複雑・ファジー小説

移ろう花は、徒然に。【Eat Me,Drink Me】 ( No.28 )
日時: 2016/12/29 21:28
名前: 黒雪 ◆SNOW.jyxyk (ID: jwhubU7D)

 目を閉じれば、暗闇が広がる。そんな当たり前の世界が、目を開けているときに訪れると、とてつもなく怖い。まるで、この場所から抜け出せなくなりそう。
 でも——このままじゃいけないの。そろそろ踏み出さなきゃ。

【Eat Me , Drink Me】

 ぐるぐると落ちてゆく。恐怖、憂鬱、孤独。負の感情が心を圧迫して、呼吸もままならない。苦しい、辛い……怖いよ。
 回りながら落ちてゆく。ウサギの後を追いかけて、穴に落ちたアリスもこんな感じだったのかしら。見えない底に向かって加速した。
『Eat Me』、『Drink Me』と書かれたケーキと飲み物はあるかしら。この暗闇から、私を引き上げてくれる人はいるのかしら。光が見えるのは気のせいよ。私のことを助けてくれる人なんて、いるわけない。
 いるわけないのに。
 来てほしいと、顔が浮かんでしまうのは惚れたから? 負の感情よりも、強く心を締め付ける。

「……はぁっ……んん」
「ようやく起きたか。大丈夫かい? ずいぶんとうなされていたからね」
「……ん……え?」

 荒い息を整えながら、自分が寝汗をすごく掻いていることに気が付いた。自分のものではない、白い綿の寝巻が肌に張り付いている。
 目覚めた場所は、知らない部屋の中だった。白い天井、茶色いレンガの壁。心配そうにのぞき込まれた顔に、徐々にピントが合っていく。
 綺麗な黒髪を、後ろで一つに束ねた人だった。黒のアイラインはくっきりと引かれているのに、肌には化粧下地すらつけていない。それよりも目を惹くのは、真っ赤なルージュだった。アンバランスな化粧が、彼女の美貌を際立たせ、同時に年齢を不詳にしている。

「ここは……どこ?」
「ここはあたしの家さ。庭の真ん中で倒れていたから、連れてきた」
「あなたは……?」
「イブ。この花畑の主さ」
「……ありがとうございます」

 会話がなくなった部屋からは、パチパチと暖炉の火が爆ぜる音がしている。ズキズキと痛む頭で、それをぼんやりと聞いていた。
 意識がはっきりとしていくにつれて流れ込んでくる、ごちゃ混ぜの記憶と感情。なんにも満たされない。喉の下のほうと胸の奥底に、何かが詰まっているような、何もないような感覚が、ずっとある。

「うぅっ……」

 悲しいわけでもない。どこかが痛いわけでもない。なのに、涙がどんどん零れてくる。ベッドに横たわったまま、静かに泣いていた。
 どうして自分が泣いているのかも分からない。どのくらい涙していたのかも分からない。でも泣いたことで、自分の中のモヤモヤした何かが晴れたのは感じていた。

「落ち着いたかい? 起き上がってこれ飲みな。もう少し落ちつくから」

 まるで、泣き止むのを見計らっていたかのように、差し出された白いマグカップ。『Drink Me』と書かれた、それの中の液体を口に含むと、ほんのりと甘い味がした。

「蜂蜜入りのホットミルクは、こういう時に飲むのが一番さ。感情が抑えられない時なんか、特にね」

 その言葉通りだった。温かい牛乳は飲み込むだけで、手足の先まで暖かなオーラで包み込んでくれる。

「ありがとうございます」

 そう言って軽く微笑むことができるくらいには、落ち着きを取り戻していた。

「あの、私どうすれば? あと、今日……何日ですか?」
「——だね。二日間眠ったままだったよ。すぐには動けるようにならないし、時間は気にせずゆっくりしていきな」
「二日間も!? おばあちゃん心配しちゃってるどうしよう……」

 急に現実感が襲ってきて、せっかく落ち着いていたのに、また焦りだす。

「家のことは心配いらないさ。ちゃんと連絡してあるから。なんなら電話でもするかい?」
「お、お願いしてもいいですかっ……?」

 渡されたのは、ボタンも何も無い真っ黒な子機だった。受話器のような形をしているが、コードも付いていない。

「電話をかけたい相手を思い浮かべながら耳に当ててごらん。繋がるから」

 私のことを一人でずっと育ててくれた、大好きなおばあちゃん。どんなに落ち込んでいる時も、優しく笑顔で待っていてくれた。

「もしもし? おばあちゃん?」
「サナ! 目が覚めたのね! お庭で倒れてたって聞いてからもう、おばあちゃん心配で心配で。でも元気そうな声で良かったわぁ」
「うん、心配かけてごめんね。もうちょっとしたら家に戻るから」
「そんなに急がなくていいわよ。サナ、あなたの感情が穏やかになるまで、そこにいていいのよ」
「……え? なんで?」
「あなたのいる場所はね、特別な人じゃないとたどり着けないの。大きすぎる感情をもて余した人しか。サナもきっと、何かの感情に溺れそうになっている。だから、ゆっくり時間をかけてごらんなさい。おばあちゃんも昔、そうだったから。あら、丁度クッキーが焼けたわ。じゃあイブさんによろしくね」
「えっちょっとおばあちゃん?」

 手の中に音のしなくなった電話が残った。

「切れちゃった……」
「終わったかい? あたしもあんたに聞きたいことがあるからさ。ま、ちょうどいいと思ってね」

 電話の間、家の外に出ていたらしい。彼女の周りに、乾燥した冷たい空気がまとわりついている。

「まず一つ目、あんたが倒れる直前、何があった? 二つ目、どうしてここに来ようと思ったか。とりあえずこの二つだね」

 まー、そっちも聞きたいことは山ほどあるだろうけどさー、こっちが聞いてからの方が答えやすいんだよ。電話を受け取りながら、そんな言葉が言い訳のように付け足された。

「わかりました。でも私も……あまり良く覚えていないんです。ここに来ようと思ったのは、すごく空の青と花畑の色が綺麗だったから、近くで見てみようかなって」

 あの日、家の二階から眺めた景色は、今でも目の前に浮かぶ。見上げれば見上げるほど青は深く塗り重ねられて、ガラスコップの底に入れられた蒼いガラスを見ているようだった。
 さあっと吹き抜けた風が髪を揺らし、甘い香りが微かにここへ残る。その香りを纏った風は、花畑の霧を一瞬晴れさせた。ほんの僅かな時だけ奥まで見渡せた花々は、キラキラと輝いていた。その輝きは、なんだかとても懐かしくて、とても切ない。

『おいで』

 そう呼ばれた気がした。霧の中、奥へ奥へと走っては歩き、また走る。まっすぐ進めているのだろうか。もしかしたら、とんでもない方向に行ってしまっているかもしれない。
 でも、この方向で合っているという自信がなぜかあった。時折、霧の中でキラリと光るものが見えた気がしたから。
 どこまで続いているのだろう。昼下がりに家を出たのに、辺りはもう黄昏時だった。真っ暗になるのも時間の問題かもしれない。
 ふと、後ろを振り返って愕然とした。濃霧のすぐ向こう側に、見覚えのある家が建っている。紛れもなく、それは自分の家。こんなに長い間走って、歩いて、なのに本当はちっとも進んでいなかった。暖かな灯りがともっているのが、何だか皮肉に見えた。
 ちょっと立ち止まって眺めていたら、玄関に人影が近づいてくる。少し足を引きずった、特徴的な歩き方をしていた。
——シノだ。
 そういえば、今日ハンカチを返しに来るとか言っていたっけ。いつもびっこをひくような歩き方をしているのは、脚についたたくさんの傷が痛むから。一回だけ見たことがある。すごく痛そうで、脚だけでなく手首からも血が垂れていて、彼はボロボロだった。
 あの時シノからは、すごく寂しそうな感じだった。なぜか私まで寂しくて、辛くなって、ベッドの中でその日は泣いていた。一人で寝るという行為に、こんなに孤独を感じた夜はない。

「シノ!」

 少し大きな声で呼びかけると、彼は驚いたようにこちらを見た。

「サナ? そんなところにいたんだ。あの家を知ってるの?」
「なんか行ってみたくて。あの家って? ここには花畑だけよ」
「霧の中の奥のほうに、小さな家があるんだ。不思議な花が咲いている、すごく幻想的な場所だよ。あ、これ借りてたハンカチ。ありがとう」
「へーそんなのあるんだ。でも、私ずっと奥のほうに歩いていたのに見つからなかったし、ちっとも進んでなかったのよ」
「でも、あれは幻だったのかなって。見つけた後、もう一度そこに行こうとしても行けなかったんだ。サナと同じで、ちっとも奥に進めなくてさ」
「はは、ほんとに噂の魔女が住んでるのかもね」
「かもね。そういえばさ、サナに言わなくちゃいけないことがあって。俺、引っ越すんだ。今度の復活祭が終わったら、この町を出て都会の方に行くことになったんだよね。なんか、サナには伝えておこうかなって」
「そう……なんだ」
「うん。親の仕事の都合でさ、ここだとどうしても交通とか不便だから引っ越すって。だから、学校もやめて転校するかな」

 どんな顔をしているように見えたんだろう。きっと暗かったから、思わず涙目になってしまったのは気づかれずにいる。そうであってほしい。

「あ、これみんなには言わないつもりだから、内緒にしておいて。じゃ、また学校でね! おやすみ」
「うん……おやすみなさい」

 思った以上に衝撃が強かった。寂しい、という言葉を、咄嗟に口に出すことがどうしてこんなに難しいんだろう。行かないで、一緒にいたい、と口にできないのはどうしてなんだろう。
 家に帰りたくなくて、月明かりも何もない、真っ暗な霧の中を歩いていた。どうせいくら歩いても家はすぐ後ろにある。

「いやぁあああああああっ!」

 全身を突如襲う、寒気と震え。誰かに素肌を舐められているような、不快感。恐怖が流れ込んでくる。両腕で震える身体を抱きしめながら、土に膝をつけた。

「おや、ここにもレディがいるなんて。こんばんは、純白のレディ」
「いやっ、来ないで!」

 深緑に輝く瞳と、整えられた銀髪。袖をまくった白いシャツの裾には赤い染み。音もなく、ゆっくりとこちらに歩いてきていた。

「ふふふ、取って食いはしないよ。でも、君にはこれをあげたくてさ。食べるか食べないかは自由だよ」

 どこからともなく赤い果実を取り出して、膝の上に置く。真っ赤に熟した林檎だった。林檎が置かれたのと同時に、目の前にいた人は消えている。その代わりに、林檎にナイフで切ったような文字が現れていた。『Eat Me』と。

「そのあとのことは覚えていません。気がついたら、この場所に寝ていました」
「そうか……林檎と言ったね。それは今どこにある?」

 少し考え込みながらイブが言った。

「ここに。透明なんです。あの時は確かに真っ赤だったのに、今は見えないんです。でも、それを探すとすぐ近くにあって、触ったりもできる。ほら、今、私持っているんですよ?」

 手のひらの上には、何もないように見えた。でも、イブには見えているらしい。ひょい、と何もないところに手を伸ばし、手に取ったらしい。

「なるほどね……。誘惑でもあるのか。面倒なこった。よし、あんたの話は分かった。次はあたしの番といこうじゃないか。何が聞きたい? あと、あんたの中で最近変わっていることがあるだろう。それにも答えられると思う」

 手の上に、重たい感触が戻ってきた。それを脇において、少し考えながら口を開く。

「ここには、どうやって来るんですか? あと……最近、話している人とか、近くにいる人とか、自分じゃない誰かの気持ち? がわかるんです。わかるじゃないな、なんというか、感じるというか。流れ込んでくるんです」
「ここにはね、強い感情を持っていないと来られないのさ。彼がここに来られたのは、強い孤独感と寂しさを持ちあわせていたからだね。あんたのお祖母さんだって、若い時にここに来たんだよ。まさか孫がここに来るとは思わなかっただろうけどねぇ」

 そう言ってカラカラと乾いた笑い声をあげた。なんで心配症のおばあちゃんが、あんなにすんなり受け入れたのか不思議だったけれど、一度経験したことがある場所なら頷ける。

「もう一つはねー、ピンとくるのは難しいと思うんだよ。ま、はっきり言えるのはあたしが悪いってことだね。今は落ち着いているだろうけど、時々、暗闇の中に落ちていくような、そんな感覚があるだろう? 言葉で説明するの面倒だから、見せようか。おいで」

 部屋を出たら外だった。花畑の手前からは、想像もできないような景色がそこに広がっている。朝露が太陽の光を浴びて朝もやに変わり、ガラスのように色づいた、たくさんの花を幻想的に見せていた。

「生命の花、と言ってね。人の感情を吸って咲くのさ。あんたのもきっとどこかにあるよ。その人の感情が、なんかのタイミングで溢れ出す。その溢れた感情によって色も違うし、形も違う。本当は、こんな花畑みたいなのじゃなくて、木なんだ。生命の木というね。んで、あんたはその生まれ変わり」
「……は? 木の生まれ変わり?」
「そ、聖書の失楽園追放は聞いたことぐらいあるだろう? あたしは蛇にそそのかされて、あの時禁断の果実を口にした。そして楽園を追放されて、ずっとここに住んでるってわけ。まぁ、ヤハウェ様も意地が悪いのか寛大なのかは分からないけど、生命の木を復活させられたらアダムと死なせてやるってね。それで、ずっと生まれ変わりが現れるのを待っていたのさ」

 ここは昔、楽園への入り口だったんだよ。イブは笑いながらそう付け加えた。

「信じられない話だろうし、信じなくてもいい。今日はもう家にお帰り。でも、これだけははっきりしてるんだ。あんたは近いうちに、必ずここに来る。その時に、林檎を口にするかしないかは決めることになるよ。どうやら、あんたは誘惑される少女の役割も担っちゃったようだからねぇ」

「サナ、起きなさい。学校に遅刻するわよ」

 耳元で、おばあちゃんの声がする。あれから半月が経ち、花畑は今日も立ち入る人を拒んでいた。相変わらず透明な林檎もそばにある。食べようと思ったことはないけれど。
 よく晴れた、憂鬱な一日がまた始まる。


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Image coller 鉄紺色(てつこんいろ)