複雑・ファジー小説

Re: 【短編集】移ろう花は、徒然に。【スカーレット・レディ】 ( No.27 )
日時: 2016/10/28 20:17
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)

「人間の感情の中で最も古く、最も強烈な感情は恐怖である」
——ラブクラフト6より


【スカーレット・レディ】


 チン、という軽い音を立ててグラスが交わった。カクテルのショットグラスに注がれた緋色の酒が揺らめく。それを一息に飲み干して、カウンターに置いた。

「このカクテル、すごく美味しいわ。もう一杯頂こうかしら」
「かしこまりました、レディ」

 若いバーテンダーが大げさにお辞儀をして、グラスを手に取る。愛想が良いだけのバーテンとは違って、客の見極めもできるようね。言葉使いはともかく、二十代前半に見えるのに有能な店員だわ。
 カクテルを作り始めた銀髪のバーテンダーを見て、ノインはそんなことを考えていた。
 そんなに大きくはない町の外れに、『pi-Ela』という名の店があった。主に、昼間は近所に住む奥様方のティータイム、夜は恋人や訳あり人のバータイムとなっている。昼間は清楚な明るい店なのだが、夜になると雰囲気は豹変。薄暗い店内の中、混沌という秩序が生まれる。店の手前では恋人たちが愛を語らい、中ほどでは一人で雰囲気に酔うもの、奥では裏口から入った人ならざる者が集っていた。
 店内に明確な線引きはなく、入り口の方から奥を覗いたときに「何か」が見えてしまうことも少なからずある。だが、大体の人間は酒の見せる幻覚だと、勝手に解決してしまうため、騒ぎにはならない。もし、そこで店の中ほどまで進めば、この店が奇妙なことで溢れているのに気が付くだろう。だが、その奇妙さがギリギリのところで成り立っているのは、この店のバーテンダーたちと少しの協力者の隠れた努力ゆえのことだった。
 異形の者が来店するという噂が、ないわけではない。好奇心から店に訪れる客もいるが、薄暗く、少しもやがかかったような奥に進むのが、何故か躊躇われるのだ。

「よくこんな狂った空間が成り立ってるわよ。酒のせいにするには冗談が過ぎるのに。ほら、あそこなんて天使と異形の集まりじゃない」

 店の中ほどで真実を述べたところで、何一つ騒ぎにならない。こちら側の噂では、強力な魔法がかけられているから遮断されているとか、いないとか。ま、あたしはどっちでもいいけど。

「ここの場所まで来られるのは、ただの人間でない者だけだからねー。それは君も良く分かっているはずなのに」
「まぁね」

 丸い片眼鏡の向こう側で、深緑色をした瞳が細められる。蔑まれたような視線に少し興奮したのは、お酒のせいかしら。あぁ、食べてしまいたい。喉仏に噛みついて、恐怖に染まった顔を眺めていたい。滲み出す鮮血を吸いつくして、その瞳が怯えを湛えた状態で光を消すのを見たい。喉が血を噴いて、ひゅーひゅー音が鳴るの。なんて素敵な音かしら。
 少し水っぽい血液が好き。噛みついた直後は口の中で唾液と混ざり合って、食感がないわ。ほんのちょっと時間が経って血が固まってくると、ドロッとしたのに変わっちゃうのよね。わずかな時間だけ楽しめる極上の味。
——彼はどんな味がするのだろう。
 シェーカーを振っている姿をちらりと見た。第一ボタンまできっちりと留められたシャツに隠れて、喉元はうまく見えない。

「お待たせいたしました。スカーレット・レディです」
「どうも。このカクテルって何が使われているの? 口の中に残る苦みがすごく好みだわ」
「メインはホワイトラムとカンパリですねー。特にカンパリが苦みを持った味なのと、このカクテルの赤色を出すのに使われています。貴女にピッタリかなって」

 銀髪のバーテンダーは、軽く微笑んだ。弧を描いた唇の隙間から一瞬、明らかに人にはない鋭い牙と、先が二つに割れた赤い舌が見えたような。
 ううん、きっと気のせいだわ。少し飲むペースが早くて酔っているのね。だって彼からは、人間の匂いがするもの。

「ねぇ、それにしても新人がこの場所を担当するなんて滅多にないことじゃない。他の店で働いてたの? それとも……ただのバーテンダーじゃないのかしら」
「それはね、ないしょ」

 カウンターに片手をついて身を乗り出し、低く返事を囁かれた。そして何事も無かったかのように、またグラスを拭き始める。その声だけが、ずっと耳のまわりに残っているようで、重たい。首から背筋へとはしるゾクリとした感覚に、何故か肌が粟立った。快楽とは違った、もっと、別のなにか。
 記憶のどこかに、似た感覚があるのだろう。それを振り払うように酒を煽った。カンパリの苦みとレモンの酸味、飾られたオレンジピールの香りを感じた時には、もう喉の奥へと液体は消えている。このお酒、血で割ったらすごく美味しそう。

「ねぇ、ちょうだい?」
「嫌だと言ったら」
「拒否権なんて、あるわけないじゃない」
「これ以上は身体に障るよ。明日もあるんだから」

 ふと交わった視線で、酔いが醒めた。一切笑っていない冷たい瞳。赤い唇は、確かに弧を描いているのに。

「何が欲しいか言ってないのに、断るなんて紳士のすることじゃないわよ」
「ふーん? 君はカクテルなんかじゃ物足りないんだ」

 口先だけの言葉を並べて彼は笑っている。チロリと覗く舌は、紛れもなく爬虫類のそれで。その表情は獲物を見つけた捕食者のもの。

「そんなことはないわよ。ただ……ちょっと何か食べたいなって思ったの」
「ふーん、じゃあ僕とゲームしようか。僕に勝てたら、僕の血を飲んでいいよ。君は吸血鬼のレディでしょ?」
「……良いわ」

 無意識のうちに息を止めていた。苦しくて吐き出した呼吸は細かく震える。太股から腰、二の腕から胸、そして上下から心臓へ。寒気と切なさと、息苦しさが駆け上がる。
 指先なんて、とっくの昔に冷えきった。

「ねぇ、君。僕と君とで、どちらかが必ず、どちらかを食べないといけないなら、どっちが食べられる側だと思う? この質問に、正しく答えられたら、君の勝ち」

 爛々と輝く深緑色の目。彼は笑っている。心の底から、とても楽しそうに。
 こわい。恐い。彼が、怖い。心臓から血液と共に、全身を駆け巡る感情。
 身体中の、あらゆる場所が叫んでいる。「私は怖いんだ」と。

「……食べられるのは、私。でしょう?」
「ふふふ、正解。ほら、僕のこと食べていいよ」

 仕事が終わってからね、と笑顔で付け加えられたが、それどころではない。彼の血を飲んでしまったら、私は確実に何かに飲み込まれてしまう。

「やっぱり遠慮しておくわ……他の人にする」

 震える声を絞り出した。たったこれだけを言うのに、心臓はバクバクしているし、冷や汗が止まらない。
 彼は身を乗り出して、私を覗き込む。そして白く鋭い牙を見せて、ニターッと笑うのだ。

「そう。ざーんねん」

 自分の棲家に帰る道も、いつもと違って見えた。誰かの気配がずっと後ろにあって、振り向いたらその誰かの深緑色の眼が光っていそうで、振り返れない。
 月明かりも何もない新月の夜は、自分の影が見えないから、狩りには打って付けの日だと教わってきた。狩られる側になるとは思いもよらなかったけどね。
 吐息が白い。でもいつの間にかそれは周りと同化していて、霧に包まれていた。

「待ってたよ、緋色のLADY」

 妖しく光る眼が二つ——振り向いたら、そこにあった。










 新月の夜、その花は突如として咲いた。真っ赤な彼岸花だった。そして、その夜が明けないうちに砕け散った。赤く透き通った花弁が、草の上に広がっている。
 その残骸を見て、イブは大きく溜息を吐いた。

「これからが仕上げだっていうのに、厄介なことだねぇ。まさかお前さんもいるとは思わなかったよ」

 花だったものに語りかけて、家の方へと踵を返しかけたとき——人影を見つけた。
 生命の花に囲まれるようにして、彼女は眠っていた。白いワンピースに細い手脚。綺麗な茶髪が朝日に照らされて輝いている。それは、いばら姫を思い起こさせるような姿だった。
 そっと近づき、イブは頭を垂れる。彼女に、何を思ったのだろうか。



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Image coller 緋色(あけいろ)

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スカーレット・レディ・カクテル:ショートドリンクに分類されるカクテルの一種。