複雑・ファジー小説
- Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【生命の花掲載】 ( No.19 )
- 日時: 2016/08/19 13:23
- 名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: Uj9lR0Ik)
淡く、儚く、泡沫の夢の色。花火のように消えてゆく——。
【想い出】
「……今日、可愛いね」
その言葉は不意打ち過ぎて、自分でも顔が紅くなるのがわかった。今年初めて着た特別な服。待ち合わせ場所から少し歩いて、いきなり耳元で囁かれるなんて思ってもみなかった。
——私、あなたのことがまともに見られないの。
この日、私はあなたに恋をしました。考えるだけで苦しくて、でもそれが心地よくて、上手く言葉になんて出来ない。あなたがいるって、そう思うたびに、なんにもない普通の日でも特別になった。
それから程無くして、私たちは付き合うようになった。あなたが笑っている横顔が、とても好き。
いつまでも、こんな日々が続くと、ずっと信じていた。でも、それは夢だったのね。
いつの間にか、あなたの姿は消えていた。あとで聞いたのだけれど、お医者様を目指すために留学したんだってね。あなたはいつも私に優しいから、黙っていた。そして、一陣の風のように去っていった。
「さよなら」
そんなことも言えずに、色とりどりの記憶は空に散る。それが、一緒に見た祭りの花火みたいで、散っていく花火を見ていると涙が零れた。痛いほど儚いとよく聞くけれど、本当にその通り。すごく、すごく綺麗だった。
私の頭を撫でてくれた手のひらも、人目を避けるように交わした口づけも、泡沫の色で私の胸を焦がしていくの。
『あなたに、もう一度会えますか?』
聞きたい答えをくれる人は、一人しかいません。あなたは、どこにいますか。
最後に別れたときもあなたは笑顔。笑顔で別れる術は、知らなかったわ。今日までと変わらない明日が来ると、当たり前のように思っていた。
いるはずがないのに、いつも目で探してしまう。あなたが好きだった場所、食べ物、色……。後ろ姿を見つけては、あなたと重ねている。そんなことをしていても、あなたがいた時間は戻らないと、知っているのにね。夏がまた、あなたと会わせてくれると思っていた。
「どうして?」
そんなことも言えずに、ただ、ひと夏の夢だけが残る。夕暮れの霧に、蝉時雨がこだまする。その鳴き声で、私の想いをかき消さないで。いつまでも泣いているのは私もだから。
オレンジ色の空にある真っ白な筋は、ぼんやりとしか見えません。あなたのいる場所からは、綺麗に見えますか。まっすぐな雲が私の願いを乗せて、あなたのもとへ伸びていく。
『あなたに、会いたいです』
失って初めて、気づくこともあるんだね。笑って、泣いて、喧嘩して、仲直りして。その一つ一つが、かけがえのない夢のようで、色づいている。あれから、もう一年が経ちました。あなたとの想い出が、今の私に繋がっている。
「大好き」
あの時は恥ずかしくて伝えられなかったけれど、今なら言葉にできる。もっともっと、伝えればよかった。私の夏は、あなたという夢の色に染まったけれど、私はあなたの夏を染められたのかな。
二人で見た花火は、なんども、何度も空に咲いていたね。今日も色のない空に、艶やかな華があの日みたいに咲いている。
悲しい、哀しい、寂しい。そう思えば思うほど、美しく私の目には映っているの。
ねぇ、私の想いも一緒に打ちあげて。遠いあなたにも届くように、高く、暗い空に美しく、可憐に、艶やかに咲かせてください。
『あなたが、好きです』
懐かしい日々だった。あれは十七歳の夏。恋して、泣いて、色んなことがあった夏だった。
あれから私は成長して、六年が過ぎた。町を出て、仕事にも少しずつ慣れてきて。そんな矢先、町に住む母親が倒れたという知らせが届いた。 急いで仕事を切り上げて、五年ぶりに町に帰ってくると、忘れていた色んなことが一気によみがえってきて、でも何かが抜け落ちてしまったような、そんな感じがした。
久しぶりに帰る我が家は何も変わっていなくて、変わったとすれば、母親がやせ細ってしまったことぐらい。少し表面の欠けた赤いレンガに、右から三番目の瓦が無くなっている屋根。リビングに敷いてある、端っこが少し破れたカーペット。もちろん私の部屋も、出て行った時のままだった。だからこそ、その時に書いていた日記を見つけて思い出に浸りつつ、少し当時の自分を恥ずかしいなと思った。あんなに人を好きになれる自分がいたなんて、ちょっと前の自分なのに、今の自分からは考えられなかった。
「お母さん、ちょっと町の様子見てくる!」
「……気を付けてね」
か細い声の返事がしたことを確認してから、家を飛び出す。遅刻ギリギリに家を出ていたあの頃と同じだなと思いだして笑った。
町の景色は記憶と違った。通っていた学校も、帰り道によく行った店も、見慣れた通学路も、五年もたてば色々変わっていた。学校の校舎は建て替えられて真っ白な木の建物に、砂利道の通学路は石畳の道になった。通いなれた店は、大都市でよく見かける食料品店に。
こんな田舎町でも変わるところは変わり、近代的になる。でも、少し町の中心部から外れるとやはり田舎だなぁと思ってしまう。まだ明るい昼間なのに、あたりには霞がかかっている。この霞、夜にはとても濃い霧となってあたりの視界を奪ってしまうほど性質の悪いものだ。
「このご時世に魔女とか言われてもね……正直バカバカしいとしか。せっかく綺麗な花畑とかあるのにもったいないわよねー」
霧に八割がた隠れた花畑。そう、この霧の奥には魔女が住むと、昔から言われていた。荒れ果てた土地に花を咲かせ、消えない霧を作り出し、迷い込んだ人間は殺してしまう。だが、その噂に臆することなく霧の中に入ってしまう人がいるほど、霧に垣間見る花々は美しい。そして特に格別なのは夜。高いところに登って花畑の方を見下ろすと、霧の合間からキラキラと花が光って見えるらしいのだ。まるでそれは夜空に瞬く星々のようだとも評される。運よく見られた者は願いが叶うとか、そんな幻想的な話も聞いたことがあった。
——あの頃は、私もその話を信じていた。
どうしてもあなたにまた会いたくて、言いたかった言葉をどうしても伝えたくて。
どうしたんだっけ?
私は、私は、あの時。
「おや。誰かと思ったらあんたか。ついこの間も見たような気がするけど、ずいぶん大きくなったねぇ」
真横から声がした。花畑の前にいたはずなのに、いつの間にか周りは木々に囲まれた空間になっていた。白い煙のあがる小さな家。太陽の光が木漏れ日となって降り注ぎ、やわらかな緑を優しく包んでいる。
「思い出を取りにきたって感じか。あの時は感情が溢れかえっていたからね。花が吸いすぎたのかもしれない」
この場所も、この声も、知っている。私の足元に咲く、小さな花の名前も、全部知っている。
「届かぬ……想い。それがこのエンドウの花言葉……」
「ごらん、あんたの感情を吸って、深みのある赤に咲いているだろう。本当は、こんなに赤いのは真ん中の部分だけなのさ。周りのところは薄い紫色でねぇ、今のままでも充分だけど、やっぱ本当の色合いのほうが綺麗に咲くんだよ。ほら、指で優しくなでておやり」
真っ赤なルージュをひいた唇が弧を描く。
あの日、あの人に想いを伝えたくて、夜の花畑に一人で出かけて行った。同じように、いつの間にかこの場所に迷いこんで、彼女に話しかけられた。イブと名乗る女性を前に、昔からの言い伝えが本当だったんだって、すごく私は驚いていたのを思い出す。ガラスのコップ越しに見るろうそくの炎みたいに、キラキラ光る色とりどりの花の中で、その花だけは透明で、透き通った花びらをしていた。
つうっと指でなぞると、涙がこぼれ落ちるように濃い赤の色が薄くなっていった。花びらに触れている指先が、紫のネオンに照らされる。光を見ていたら、自然と泣いていた。どんどんあふれて、止まらなくて、花びらの上に、一つ——また一つと落ちていった。
「あんたの想い、取り戻したかい? 忘れてちゃいけない、大事なものだろう」
イブが静かに問いかけた。唇の端がわずかに上げられる。
「最初はつらいかもしれない。あたしだってそうだった。でも、その思い出を無かったことにしたら、何かが物足りないんだよ。綺麗な思い出ばかりじゃないけど、自分の中に残しておかなきゃいけないのさ」
泣きじゃくりながら、何度も頷いた。心に空いていた穴が埋まった気がして顔を上げる。辺りはすっかり夜だし、いつの間にか自分の家の前に戻ってきていた。今度は、思い出と前を向いて歩ける、エンドウの花が見守ってくれているような気がした。
見上げた空に一輪——艶やかな花が咲く。
「やっぱり綺麗だねぇ……人の感情は強すぎても弱すぎてもなんか物足りなくなっちまう。お前さん、見事に咲けて良かったな」
霧の奥。空と地に咲く花を見つめて、イブは満足げに微笑んだ。
*
Image coller 薄紅藤色(うすべにふじいろ)