複雑・ファジー小説

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【紫陽花の陰】 ( No.14 )
日時: 2016/08/19 10:00
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)

——雨に咲くのは君の傘。

【紫陽花の陰】

 点けっぱなしのテレビから、梅雨入りを知らせる声がする。どうやら、今年の梅雨入りは早いみたいだ。むっとするような湿気で、身体に汗がまとわりつく。
 部屋の窓から外を見ると、重たそうな雲がよたよたしながら、こっちに向かっていた。窓ガラスをたたくような強い雨が降るのも、もうすぐなのかもしれない。
 久しぶりに聞いた声は、湿っていた。もう、とっくの昔に忘れたはずの、すごく懐かしい君だった。
 君とは、中学生の時に少しの間だけ付き合っていたんだっけ。卒業式の日に、君から別れを告げられて、何もかも失ったような気がしたんだ。
 君のことを忘れるために必死で色んなことをやってさ、いい会社に入って、忙しい日々を送るうちに、君の記憶は消えて、過去になった。何人か女の人とも付き合ったしね。
 そうやって、僕の一部だった君は姿を消して、代わりに別の何かがその場所を埋めた。
 残ったのは梅雨入りまえに感じるような気だるさだった。

『君は、僕にどうしてほしいんだい?』
 喉の奥から絞り出すようにして吐きだした言葉は、気のきいた言葉じゃなかったね。僕は泣いているときに、誰かに頼りたいなんて思ったこともないから、どう言えばいいのかわからなかったんだ。
 電話越しの君は、ぼろぼろで、手を握ってあげていないと消えそうなぐらい、弱弱しかった。
『いつもの場所で、待ってるから』
 そんなことを言われて、電話は切れた。
 なんでこんなに迷っているのかわからない。君は、過去にしたはずだったんだ。僕はまたもう一度、君に会えるのか……。
 降り始めた雨の音に、ため息はかき消される。
 自分でも驚くくらい、僕は今、悩んでいた。君は、すごく自然に心の隙間を埋めてきて、ううん、最初っからそこの場所にいたみたいに、すんなりと受け入れていた。
 答えはすぐそこにあるのに、なぜか迷っている。花が咲き終わったあとに美しくなった、紫陽花のように。

 走りだした。誰一人いない道を、全力で駆けた。
 息が、苦しい。どしゃ降りの雨で前が見えない。白いシャツが、身体に張りつく。水を吸ったジーンズが、僕を抑え込もうとする。髪から滴る雫が僕を、さらにずぶ濡れにした。
 どうして走っているのかは分からない。でも、その先に君がいるのは分かってる。
 一歩踏み出すたびに、君との記憶をどんどん思い出している。あんなに楽しかった。あんなに苦しかった。
 揺れ動く心が、僕をあの場所へ急がせる。

 青紫に囲まれて、君の赤い傘が開いていた——。

 息が、苦しかった。あんなに激しかった雨が、しとしとと静かに降っている。
 君は、ゆっくりと振り返って、泣き出しそうな顔をした。僕の知ってる君より、ずっと大人びた顔だった。
 瞳が、潤んでいる。君のふっくらとした唇が、「ごめんね」の形を作った気がした。
 さっきまでの激しい雨が、嘘のように止んでいた。雲の切れ間からは、青空が見える。
 傘を畳んだ君を思いっきり抱きしめた。僕の腕の中で、子供みたいに泣きじゃくる君は、捨てられた子猫のようだった。

「やっぱり、僕は君のことが好きだ」

 頭を撫でながら、耳元で囁いた。


*

Image Collar:裏葉柳色うらはやなぎいろ