複雑・ファジー小説

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【感情的なBlue】 ( No.26 )
日時: 2017/02/04 21:44
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: rHtcSzQu)

——私が好きだったあなたは、もういない。


【感情的なBlue】


 顔を上げたら、海があった。寂れた田舎へと向かう列車の中、女は目を細める。彼女は誰もいない車内で、おおきく深呼吸した。
 深い青だった。岸に近い所には、大小様々な岩が点在する。後ろに通り過ぎた景色も、前にある景色も大して変わらない。窓ガラスの向こう側を、かもめが鳴きながら飛んでいった。
 終着駅の一つ手前で降りた。風に吹かれてロングスカートがはらむ。裾を軽く抑えながら、女はゆっくりと歩き始めた。
 駅の外は彼女の記憶とだいぶ違っていたようだ。見慣れない風景に足が止まっている。でもまたすぐ、歩き始めた。舗装されたはずの道はひび割れ、そこに生えた雑草も枯れている。建物の窓ガラスは割れ、外の塗装は朽ちていた。人影は見当たらず、見覚えのありそうな残骸を頼りに、目的の地へと向かう。
 雲があちこちに浮かぶ青い空だった。褪せた色彩の中で、青だけが鮮明に飛び込んでくる。まるで、空以外は呼吸を止めてしまったような場所だ。もう列車が通ることもない線路をこえ、荒れた民家の前を通り過ぎ、壊れた船が泊まる海岸へとたどり着いた。
 美しい青。それに片手を近づけると、彼女が通る道を作るように海が割れた。太陽の光を受けて、立体的な青はキラキラしていた。

「アダム」

 彼女の声が名前を紡いだ。それに答えるように、痩せた男が一人現れた。元の顔立ちは整っているが、それを隠すように生えたひげと、伸び放題の髪。

「イブ、久しぶりだな。ようやく会いに来てくれたか」
「イブじゃないわ。私はノア。あなたを——殺しに来た」

 どうやらノアは、アダムという人を殺すらしい。
 時々こうして、誰かのことを夢に見ることがある。だが、ここまではっきりした内容は初めてだった。映っていたのは知らない女だったが、なぜか自分の生まれ変わりだと感じていた。
 あの場所は私が住んでいる町の外れだった。もちろん今は人が住んでいるし、荒れた土地にはなっていない。その人は、今もそこにいるのだろうか。それとも、その場所が死んでしまった遠い未来に、現れる人なのだろうか。
 久しぶりに外へ出た。足首まであるワンピースにレースの上着を羽織って、青空の中歩いていく。サンダルがペタペタと軽快なリズムを作った。
 あの場所までは、家から歩くと一時間ほどかかる。身体を壊してから、医者には歩いて出かけるのはやめろと言われていたけれど、無視したい気分だった。
——だってこんなに綺麗な青い空なんですもの。
 あっという間の一時間。海辺の駅に私はいた。
 海辺といっても、駅から海を望むことはできない。海の近くにあっても、周りの建物に邪魔されているのだ。人もそんなに多くない。海岸に海水浴場があるわけでもないし、何か観光名所があるわけでもない。地元の人が町へ行くのに使う程度の、いわゆる田舎の駅だった。
 踏切を渡り、海の方向へ向かう。途中いくつか民家の前を通りすぎ、小さな漁港に着いた。船はあったが、周りには人の影も形もない。
 あの人は、いるのだろうか。彼女がやっていたみたいに、海に手を近づける。青があった場所に置いても、私の手は濡れなかった。そのまま奥へ奥へと、腕、肩、胴体、脚と這いずるように進む。私の身体も、濡れなかった。立ち上がると、私を海が取り囲む。
 でもそれは道ではない。三六〇度どこを見ても周りは深い青だった。もしかして、と期待する私の気持ちを表すように、輝いた青だった。

「……アダム」

 小さな声で名前を呟く。少し、ほんの少しだけ海面が震えたような気がした。でも、なにも変わらない。辺りを見回しても、人影はなかった。岸に戻って、もう一度見た。やっぱり誰もいない。
 どうやらその人が現れるのは、もっと先のことらしい。その可能性もあったのに、なんで私は自分にもできると思ってしまったのだろう。確かに彼女のように海には触れなかったけれども。
 がっかりして、来た道を引き返す。わざわざ一時間かけて来たのに、無駄になってしまった。青い空は、そんな私を嘲笑う。

「待てよ、お前リルか?」

 呼び止める声がした。振り返ったら、忘れたはずの人がそこにいた。

「ケルビム……どうしてここに……」
「たまたまさ、所用でここに来たらリルがいたんだよね。僕にしてみれば君がいるほうが驚きだよ」
「私はただ、人を探しに来ただけ。それもいるかわからない人を。その人はここにはいなかったみたい。だから今から帰るの」
「送って行こうか? 僕もちょうど用は終わったところだし」
「大丈夫。一人で帰れるわ」

 ケルビムとは、五年くらい前に半年ちょっと付き合っていた。別れてから一度も会っていない。喧嘩別れしたわけでもなく、お互いもういいねって言い合って別れた。

「そんなつれないこと言うなよ。久々に再開したんだし、途中まで送って行くぐらいさせて? どうせこのあと君の家の方に行くつもりだったし」
「……好きにすれば」

 帰り道、自然と別れたあとの話になった。
 よく分からなかったけど、彼は何かを監視する仕事に就いているらしい。今日もその仕事の関係でここに来て、これから報告に行くと言っている。付き合った人も、何人かいるんだって。

「リルは? 付き合った人ぐらいいるんでしょ?」
「……まぁ。てか、煙草吸うようになったんだね」
「絶対吸わないと思ってたんだけど、付き合いで吸うようになっちゃった。やめようと思えばやめられるんだけどさー」

 そう言って、彼はニヤッと笑った。私が見たことのない笑い方だった。まだ、彼のことを完全に忘れていなかった。好きだった笑顔も、ちょっと癖がついた髪の毛も、実は思い出せた。
 だから分かった。
 私の好きだった彼は、もういないって。
 喧嘩別れで嫌いになったわけでもないし、またどこかで会ったら、止まった時間が動き出すんじゃないかと思っていた。所詮は青い幻想だったのね。

「ありがと。もう私、一人で帰れるわ」
「せっかくだし家の前まで送るよ?」
「ううん、良いの。あなたも分かったでしょう? 私たちは——」
「わかったよ。だからそれ以上は言わないで。じゃあ、またね」

 彼も、何かを察したらしい。それ以上深く追及することはせず、別の道へと進んでいった。
 これで良いと思いつつ、身体のどこかに穴が開いた感じがしている。眩しいくらいの青空が、どこか憎らしい。なんで、いつもなら気にも留めない夢を確かめに行ったんだろう。行かなければ、私の幻想は崩れなくて済んだのに。
 小さくなった彼の後ろ姿に別れを告げるように、別の道へと歩き始めた。その道は、憂鬱な道だった。

「あんた、アダムのことを知ってるのかい」

 ルージュを引いた女性がそこにいた。死人のような肌、ローブの上からでもわかる痩せた体型。青空には不釣り合いな人。

「何のことかな? アダムならヤハウェが知ってるよ。僕の感知するところじゃないからさ」
「とぼけないでおくれ。生命の花を通せば、あたしはなんだって見られるんだ」

 霧の奥、小さな家の前にイブが待ち構えていた。その傍らには青く輝く一輪の花。これは誤魔化しても無駄らしい、そうケルビムは判断した。

「君の好きだった人は、海の底にいる。いずれ君たちの子孫に殺される運命を課されてね。それを変える術は今のところないから諦めたほうがいいよ。僕が知ってるのはそれだけ」
「あたしが会いに行っても無駄って事かい?」
「まあそうだね。そもそも海の底にたどり着けるのは、ごくわずかな人間だけだ。僕ですらその場所に行くことはできないからね。ちなみに、その青い花で君は何を見たの?」
「おや、それはあんたの方がよく知ってるんじゃないの。この花の持ち主の見たもの全てがみえるんだからさ」

 昨日の夜遅く、急にその花は咲いたのだという。海のようにも、空のようにも見える青い薔薇。
 青という色は見る人の感情によって、その意味合いを大きく変えた。晴れた空に、前へ進め。そういった前向きな意味合いで見えることもあるけれど、ブルーな気分と憂鬱な意味合いで見られることもある。どこかで誰かが言っていた。昔むかし、奴隷たちは晴れの日に働いて、雨の日は休みだったと。だから、晴れた青い空は憂鬱な気分になるらしい。過酷な労働をしなければならないから。
 この花の感情は、リルのものだった。だから、花を通して彼女の夢も見たし、その後の彼女の行動も、何もかもを見てしまった。

「青は相反する感情を抱えていて大変だね。そんなところが好きだったんだけどさ」

 あいまいに返された言葉に、イブは苦笑いした。

「でもね、明らかに生命の花が本来の力を取り戻しているのは分かったよ」

 以前は、強い感情を宿した人間から、その感情を吸い取って咲くのが精一杯だった。それがイブが遊んでいる間に独りでに咲き始め、彼女の生まれ変わりも確認しつつある。そしてこの青い薔薇に至っては、透き通った花びらにその感情を抱いた場面が映し出されていた。日に日に、強くなっていく花々の輝き。その明かりで、夜の森が歩けるほどに。

「今日は一段と綺麗な青空ね。花畑が綺麗に見えるから、すごく好き。世界のどこかでは憂鬱に思う人もいるんでしょうけど、私は明るい気分になるわ。せっかくだから、行ってみようかしら」

 家の二階から、少女は真っ青な空を見上げていた。


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