つだけ、お願いをしました。この年になると、周りにサンタクロースを信じる友達は、あまりいません。でも、彼女にはこれ以上いい方法が思いつかなかったのです。
 ベッドの脇に白いレースのついた靴下を一足置いて、暗闇の中に彼女は願いました。

——私に、もう一度『音』を聞かせてください。


「聞こえるかい?」

 その夜、眠っていた彼女のことを、知らない『音』が起こしました。少し低めのかすれたような、でも耳に心地良い『音』。その『音』に誘われて、彼女はゆっくりと目を開きます。

「君に、クリスマスの一日だけ『音』をあげよう」

 誰がその言葉を言ったのでしょう。部屋の暗がりから聞こえた『音』の方を見ても、何も見ることが出来ません。ただ、何かがいる気配がするだけで、その部分だけ闇が濃くなっている。その闇が、自分のことを覆ってしまうのではないか、と少女は考え、怖いと感じました。

「私のことを怖がる必要はない」

 少女の考えを読んだかのように、影は話します。

「君は、今『音』を聞くことが出来るようになったんだ。今日一日だけ。だから、色々な『音』を聞かせてあげよう」
〈私に『音』をもう一度聞かせてくれるの……?〉

 ベッドの脇に置いてあった白いメモ帳に、彼女はすらすらと言葉を書いていく。『音』が聞こえなくなり、彼女が言葉を話すことは無くなりました。だから、彼女がコミュニケーションを取るときは必ず筆談をしています。

「筆談する必要はないよ。ほら、声を出してごらん。自分の声が聞こえるから」
〈本当に?〉

 彼女からしてみれば、信じられないのも当たり前でしょう。『音』を失ってから六年間。彼女がその間に、声を出したことは一度もありません。
 自分が出す『音』すらも聞こえない。そんな状態で、彼女はこの六年間を過ごしてきたのです。自分がどんな『音』を出しているのか分からずに、大きすぎず、小さすぎず、聞き取りやすく、話すことの方が不可能というもの。

「恐れることはない。さぁ話してごらん、大丈夫だから。私が、君のことを『音』の世界へ連れていってあげよう」

 耳元で囁くように聞こえる声。耳から聞こえるというよりは、頭の中に直接語りかけているような、そんな感じでした。麻薬のように脳内を侵食して、不安や、戸惑い、恐怖。そういったものをドロドロに溶かしてしまう。そう、彼女の正常な思考回路までも、全てを。
 ぼんやりとした意識の中で、彼女は考えました。

 本当に『音』は聞こえるのでしょうか、と。
 それは果たして、耳で聞いてるのでしょうか、と。

 さっきから頭に響く『音』は、本当に聞こえているのかどうか、彼女には分かりません。だって、頭の中に、直接、話しかけられているような気がしたからです。
 薄れゆく意識の中で、彼女は思いました。

 でも、どんな形であれ今、私が聞いているのが『音』であることに変わりはない。ならば——。

——その手を、取ってみようか。


 次の日の朝が訪れました。
 クリスマス当日。町は活気にあふれ、早朝だというのに賑わいをみせている……はずでした。
 しかし、どうでしょう。
 町の中心にあるクリスマスツリーに付けられた鈴は、揺れているのに鳴りません。風のざわめきも、川のせせらぎも、小鳥のさえずりも、聞こえません。プレゼントを開けた子供たちの歓声も、誰かが話す声も、全て。
 ガラスのコップがテーブルから落ちて割れても、大人たちが騒ぎすぎて窓ガラスが派手に割れても、『音』はしません。鳴り響くはずのクラッカーも、派手な飾りが飛び出すだけで虚しいだけ。

「おはよう。みんな、メリークリスマス!」

 そんな静寂の中で一人の少女は、いや、一人の少女だけが、楽しそうに町を笑顔で駆けていきます。
 可愛らしい笑い声を、静寂の中に響かせながら。
 彼女以外の、全ての『音』が町から消えました。でも、なぜでしょう。
 誰一人、戸惑うことなく時は進んでいるのです。
 少女の楽しげな声しか、少女がたてる『音』以外は、何も聞こえない。一つしか『音』が無いのに、彼らは今までと全く同じ生活を送っているのです。
 そう、楽しいクリスマスの日を。

 幸せそうに目を閉じている少女は、何を思っているのでしょうか。愛らしい顔を、ほんのりと朱に染めて、彼女は部屋のベッドに横たわっています。

 少女は、生きているかのように微笑んで。


Fin.

*

Image Collar:利休鼠(りきゅうねずみ)