複雑・ファジー小説
- Re: 君の絵 ( No.8 )
- 日時: 2014/02/01 00:50
- 名前: みーこ. (ID: J9Wlx9NO)
「はぁ!? どこに?」
「分かんない……多分、居酒屋……」
はぁ、とため息をつく。こいつは一体どこまで変わっていないのか。
小春はもじもじと身じろぐと、苦笑して俺に言った。
「あの……それで。鍵、見つかるまでここに泊めて……」
「大家には?」
「言った……。お金取られたけど、一個作ってくれるみたい」
もう一度、長い深いため息をつく。
「俺しかアテ、ないのかよ」
一応俺、男だぞ? と付け加える。それを聞いた小春は顔をむすっとさせて、頷いた。そんなはずはない、と思ったが彼女の顔があまりにも曇っていたので、黙っておいた。
チ、と舌打ちする。それは本当に怒ったんじゃなくて、体が火照るのを、必死で阻止したかったからだ。
「仕方ねぇな、入れ」
*
「ごめんね」
小春は苦笑する。ドキ、と胸が高鳴る。これから、鍵を取り戻すまで、小春と一緒……。
「爽ちゃん?」
「いや、何でもねえ」
そう、と小春は吐息を落とす。俺はソファに座って、テレビの電源を再度つける。——が、行き場をなくした小春がそこで立ち尽くして困惑していることに気付く。この部屋には、ソファは一つしかない。
「……ここ、座れば」
俺の隣を叩いてから、小春の反応をうかがう。彼女の顔が、明るくなったのが分かった。
「ありがとう」
「別に……」
「あ、この芸人さん最近売れてきたよね。私、お笑い大好き」
その後もくだらない話をベラベラと語りだす小春の横顔を見つめる。彼女はそれに気付いていないみたいで、キラキラと瞳の中を輝かせながらテレビ画面に見入っていた。
綺麗、だ。あの頃よりも、確実に。
そう思うと、昨日見た夢を思い出す。小春の涙、と、夕貴の拳と、顔。そのときは驚きのあまり頭の中が白くなり、呆然と立ち尽くしていることしかできなかった。今なら、全てを知った今なら。俺は、どうするだろう。ふ、と目を閉じると、制服姿の小春が俺の目の前で笑っていた。——やめろ。嫌、嫌だ。
——君の笑顔を見ても、それが本当なのか見分けをつけられる自信がない。
「爽ちゃん?」
小春がもう一度俺の名を呼ぶ。爽ちゃん、か。
目を開けて彼女を見ると、その瞬間に彼女の顔が曇る。
「どうしたの? 顔色悪いけど」
小春が、俺の頬に手をやる。彼女は、心配そうに眉を寄せていた。ハッ、と息を飲み込むと、目を固く閉じた。その瞬間、目の前からも息を吸い込む音が聞こえた。きっとそれは小春。
「……爽ちゃん」
小さく、か細い声だった。頬に何かが触れた感覚はしない。目をゆっくり開けると、小春が顔を俯かせていた。頬の横にあった手のひらはいつの間にか下がっていた。
小春、と。無意識の間に、声を漏らしていた。言ってから後悔する。手を口元に当てた。テレビの中の新人芸人が、観客の爆笑をとっていた。
「爽ちゃん、私のこと嫌いになった?」
「……え」
「だって、私。だって、爽ちゃん、何も言ってくれないから。あの日から、ずっと」
小春のか細かったその声は、段々と強く震えるように変わる。彼女は、俯いた目線の先で、指先をいじっていた。
ぎゅう、と下唇を上の歯でかみ締める。それから、痛いほど高鳴る胸を押さえつけるように一つ咳払いをして、小春に向けて言う。
「夕貴みたいに、もっと分かってやれるやつだったら。ごめん、俺、お前のこと何も分かってなかった」
その声に反応して小春が顔を上げたのが分かって、その瞬間俺は彼女に押し倒される。ソファに倒れるつもりが、勢いあまり床に転げ落ちる。それでも小春は俺の肩を掴んで離そうとしない。押し倒された俺は、ただ苦笑するしかなかった。
「お前、いってえな……」
「夕貴とか、そんなん関係なくて! 爽ちゃんがいいの、爽ちゃんが好きなの!」
私が聞いているのはそんなことじゃなくて、とそれから少しして付け足した。
大きな涙が小春の瞳からこぼれて、俺の頬にかかる。それは、ひどく冷たかった。心臓はもうすでにおかしくなりそうなほど動いている。自分の心臓がどこにあるかはっきりと分かる。
——つけっぱなしのテレビは、もうお笑い番組は終わっていて、最近流行のドラマが始まっていた。
そのドラマは、悲しくて苦しい、悲恋の話で。俺は何故か、泣けなくて。
「好き……」
蚊が鳴くような小さな声の小春の言葉は、部屋の空気をフラフラと揺れて——消えた。小春が俺の肩から手を離す。一応起き上がるが、小春は俺の腰の位置に座って離れようとしない。
「でも」
——そうだ。
「もう、終わったことなんだ」
俺がそう言うと、小春は腹を立てたような、今にも泣きそうな、そんな表情を浮かべて、俺の顔を見つめた。
ごめん、小春。
心の中で何回も謝るけど、その繰り返しは俺の罪悪感を高めるだけだった。
小春は立ち上がると、玄関へと走り出す。おい、と声をかけそうになって、それを飲み込む。喉まで出かかったその言葉は、今言ってはいけない気がした。
バタン、と大きな音がする。あんなに大きな音を立ててドアを閉めたことはない。きっと、わざと小春がやったんだろう。
結局俺は、あの日から何も進めていなくて。ただ、罪悪感だけが俺の首を絞め続ける。
——そうだ。ふいに立ち上がって、部屋の押入れのダンボールを取り出して、中身をひっくり返す。……スケッチブック。それを開くと、ヒラリと一枚の紙が床に落ちる。
手に取って、心がドスンと重くなる。
あのとき描いていた君の絵。一枚の紙の中の君。もう絵の具でぐしゃぐしゃに塗りつぶされていて。黒に滲んだ絵の具の奥の君は、確かに笑っていた。
ごめん、と呟いた。
ごめんなさい。ごめんなさい。俺は、君に涙しか与えてあげられなかった。
*