複雑・ファジー小説

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【生命の花掲載】 ( No.18 )
日時: 2016/12/08 21:54
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)

 木々の間に、一輪の花があった。暗い緑と茶に侵された空間の中で光り輝くその花は、この世のものとは思えないほど幻想的だ。
——本当に、この世のものではないのかもしれない。
 鮮やかな黄緑と、ガラスのように透明な花びら。しかしステンドガラスよりは薄く、色つきのグラスよりは濃く。花びらを通して見た世界を、ぼんやりと紅に染めてみせるほどには淡く色づいた花びらだった。

【生命(いのち)の花】


 陽が落ちかけ、昼と夜のちょうど境目ともとれる時間に、涙を零しながら走る少年がいた。
 ズボンに隠れた傷だらけの脚、手首から滲む鮮血。少年自身によって付けられた幾つもの傷は、身体を動かす度に悲鳴をあげた。

「シノ、手首の傷大丈夫? なんかで抑えたほうが良いんじゃ?」
「……え。あっ……うん、大丈夫だと思う。小さい傷だし、ほっとけばすぐ止まるよ」

 声をかけられて、はっと意識が戻ってくる。信号で止まった時、たまたま近くにいた彼女は傷に気がついたらしい。彼女に言われるまで、手首の切り傷が少しひらいて血が出ていることに気がつかずにいた。

「本当に? 手首から垂れそうだけど……ほら、これ使って。見てるこっちが痛くなってきそうだから」

 そう言って、手首をとり白いハンカチを巻きつける。赤い糸の刺繍が血を目立たなくしていた。

「あ……ありがとう」
「気にしないで。あ、いっけないおばあちゃんに怒られちゃう。じゃあね」

 少しキツめに巻かれたハンカチの締め付けは心地が良かった。
 少女は彼が誰かと喧嘩でもしたと思ったのだろう。「早く帰って消毒とかしてね」と言って去っていった。軽く手を振り、遠ざかっていく後ろ姿に「ごめんね」と小さく呟いた。
 陽が傾き、光が絞られるにつれ霧は濃くなる。視界が遮られる中で目的地にたどり着こうとするのは至難の業。彼は足の向くままに町をさすらっているのだから、そもそも目的地も何もないのだが。
 でも、すぐに分かった。足元の感触が違う。固い地面ではなく、柔らかな草花と土。
 そこは、町外れの花畑だった。
 一昔前までは、美しい花々が見渡す限り続いていたらしいが、今は昼夜を問わず霧に覆われており、その景色はない。近づけば花が咲いているのが分かる、ただそれだけのことだ。

——もう、疲れたな。

 こんなにボロボロになっても満たされない。躰は燃えるように熱いのに、冷えきった手足。どこかに大きな穴が空いていて、胸の奥から何かが抜けていってるみたいだ。こうして闇の中にいると、その大きな穴が埋まるような感覚に陥る。

——そろそろ帰らなきゃ。

 そんなことを彼は思った。こんな自分でも、帰りが遅いと心配してくれる母親がいる。でも、夜を吸った霧は方向を飲み込んでしまった。
 仕方なくその場でゆっくりと回ってみると、赤い光が見えた気がした。気のせいだろうか。いや、そうではない。少しずつ、シノは目を凝らしながら進んで行くことにしてみた。

「おや、こんなところに客人とは珍しい。どうしたんだい、坊や」

 いきなり声をかけられて、思わず転んでしまった。気がつけば夜空も見えるし、小さな家が建っているのも見える。背の高い木々が囲むように立っていた。

「え、あ、あの……」
「ははん、適当に歩いてたら迷ったか。あたしはイブ。この荒野——いや、今は花畑か——の主さ」

 頭の中に噂話の一節が不意に浮かんだ。ここは、魔女の庭……? 考えを読んだかのようにイブと名乗った女性は続ける。

「あたしは魔女ではないよ。でも、あんたらからしたら魔女なのかもしれないね。霧を出しているのも、花を咲かせたのもあたしだから。ほら、あんたが惹かれて来たのはこの花だろう?」

 そう言って一輪の花を指した。

「これが……花?」

 月明かりに照らされた空間の中で、ぼんやりとした紅い光が灯っている。それを間近で見ると花びらは薄く透き通り、ガラスのようだった。色を放っていなければ、そこに花があると認識できないのではないか、と彼は思った。

「アンズの花言葉は孤独。今の君にぴったりだろう? 何をしても満たされない、それは1人だからさ。摘み取ることはしないでおくれよ。育てるのには手間がかかる」

 そう言って背を向けて、小さな家へと歩いていく。煙突からは煙が出ていた。今まで彼女の存在に圧倒されていたが、ふと我に帰って訊ねる。

「ま、待ってください! ここから、どうやって帰れば?」
「答えはあんたが知ってるよ。ゆっくり花と考えな」

 背を向けたままイブは答える。そして今度こそ家の中へ入ってしまった。
 木々の狭間の空間に花と一人。帰り道は、どこだろう。自分でつけた傷が今さら痛む。彼女は、満たされないのは孤独だからだと言っていた。
 一人でいるのが好きだった。居場所なんてどこにもない。学校の友人とはそれなりに話もして、町の人と挨拶ぐらいは交わす。でも孤独感しか感じられなかった。放課後、遊びに行こうと誘われたことは一度もない。ケータイに届くのは必要最低限の連絡だけ。
 表面上の付き合いに疲れて自棄になれば「あんな人だったのか」と陰で言われ、自分が正しいと思う選択をすれば「その選択は間違っている」と裏から突きつけられる。
 突きつけた本人は素知らぬ顔で、何事もないかのように笑い、いつもの景色と同化する。
 だから、一人でいるのが好きだった——自分がそう思い込んでいた? 決めつけたのは、自分自身だったのかもしれない。
 手に巻かれたハンカチを見た。家で自分の帰りを待っているであろう母親を思い出した。
 こんな自分でも、誰かに心配されるのだということに、今さら気がつく。
 そこまで思うと、不思議な花に近づいてみた。見れば見るほど、輝き、美しく、神秘的な花だった。つうっと指で花びらをなぞる。指先がふわりと温かい感覚に包まれたかと思うと、久々に充実感が溢れた。花の色は明るさを増して、今や月明かりを凌いでいる。

「あっ……」

 見慣れた景色が、遠くに見えた。道を作るように霧が二つに割れ、紅い光が照らしてくれている。

「もう少し、僕は頑張ってみるよ。それでもダメだったら、また君と会うのかな」

 その言葉に応えるように、アンズの花は一度強く光った。その光に背中を押されるようにして、シノは霧の道を駆け抜けて行った——。

「やっぱり、人の感情を直接与える方が綺麗に育つんだねぇ。次は何の『生命の花』を育てようか」

 霧の奥でポツリと、イブは呟いた。


*

Image collar 虹色(にじいろ)
※七色ではありません。和色でいう赤の一種です。