複雑・ファジー小説
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.119 )
- 日時: 2015/11/24 18:25
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: gF4d7gY7)
†第三章†──永遠たる塵滓
第一話『禍根』
ファフリは、夢を見ていた。
ここのところ、頻繁に見る嫌な夢だ。
夢に繰り返し現れるのは、空から舞い降りてくる、小さな薄茶色の鳥であった。
鳥は、ファフリの傍に降り立つと、何をするわけでもなく、じっとこちらを見つめている。
ファフリは、その鳥を見返して、口を開いた。
「カイム……?」
鳥は、何も答えない。
ファフリは、きゅっと唇を引き結ぶと、眉を寄せた。
「ずっと私の中にいるの、貴方なんでしょう? どうしてこんなことするの……? 私の身体を、乗っ取ろうとしないで!」
身を乗り出して怒鳴ったが、やはり鳥は、何の反応も示さない。
それに苛立って、再び口を開こうとしたとき。
どこからか、ごうごうと流れる水の音が聞こえてきた。
途端、足元から一気に水が湧き上がってきて、あっという間に全身が水に飲まれる。
ファフリは、驚いて咄嗟に目を閉じたが、不思議と息ができることに気がつくと、恐る恐る、目を開けた。
そして、その異様な光景に、瞠目する。
(なに、これ……!)
ファフリの周囲に満ちた水は、おぞましいほどに、真っ黒であった。
それも、黒よりも深い、暗い暗い闇の色である。
訳もわからず、一体なんなのだと問うように、ファフリは鳥の方を見る。
すると、鳥が一声、クィックィッ、と鳴いた。
その時だった。
黒い水が、無数の顔を形成して、苦悶の声を上げ始めたのだ。
苦しい、助けてくれと口々に喘ぎながら、その目はファフリを凝視している。
ファフリは、あまりの恐ろしさに、涙目になって、再び鳥に視線をやった。
「やめて、やめてよ……! こんなもの見せて、なにがしたいの!」
耳を塞ぎ、何度も首を振りながら、その場にへたりこむ。
苦しい、助けてなんて言われても、自分には何もできない。
どうすればいいかなんて、分からなかった。
ファフリは、そうしてしばらく、何も見ないように、聞かないようにと身を縮こませていたが、やがて、辺りが静かになると、ゆっくりと顔を上げた。
いつの間にか、周囲に充満していた黒い水は、跡形もなく消え去っている。
鳥は、こちらに歩いてくると、ファフリをじっと見ながら、再度クィックィッと鳴いた。
ちょうどその時、ファフリは初めて、その鳥の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいることに気づいた。
「泣いてるの……?」
微かに目を見開いて、躊躇いがちに手を伸ばす。
鳥は、ファフリの手を一瞥してから、ぱちぱちと瞬きした。
そして、鳥の瞳から、ぽたん……と一粒の涙がこぼれ落ちたとき。
ファフリは、はっと目を覚ました。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.120 )
- 日時: 2015/12/06 12:19
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: bOxz4n6K)
ぼんやりとかすむ頭で、ゆっくりと目を開けると、天井の木目が目に入った。
つかの間、これまでのことは全てが夢で、自分はいつも通り城の自室で起きたのかと思ったが、車輪ががらがらと回る音を聞いて、自分は馬車に乗っているのだと気づいた。
確か、森の中にいたはずなのに、どうして馬車になんて乗っているのだろう。
不思議に思って、辺りを見回すと、窓から外を眺めているトワリスの姿に気づいて、ファフリは身体を起こした。
「……目が覚めた?」
トワリスが振り返って、こちらを見る。
ファフリは、小さく頷いて、トワリスの方に近づいた。
「……ここは……?」
「森を出たあと、ちょうどトルアノに向かうっていう商人の荷馬車が捕まったから、ついでに乗せてもらってるんだよ」
それを聞いて、ファフリは焦ったように目を開いた。
「嘘、私、そんなに寝ていたの……?」
トワリスは、くすりと笑って、首を振った。
「大丈夫、まだ二日も経ってないよ。急いだ方がいいって言うんで、森を早く抜けただけ」
その言葉に、ほっとした一方で、おそらく自分はユーリッドに担がれてきたのだろうと思うと、申し訳なさで胸が一杯になった。
旅に出てから、自分は誰かに迷惑をかけてばかりいる。
再び外を見ていたトワリスが、ぴくりと反応したとき。
馬車の前方にある扉がばたんと開き、麻袋を肩にかけたユーリッドが入ってきた。
ユーリッドは、ファフリを見てぱっと表情を明るくすると、すぐさまこちらに近寄った。
「ファフリ、おはよう! 良かった、目が覚めたんだな」
「……うん、ありがとう。気分も良いし、大丈夫よ」
微笑んでファフリが答えると、ユーリッドは、荷物を置いて、嬉しそうにはにかんだ。
「そっか、良かった! やっぱり、その耳飾りの効果なのかな」
ユーリッドがそう言うと、トワリスが苦笑した。
「さあ、どうだろうね。私はよく分からないけど……効いてるなら、貸した甲斐があったよ」
「ああ、きっとそうさ。本当にありがとな」
ユーリッドは、トワリスからファフリに視線を戻すと、耳に下がった緋色の耳飾りを指差した。
「それ、トワリスが貸してくれたんだ。魔力を制御する力があるから、きっとファフリの役に立つだろうって」
「……そう」
本当は、この耳飾りのことは、贈られた夜にユーリッド達の会話を聞いていたから、知っていた。
だが、それを口に出すことはせず、ファフリは、トワリスに向き直ると、穏やかな表情で言った。
「本当に、本当に……色んなことをしてくれて、ありがとう……」
「いいよ、気にしなくて」
トワリスは、少し照れたように肩をすくめると、ユーリッドと目を合わせて、安心したように息を吐いた。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.121 )
- 日時: 2015/12/10 18:54
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: bOxz4n6K)
いつの間にか、トワリスの中にあった躊躇いのようなわだかまりが、溶けて消え去っているように感じた。
ユーリッドとも、自分が眠っている間に随分と打ち解けたようで、安堵に似たものが胸の中に広がる。
しかし同時に、ファフリは、まるで自分が置いてきぼりにされているような気分になった。
(私だけ一人、足手まといだわ……)
悲しみのような、悔しさのような、暗い感情が湧いてくる。
だが、そう嘆く一方で、何を今更、と嘲笑う自分もいた。
足手まといもなにも、この苦しい旅路自体、全て己のせいじゃないか。
アドラが死んだのも、ユーリッドが怪我をしたのも、トワリスが巻き込まれたのも、全部自分が原因じゃないか、と。
こんな風に罪悪感に苛まれながら、辛い逃亡生活を送るくらいなら、あの時、父王リークスの思惑にかかって死んだほうが、良かったのかもしれない。
いや、きっと、死ぬべきだったのだ。
そうすれば、自分より遥かに強力な次期召喚師が生まれて、ミストリアだって安泰する。
こんなこと、自分のために命をはってくれた母やユーリッド、アドラやトワリスには絶対に言えないけれど。
それでも最近、悪魔に意識を乗っ取られている時以外に考えることと言えば、こうした、自分が生きていることへの後悔ばかりだった。
馬車の動きが徐々に緩やかになり、やがて止まったとき。
外の方から、何やら話し声が聞こえてきた。
トワリスは、窓から乗り出すようにして、外の様子を伺った。
「トルアノに着いたみたいだけど……なんか、もめてる」
「もめてる?」
ユーリッドが返答して、首をかしげる。
一体何をもめているのかと、聞こえてくる声に耳を澄ませたが、流石に馬車の中では、会話内容までは聞こえない。
三人は、仕方なく後ろ手に設置されている扉から、外へと出た。
馬車から出ると、トワリスの言う通り、馬車の持ち主である獣人と、トルアノの門番であろう獣人が、言い争っているようだった。
「だから、今あんたたちを街に入れることはできないんだよ! 悪いけど引き返してくれ」
トルアノの獣人が、苛立ったように言う。
どうやら、街に馬車を入れたくないということらしい。
それに対して、商人である獣人も、困惑した様子で言い返した。
「はあ? どういうことだよ。俺達は、何日もかけてトルアノを目指してきたんだぞ?」
「とにかく、今は駄目なんだ。帰ってくれ!」
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.122 )
- 日時: 2016/02/20 16:50
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
吐き捨てるようにそう言って、トルアノの獣人は、外郭の門を閉じた。
予想外の事態に、馬車の持ち主とユーリッドたちは、しばらく呆気に取られたように、門を見つめていた。
トルアノは、南大陸への関所に最も近い宿場町で、旅途中の商人や旅人からの宿代を主な財源としているような街である。
受け入れを拒否するなんて、聞いたことがなかった。
馬車の主人は、困ったようにため息をつきながら、ユーリッド達の方に戻ってきて、言った。
「なんだかよく分からんが……しょうがねえ。俺は西に少し戻って間宿を探すが、お前さんたちはどうする? また乗っていくかい?」
主人の問いかけに、ユーリッドは躊躇いがちに首を振った。
「……いや、いいよ。ここまでありがとう、おやじさん」
「そうかい。じゃ、あんたらの旅路に祝福を」
「ああ、祝福を」
主人は、かぶっていた帽子を軽く上げて見せてから、馬車に乗り込み、来た道を戻っていった。
「さて、今晩も野宿かなあ……」
疲れた様子でぼやいたトワリスに、ユーリッドが唸る。
まさかトルアノで受け入れ拒否を受けるなんて、想定外だったのだ。
こんなところで、足止めを食っている暇はないし、一刻も早く、南大陸に渡ってしまいたいのに。
ユーリッドの脇にいたファフリが、控えめな声で言った。
「……もう、関所まで一気に行くことはできないの? トルアノについたってことは、もう近いんでしょう?」
ユーリッドは、悩ましげに眉を潜めた。
「んー、まあ、それも手なんだけど……物資も補給しなきゃならないんだよ。食料なんて、ほとんど川に落ちたときに駄目になったし、南大陸に渡ったら、買い物なんていつできるか分からないからな」
背負っている軽い麻袋を揺らしながら、肩をすくめる。
そんなユーリッドを見ながら、ファフリも嘆息した。
トワリスは、先程トルアノの獣人が入っていった門を見つめて、一瞬腰の鉤縄(かぎなわ)に手をかけた。
トルアノの周囲には、外郭の壁が巡らされており、先程門の奥を見たところ、もう一つ壁が見えたから、内郭もあるのだろう。
しかし、その厳重さ故か、見張り自体は少ないように思える。
しかも、それなりに大きな宿場町のようだし、町民全員が顔見知りということもないだろうから、ファフリはともかく、やろうと思えば忍び込むことはできるかもしれない。
(……けど、侵入するのは得策とは言えないか……)
鉤縄から手を外して、トワリスは目を伏せた。
街の中に余所者を入れたがらないということは、何かが内部で起きているということだ。
その何かが分からない以上、侵入など試みるのは危険だろう。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.123 )
- 日時: 2017/08/14 23:18
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
トワリスは、二人に向き直った。
「とりあえず、物資がないのも問題だし、追っ手のことを考えると引き返してる時間もない。今は、トルアノの中で何が起きてるのか、調べるのがいいと思う」
トワリスの言葉に、ユーリッドが頷いた。
「ああ、そうだな。さっきの門番に、理由だけでも聞いてみるか」
「……さっき断られたばかりだから、取り合ってもらえるか分からないけどね」
ユーリッドは、トワリスの脇を抜けて、外郭の門の前に立つと、大声で言った。
「おい、誰かいるか!」
響いた声は、誰にも届かなかったのか、しばらく、辺りはしん、と静まり返っていた。
だが、ユーリッドが再び声を出そうとすると、ぎぎっと微かに音がして、門が拳一つ分ほど開いた。
「……誰だ」
鋭い声で、門の隙間からユーリッドを睨んだのは、先程の門番の獣人だった。
門番は、その目にユーリッドを映すと、苦々しげに言った。
「さっきの連れか。言っただろう、街には誰も入れられない。帰ってくれ」
「ちょっ、ちょっと待った!」
すぐさま閉じられそうになった門を、あと少しのところで押さえつけて、ユーリッドは身を乗り出した。
「なんで駄目なんだ。ここは宿場町だろう? 理由を聞かせてくれないか」
ユーリッドの言葉に、門番は、門を閉めようとした手を止めて、警戒した様子で口を開いた。
「……あんたたち、どこから来たんだ。王都か?」
「ああ、そうだ。ノーレントだ」
ユーリッドがこくりと頷くと、門番はすっと目を細めた。
「……そうか、じゃあやっぱり、中央と北大陸にはまだ伝染してないんだな」
「伝染……?」
訝しげに問い返すと、門番は、ユーリッドを睨むように見つめた。
「病だよ……南大陸からの。ついに、トルアノにまで発病者が出たんだ」
その言葉に、トワリスが反応した。
ノーレントまでの旅途中に知り合った、南大陸に渡ったと言う商人──ホウルの言葉が、脳によみがえる。
トワリスは、ユーリッドの横に駆け寄ると、門番にぐっと顔を近づけた。
「病って、どんなものですか? もしかして、虚ろな目をして、さまようようになるっていう……」
細まっていた門番の目が、はっと開かれる。
「し、知ってるのか、あんたら……」
門番は、次いで門を大きく開けると、ユーリッドとトワリス、そしてその後ろに控えていたファフリを見つめた。
そして、ユーリッドの腰にある剣を見て、顔色を変えた。
「あんたたち、もしかしてミストリア兵団から派遣された兵士なのか!? そうなんだろう! そうだと言ってくれよ!」
門番は、突然すがるようにユーリッドの胸元に掴みかかると、必死の形相でそう言った。
ユーリッドは、一瞬たじろいで、否定の言葉を述べようとしたが、すぐに口を閉じて、ちらりとトワリスを見た。
この門番の態度を見るに、兵士だと名乗れば街に入れてもらえるかもしれない。
トワリスも、同じことを考えているようだった。
ユーリッドは、ごくりと息を飲んで、門番に視線を戻すと、ゆっくりと頷いた。
「……ああ、そうだ。俺達はミストリア兵団から派遣されてきた」
途端、門番はその場に崩れ落ちて、震えながら涙を流した。
「ああっ、ありがとう、ありがとう……! てっきり、もう見捨てられたのかと思っていたけど、ちゃんと、文書は王都に届いていたんだ……!」
手を合わせて、門番は何度も何度もユーリッドたちに頭を下げる。
その光景に、三人は顔をしかめて、思わず顔を見合わせた。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.124 )
- 日時: 2016/01/04 00:31
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: WO7ofcO1)
* * *
最後に一口、残っていた猪肉の角煮を口に放り込むと、ユーリッドはため息をついた。
こんなに豪華な食事をしたのは、旅に出て以来初めてで、疲れきった身体は、大いに満足している。
しかし、自分は兵士だという嘘をついたがために得たこの贅沢は、なんとも受け難いものであった。
(まさか、こんな優遇されるとはなあ……)
ユーリッドは、居心地が悪そうに頭を掻いて、崩していた足を正し、再び座り直した。
門番に泣きつかれた、あの後。
結局ユーリッド達は、街に引き入れられ、頼んだ旅支度を整えてもらった上に、宿まで用意してもらった。
それも、旅人用の安宿とは思えない、食事から寝床の世話まで全てしてくれるような、上客用の宿である。
流石、ミストリア屈指の宿場町というだけあって、届いた保存食や装備なども、かなり充実したものであったし、正直、予想以上の待遇に助かった点も多々ある。
だが、それで素直に喜ぶほど、ユーリッドたちは楽観的ではなかった。
(このまま関所に送り出してもらえるとは、思えないな……)
ユーリッドは、小さく嘆息した。
トルアノは本来、旅人や商人たちの行き交う、賑わいのある街である。
それなのに、今のトルアノは、まるで死んだように静かだった。
もちろん、来た者を拒んでいるから獣人が少ない、という理由もあるのだろうが、それだけじゃない。
町民ですら外には出ず、塞ぎ混んだように部屋に閉じ籠っているのだ。
その原因は、門番の言っていた病で、間違いないだろう。
そう考えれば、兵団が派遣されたと聞いて、門番が目の色を変えたのも頷ける。
兵士ならば、蔓延している病のことを召喚師リークスに伝えることができ、そうすれば、勅令で医師団が動くからだ。
ユーリッドは、横に座って、同じく浮かない表情で食事をしているファフリとトワリスの方に向いた。
「……なあ、街に入れてもらったのはいいけど、どうする? 兵団から派遣されたなんて嘘だし、もし何かあったら……。街の獣人たちには悪いけど、こっそり抜け出すか?」
ユーリッドは、周囲を窺いながら、小声でそう言った。
すると、トワリスが箸を置いて、首を横に振った。
「……旅支度もしてもらったし、賛成したいところだけど……ごめん。その病とやらを、調べたいんだ。私は残るよ」
それを聞いて、ファフリが首をかしげた。
「……トワリスは、その病のことを知ってるの? なんだか、症状のこととか、知っているような口振りだったけど……」
トワリスは、少し困ったように口を閉じて、黙りこんだ。
今更、ファフリやユーリッドを信用していない、なんてことはない。
しかし、自分がサーフェリアから来たこと、サーフェリアに襲来したあの虚ろな目の獣人と、ホウルの言っていた南大陸の病に関係があるのか調べていることなどは、言う気にはなれなかった。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.125 )
- 日時: 2017/08/14 23:32
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
三人の間に、しばらくの沈黙が流れる中。
不意に、失礼します、という声が壁越しに聞こえてきて、部屋の襖が開いた。
入ってきたのは、宿の従業員らしき女たちと、腰の曲がった老いた獣人であった。
女たちは夕食の乗った盆を片付けた後、すぐさま部屋を出ていったが、老いた獣人は、部屋に残った。
上品に薄黄色の髭を整えている狐の獣人は、曲がった腰を庇いつつ、ゆっくりとその場に正座をする。
「兵士様、よくぞお越しくださった。私は、トルアノの町長、トバイと申します。長旅でお疲れでしょう。今宵はこちらで一夜、ごゆるりとお過ごしください」
そう言って、深々と頭を下げたトバイに、ユーリッドは眉を下げた。
「いや、あの……色々と良くしてくれて、ありがとうございます。ただ、急ぎの旅なので、出来れば明日の早朝にはもう出発したいのですが──」
「明日ですって?」
トバイは、長い眉毛を押し上げるように目を開くと、がばりと顔をあげた。
「そんな、明日だなんて。兵士様は、召喚師様のご命令で、病人の様子を見にトルアノに派遣されたのではないのですか? 文書は、召喚師様に届いたのではないのですか?」
捲し立てるように言って、トバイはユーリッドに顔を近づけた。
すると、その傍らにいたファフリが、すかさず口を開いた。
「門番の方も、そう言ってましたね。その文書というのは、リークス王に宛てたものなんですか?」
落ち着き払ったファフリの声に、トバイも幾分か興奮をおさめた様子で、答えた。
「……そうです。トルアノに例の病人が出てから、我々はもう何通も召喚師様に文書と使いの者を出しています。トルアノの医術師では対処できませぬから、どうにかして頂きたいと。しかし、返事はおろか、どなたも派遣される様子がない。一度、兵士様がその役を申し出て下さったこともあったのです。それなのに……何故、召喚師様はお応え下さらないのか。我々も、どうすれば良いのか分からず……」
「兵士? トルアノに常駐の兵士なんていましたか?」
ユーリッドが問うと、トバイは小さく首を振った。
「いえ、宿泊されていた方が申し出て下さっただけで、正確には分からないのですが……貴方のその、紋様の彫られた剣の柄。それと同じようなものを、お持ちになっていたので、ミストリア兵団の方かと思いまして」
「……なるほど」
ユーリッドは、返事をしながら、思わずどきりとして、剣の柄を握りこんだ。
この柄の紋様は、確かにミストリア兵団の証であるし、それを持っていたというのなら、トバイの言う通り、その獣人は兵団の者だったのだろう。
しかし、実はユーリッドのもつ柄の紋様は、一般のものとは違い、現在は使われていないものだ。
ユーリッドの剣は、かつて兵団長であった父の形見であり、通常より複雑に彫り込まれているのである。
一見変わらないように見えるが、よく柄の部分を見ていた者が見れば、ユーリッドが兵士ではないと気づいてしまうだろう。
ユーリッドは、気を取り直してから、トワリスの方を一瞥して、トバイを見た。
「トバイ町長、俺たちはまだ下級兵ですから、召喚師様にトルアノの文書が届いたのかどうか、分かりません。でも、病人の様子を俺達にも見せてください。さっきも言った通り、急いでいるので、今お願いします」
今、という言葉に焦ったのか、トバイは一瞬、戸惑った顔をしたが、すぐに安心したような表情になった。
これで、病人たちの情報がノーレントに届くと思ったのだろう。
そんな彼の様子に、ひどく罪悪感を感じながら、ユーリッドは病人たちの元に案内するよう、トバイに言った。
病について調べても、召喚師に伝えることなど、今のユーリッドたちには出来ない。
それでも、この場を切り抜けて南大陸に渡るには、こうする他なかったのである。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.126 )
- 日時: 2016/02/20 17:22
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
荷物を持ち、一度宿の外に出ると、ユーリッドたちは小さな石造りの建物に案内された。
その建物には、入口が一つしかなく、窓などもなかったので、中は外の夜闇よりもずっと暗かった。
二重になっている扉の、一つ目を開けたとき。
トバイが、懐から布を三枚取り出して、それで口元を覆うように、ユーリッドたちに指示をした。
ユーリッドたちは、大人しくそれに従うと、トバイに促されて二つ目の扉を開け、部屋に入る。
部屋の中は、壁に数ヵ所配置されている燭台の明かりしかなく、随分と薄暗かった。
だから、目が慣れるまでは、床に何人横たわっているのか、よく分からなかった。
トバイが持っていた手燭を翳すと、茣蓙(ござ)の上に寝かされている二人の獣人が、ぼんやりと闇に浮かび上がる。
茣蓙に寝かされている獣人の内、一人は、まだ二十歳にも満たないだろうという若者だった。
彼は、目を閉じたまま微動だにせず、その微かに開いた口は、生者のものとは思えぬ、虚ろな穴のようだった。
その奥に寝ているもう一人の獣人は、肩の辺りまで毛布ですっぽりと覆われており、どのような状態で寝かされているのか、はっきりとは分からない。
しかし、唯一出ている顔は、まるで火傷を負ったように崩れていて、目鼻立ちすらはっきりとしていなかった。
トバイは、口に当てた布を更に手で押さえながら、くぐもった声で言った。
「最初に感染したのは、この奥にいるシュテンという炭鉱夫です。彼は出稼ぎに南大陸に渡り、帰ってきた数日後、突然倒れ、そのまま動かなくなりました。息はしていますが、まるで全身の皮膚が溶けるかのように崩れ始め、今ではこのような有り様です。こちらのカガリという少年は、南大陸には行っていません。五日前に、近くの川に釣りに行って、帰ってきたときには症状が現れていました」
トバイは、静かにユーリッドたちに向き直った。
「シュテンとカガリに、接点はありません。手掛かりが少なすぎて、我々にはどうすることもできませぬ。この原因不明の病が伝染性のあるものなのか、それとも何か他に要因があるものなのか、それすらも分かりません。けれど、病が南大陸から徐々に北上し、このトルアノを侵食し始めていることは事実です」
トワリスは、じっとカガリの顔を見て、それから爛れたシュテンの顔を見つめた。
「症状は、倒れて動かなくなること、皮膚が崩れること、それ以外にはありませんか?」
トワリスの問いに、トバイが口を開こうとすると、足元の暗がりから別の声が聞こえた。
「……いいえ、時々、何かを思い出したように起き上がりますわ」
答えたのは、トバイではなく、カガリに寄り添うようにうずくまっていた、一人の中年の女性であった。
闇に紛れていてよく見えていなかったが、どうやら、トワリスたちが部屋に入ったときから、カガリに付き添っていたようだ。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.127 )
- 日時: 2016/02/20 17:24
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
トバイが、カガリの母親です、と告げてから、彼女の肩に手を置く。
すると、目の下に色濃い隈のできたその女性は、掠れた声で続けた。
「普段は、声をかけても、何をしても、死んでしまったように全く動かないんです。けれど、時々起き上がって、まるで何かを探しているかのように歩き回り、しばらくしたらまた倒れて、動かなくなるんです。その時のこの子の目には、生気もないし……カガリとは別人のようで……。もう、私、どうしたらいいか……」
カガリの母は、そう言って両手で顔を覆うと、涙を流す。
トワリスは、その様子を眺めながら、目を細めて再びカガリを見た。
幽鬼のようにさまよう、という証言は、完全にホウルと一致しているから、やはりこの病は南大陸で流行っているものと同一なのだろう。
そして、この病は徐々に南大陸から北にまで広がっている。
ここまでは、間違いなさそうである。
しかし、この病にかかった獣人が、サーフェリアに来ていた獣人と同じなのかどうか、根本的なところがまだ、トワリスの中では引っ掛かっていた。
(普段は全く動かない、ということは、サーフェリアに来ていた獣人とは違うのか……?)
じっくりと記憶を探りながら、ホウルの言葉や、サーフェリアに現れた獣人の様子を思い出す。
皮膚が爛れるという症状が、末期のものであるとして、サーフェリアではその症状が出る前に捕獲して処刑していたと考えれば、そこの相違点は解決できる。
だが、サーフェリアに来ていた獣人は、こんな穏やかなものではなかった。
常に徘徊し、出会い頭に襲ってくるような、そんな状態だったのである。
幽鬼のよう、死人のようという点では一致しているが、このシュテンやカガリと同じ獣人だとは、思えなかった。
(……とにかく今は、まだ判断材料が少なすぎる)
トワリスは、壁にかかっていた燭台の一つを取り外し、蝋燭の炎をカガリの顔に近づけると、トバイに視線をやった。
「少し、調べさせて頂いても良いですか?」
「え、ええ、それは、もちろん……」
トバイは言ってから、なにか困った様子で口ごもった。
「し、しかし……この部屋に長時間いるというのは……」
伝染性の病だったら、移るかもしれない。
トバイの言いたいことは、これだろう。
身内のこととはいえ、奇病の危険に晒されるというのは、誰でも恐ろしいはずだ。
すぐにそう察すると、トワリスはなるべく柔らかな口調で言った。
「……そうですね。では、お二人は外に出ていて下さい。調べるのは、私達だけでやりますから」
「……ですが……」
トバイは、一度躊躇ったように俯いて、カガリの母と顔を見合わせた。
だが、やがて、ふと顔をあげると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……わかりました。私達は、この石室の外におりますので、何かあればお申し付け下さい」
「はい、ありがとうございます」
トバイとカガリの母は、再び深々と頭を下げると、静かに石室から出ていった。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.128 )
- 日時: 2016/01/10 21:20
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: 3KWbYKzL)
それを見届けてから、トワリスは腕捲りをすると、今度はシュテンの方を見る。
そして、シュテンを覆っていた毛布をゆっくりと取り上げると、燭台の明かりで彼の腹部を照らした。
(これは……!)
思わず顔をしかめて、トワリスは後ずさる。
シュテンの腹の表皮は、顔面以上に溶け出しており、まるで酸でもかけられたかのように、筋骨がむき出しになっていたのだ。
この光景には、トワリスの後ろにいたユーリッドやファフリも、はっと息を漏らした。
「なんだよ、これ……本当に生きているのか……?」
ユーリッドの言葉に、トワリスはシュテンの口元に手をかざす。
すると、トバイたちの言う通り、確かに呼吸が感じられた。
こんな状態で生きているなんて、信じられない。
この病に冒された生物たちがうろついているというなら、南大陸でホウルが恐ろしさに震えていたのも、確かに頷けた。
「……生きてるよ、信じられないけど」
強ばった声でそう答えると、ユーリッドが眉を寄せた。
「こんな病が、南大陸では流行ってるのか。……奇病が蔓延してるのは聞いてたけど、まさかこんな……」
戸惑いを隠せない様子で、ユーリッドが言う。
トワリスも、額にじっとりと汗がしみ出してくるのを感じながら、ただひたすら、シュテンを見つめていた。
サーフェリアに襲来した獣人と、この病には何かしら関係がある。
そう確信してここまで来たが、謎に包まれている部分が多すぎて、今はまだなにも判断できなかった。
ただ、サーフェリアに襲来した獣人たちは、腕を切り落とそうが、足の骨を砕こうが、動ける限りは向かってきた。
もし、この病の特徴として、痛みを感じなくなる、異様に創傷に対して強くなる、といったものがあるなら、シュテンがこのような状況下で生きていることも頷けるし、何より、先程カガリの母が言っていた、“何かを探しているかのようにさまよう”という言葉が気になる。
獣人たちは、何故サーフェリアでは凶暴化しているのか。
そもそも、この病は一体何が原因なのか。
サーフェリアでは感染者が出ていないことと、カガリとシュテンには接点がなかったことなどから、この病に伝染性がある可能性は低いと予想しているが、正直、それ以外は何も分からない。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.129 )
- 日時: 2016/03/16 01:37
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
トワリスが考え込んでいると、不意に、ユーリッドが何か気づいたように、シュテンに近づいた。
「……なんか、不思議な臭いがしないか?」
「え……?」
言われてみて、トワリスもシュテンに鼻を近づけてみる。
しかし、これといって変わった臭いは感じられなかった。
「臭いって、どんな?」
「なんていうか、鼻がつん、とするような刺激臭……。とりあえず、身体からするような臭いではないよ」
トワリスは、再び臭いを嗅いでみたが、やはり刺激臭らしきものは感じなかった。
しかし、完全な獣人であるユーリッドの方が嗅覚は優れているだろうし、よく考えてみれば、これといって臭いが感じられないというのは、確かにおかしいのだ。
獣人ほどの嗅覚がなくても、酷い火傷のような皮膚を持つ病人がいれば、多少なりとも体液の臭いや、傷が腐敗するような臭いがするものだ。
それに、傷が膿んでいれば、蛆(うじ)だって涌くはずである。
こういった石室は虫が涌きにくいけれども、トバイ等の様子を見る限りでは、このトルアノの獣人たちが日々熱心にこの石室に通いつめて、シュテンの傷口に消毒を施しているとは思えない。
むしろ、病が移ることを恐れて、敬遠しているように見える。
だから、決して衛生的とは言えないこの状況で、シュテンからなんの臭いもせず、虫も涌いていないというのは、何か不自然だった。
ファフリは、話し込むトワリスとユーリッドを横目に、息もできず、横たわるカガリとシュテンを見つめていた。
間宿で闇市を訪れた時にも感じた、哀しさに似た何かが、胸に込み上げてくる。
こんなほの暗い世界は、見たことがなかったし、聞いたこともなかった。
十六年間、国の頂点となるべき次期召喚師として生きてきたのに、全く知らなかったのだ。
「……ひどいわ、こんなの」
気づくと、その思いが口を突いて出ていた。
ファフリは、こちらに振り向いた二人を見つめて、か細い声で言った。
「……どうして、お父様は動かないのかしら。こんな恐ろしい病気、放っておいて良いはずがないのに」
ユーリッドが、俯いて言った。
「トルアノについては、文書が届いてないって可能性もあるけど……。でも、少なくとも南大陸でこの病が流行っていることは、ノーレントにも知れ渡っているし、なんの対策もとろうとしてないっていうのは、実際おかしいよな」
「ええ……。治療法が、見つからないのかな」
目を伏せて、悲しそうに言ったファフリに、トワリスは冷静に告げた。
「医師や兵団を、南大陸に派遣してすらいないんだ。治療法を見つけようともしてないって可能性が高い」
ファフリが、はっと顔をあげる。
トワリスは、声もなくこちらを見つめてくるファフリに、淡々と返した。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.130 )
- 日時: 2016/02/20 17:29
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
「……見離そうとしてるのかもしれないよ。ハイドットのこともあるから、南大陸を棄てるようなことはないだろうって思ってたけど、想像以上にハイドットは王都周辺で普及しているみたいだし……。なるべく、病の蔓延は南大陸だけに留めて、極力被害を拡大しないようにと考えてるのかも」
「なっ……でも、南大陸に住んでる獣人だっているんだぞ?」
目を見開いて声をあげたユーリッドに、トワリスは視線を移した。
「そうだろうけど、こんなのよくある話じゃないか。原因不明の奇病を、一から調査して解明しようだなんて、簡単に出来ることじゃないんだ。それに、南大陸に兵団がいなくなった理由も、こういった背景が原因だと考えれば──」
「そんなはずないわっ!」
トワリスの声を遮って、ファフリが声を荒げる。
驚いて、弾かれたようにこちらを向いたトワリスを見つめながら、ファフリは深く息を吸って、続けた。
「そんなはず、ないわ……。だってお父様は、何よりも国民を想ってる方ですもの……。ご自分の命よりも、家族よりも、ミストリアを大切に考えてる。だから……」
声を震わせて言ったファフリの言葉に、トワリスは、胸の中に強い後悔が沸き上がってくるのを感じた。
つい考えもなしに言ってしまったが、この国の王と言えば、ファフリの父親である。
自分の命を狙っているとはいえ、父親を貶(けな)されるというのは、ファフリにとって気分の良いものではなかったのかもしれない。
「……ごめん、ファフリ」
謝罪したトワリスを一瞥して、ユーリッドは、ファフリを見た。
ファフリは、トワリスに対して何か返事をしようとはしなかったが、彼女を責めたことを悔いているような、複雑な表情を浮かべている。
(ファフリは、陛下をかばうんだな……)
なんとなく、そう疑問に思った。
娘を役立たずだと殺そうとしている相手でも、かばうだなんて、ファフリらしいといえばファフリらしいが、何故だか違和感は拭えない。
少なくとも、ユーリッドの中では、リークスを恨む気持ちの方が、ずっと大きかった。
ファフリは、しばらくの間黙ったままでいたが、やがてトワリスとユーリッドを交互に見ると、小さな声で言った。
「ご、ごめんなさい、感情的になって……トワリスは、悪くないわ」
ファフリは目を閉じ、己の肩を抱いた。
そしてぶるりと震えると、微かに目を開いて、再びカガリとシュテンを見た。
「……私は、次期召喚師なのに、何もできないのね。それどころか、つい最近まで、ミストリアはお父様に守られた平和で安全な国だなんて、思い込んでたわ」
ぽつりと呟かれたその言葉に、トワリスもユーリッドも、何も返事ができなかった。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.131 )
- 日時: 2016/02/20 17:33
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
その沈黙が、肯定の意味に聞こえて、ファフリは余計に悲しくなった。
分かっていた。
トワリスやユーリッドには、返事のしようがないことなど。
結局、リークス王に追われる身では、どうすることもできないのだ。
ファフリは、壁にかかっている燭台を見て、そちらのほうに静かに手を伸ばした。
「せめて……もっと暖かくて明るい部屋にしてあげればいいのに……。こんな寒くて狭い部屋じゃ、カガリさんもシュテンさんも、可哀想よ」
そうして、ファフリが微かに魔力を放出させると、ぽわっと燭台の炎が強まる。
──と、その時だった。
だんっ、と凄まじい音がして、突如黒い影のようなものが、ファフリ目掛けて跳ね上がった。
咄嗟に反応したユーリッドは、その影の姿をとらえられないまま、ファフリの前に立つと、すんでのところで影を鞘(さや)で殴り付けた。
石床に叩きつけられた影が、ゆらりと立ち上がるのを睨みながら、対峙(たいじ)する。
その瞬間、ユーリッドは驚愕して、一瞬動けなかった。
その影は、先程まで微動だにしていなかった、シュテンだったのである。
シュテンは、もはや骨格に近い身体で、再びユーリッドに襲い掛かってきた。
ユーリッドは、反射的にシュテンの懐に潜り込むと、拳で鳩尾(みぞおち)をついたが、拳はずぶっとシュテンの腹部に沈む。
まるで、内臓の隙間に直接手を突っ込んだような感覚だった。
驚いたユーリッドが、一瞬怯んだ瞬間に、シュテンは信じられぬ身軽さで宙に飛び上がると、ファフリに向かって身体の向きを変える。
ファフリは、咄嗟に震える指先を翳(かざ)して、魔力を練り上げようとしたが、焦りからか頭が真っ白になって、呪文を紡ぐことが出来なかった。
獣人というより、もはや獣そのもののような唸り声をあげて、シュテンはファフリに飛びかかる。
ユーリッドは、瞬時に方向転換すると、思い切り床を蹴りあげて、シュテンの頭を再び鞘で打った。
力の加減は、あまりできなかった。
場合によっては、死んでしまうかもしれないような力で、頭部を打ったのだ。
少なくとも、脳震盪(のうしんとう)を起こしてシュテンは動けなくなるだろう。
そう踏んで放った攻撃であったのに、刹那、ユーリッドは、あまりの出来事に、言葉を失った。
壁まで吹っ飛ばされたシュテンは、打たれた衝撃で歪んだ頭蓋を起こして、何事もなかったかのように立ち上がったのである。
「なっ、なんで……!」
慌てたように後退して、ファフリをかばうように立つ。
鳩尾を殴られ、頭部も歪むほど打ち付けたというのにまだ動けるなんて、生き物とは思えなかった。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.132 )
- 日時: 2016/03/16 01:42
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
同じく、何が起きているのか理解できずにいたトワリスは、しかし、満身創痍の状態で身を起こしたシュテンに既視感を覚えて、目を見開いた。
(サーフェリアにいた獣人と同じ……!)
虚ろな目、痛みを感じていないかのような動き。
横たわっている時では確信できなかったが、今のシュテンは、まさしくサーフェリアに襲来した獣人と同じ様だった。
一体、何がシュテンを起き上がらせたのだろう。
トバイやカガリの母は、確かに、普段はほとんど動かないのだと言っていた。
それなのに、彼が突然、こんなにも凶暴化した原因はなんなのか。
必死になって頭を回転させていると、ふと、ルーフェンの言葉を思い出して、トワリスは瞠目した。
そして、先程ファフリが炎を強めた燭台を一瞥すると、叫んだ。
「ファフリ! 魔力を抑えて!」
びくっと反応したファフリが、高めていた魔力を収束させる。
それと同時に、トワリスが魔力を放出させると、途端に、シュテンがぎろりとこちらを睨んで飛びかかってきた。
(やっぱり……!)
予想通りの事態に、トワリスは燭台の火を消して投げ捨てると、向かってきたシュテンと対峙した。
シュテンは、凄まじい早さで跳ね上がると、鋭い爪を立ててこちらに突っ込んでくる。
トワリスは、あまりの攻撃に、身を捩って避けるのが精一杯だった。
シュテンが勢いそのままに、壁に激突したのを確認すると、トワリスは双剣を構えた。
「こいつ、魔力に反応してるんだ! ファフリ、魔術は使わないで」
そう言い放つと、ファフリはこくこくと頷く。
ユーリッドは、トワリスのほうに駆け寄ると、抜刀せずに鞘を構えた。
「どうなってるんだ、全然攻撃が効かないぞ」
信じられないといった声音でそう言うと、同じく切迫した声で、トワリスが返した。
「中途半端な攻撃は効かないんだ。やるなら、私が魔術で一撃で殺すしか……」
「こ、殺すって……」
戸惑ったように返事をして、ユーリッドは眉を寄せた。
そんなことを言っても、あくまでシュテンはトルアノの住人なのだ。
殺すことはもちろん、傷つけることですら、躊躇うに決まっている。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.133 )
- 日時: 2016/01/28 23:33
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: 3KWbYKzL)
額に汗が滲んで、ぐっと剣を握りしめたとき。
殺気とは違う、恐怖に近い何かを感じて、ユーリッドとトワリスは同時に振り返った。
シュテンとは別の影が、トワリスの方へ突進してくる。
──カガリだ。
トワリスは、危ういところで後ろに反転すると、カガリの爪を避けた。
しかし、着地した瞬間、背後からシュテンの鋭い蹴りが入り、背中に激しい衝撃がくる。
息の詰まるような痛みに、思わずその場に踞(うずくま)った。
ユーリッドは、そのままトワリスに殴りかかったシュテンに、回し蹴りを放ったが、今度はユーリッドの足元からカガリの腕が伸びてきて、その手がユーリッドの首を掴む。
ユーリッドは、渾身の力を込めてカガリの腕を両手で絞り上げると、先程シュテンを蹴り飛ばした方向に、カガリを投げつけた。
げほげほと咳き込んで、ユーリッドは、躊躇いがちに剣を鞘から引き抜こうと、手をかけた。
カガリやシュテンを、殺したくはない。
しかし、このままでは埒があかない。
関節が変に折れ曲がったまま、尚も操り人形のようにシュテンとカガリが起き上がった瞬間、石室の扉が開いて、トバイとカガリの母が入ってきた。
「へ、兵士様、どうなさったんですか? なにかすごい物音が……」
驚いたようにそう言って入ってきた二人は、扉の近くにいたファフリ、そして奥のほうにいるトワリスとユーリッドを見た後、最後に、豹変した様子のシュテンとカガリに視線をやって、瞠目した。
「カ、カガリ……?」
カガリの母が、掠れた声で問いかける。
何も見えていないような血走った目で、牙を向くカガリは、もはや化け物だとしか言い様がない。
ぎろりと、カガリの顔がトバイと母のほうに向いた時、ファフリは、心臓が止まりそうなほどの恐怖を感じた。
しかし、トワリスとユーリッドは、入口とは離れたところにいる。
「部屋から出てっ!」
トワリスの叫び声が聞こえた刹那、ファフリは、震えた足で石床を蹴りつけると、硬直しているトバイとカガリの母を、力一杯扉の外へ押しやった。
だが、矢の如く襲い掛かってきたカガリの爪は、振り返った時には、既に喉元まで迫っていた。
死──。
その一文字が脳裏を過った瞬間、ぎゅんっと大気を割く音がして、生暖かい何かが、ファフリの身体に降りかかった。
同時に、ぼたりと何かが落ちる音がして、恐る恐る目を開けると、頭から刀身を生やしたカガリが、石床の上でびくびくとのたうっているのが見える。
ファフリの身体についたのは、カガリの血だった。
ユーリッドが、咄嗟にカガリに向かって、剣を投げたのである。
頭を貫かれたカガリは、流石に、すぐには起き上がらなかった。
その隙に、トワリスは壁の燭台を二つ取ると、一つはカガリに、もう一つを壁際にいたシュテンに投げつけて、瞬時に魔力を高めた。
炎がばっと勢いを増して、カガリとシュテンは微かに悲鳴を上げたが、すぐに灰になった。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.134 )
- 日時: 2016/02/20 17:38
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
カガリの母は、目の前で息子が燃えていく様を、呆然と見ていた。
最初は、戸惑いと混乱に満ちた表情を浮かべていたが、やがて、残ったのが灰とユーリッドの剣だけになると、瞳の奥に深い絶望の色を滲ませた。
「カガリ……?」
か細い声で呟いて、ゆっくりと顔を上げる。
その色を失った瞳と目が合って、ユーリッドは、動けなくなった。
「あ……」
声が出て、ユーリッドは、一度自分の手を見てから、灰になったカガリを見た。
カガリの頭を貫いたのは、自分だった。
「お、俺……」
胸に、ぞわりと冷たいものが込み上がってくる。
ふらりと立ち上がったカガリの母から、目が離せなかった。
「な、何で、兵士様……。息子を……」
カガリの母は、ぽつりと呟くと、ファフリを押し退けてユーリッドの剣を見た。
そして、その柄に入った紋様を見て、言った。
「……違う……。兵士様の……兵団の剣じゃない……」
「え……?」
その言葉には、トバイも思わず身を乗り出す。
ユーリッドは、全身に冷たい汗がどっと噴き出してくるのを感じた。
「どうして……貴方達、兵士様じゃないの……?」
カガリの母は、そう言いながらユーリッドを見つめると、瞳の色を怒りに変える。
ユーリッドは、何も言うことができず、ただその場に立ち尽くしていた。
「この……っ、よくも、カガリを……!」
ユーリッドの剣を両手で持つと、カガリの母は、悲痛な叫びをあげてユーリッドに切りかかる。
拙い剣捌きだったが、ユーリッドには、避けられる気がしなかった。
トワリスは、動く気配のないユーリッドを見て、咄嗟に前に出ると、向かってきたカガリの母のうなじに手刀を叩き込んだ。
気を失ったカガリの母が、石床に崩れ落ちる。
次いで、トワリスは置いていた荷物を背負い、素早く剣を拾ってユーリッドに押し付けると、早口で言った。
「逃げるよ」
ユーリッドは、反応しなかった。
目を見開いまま、微かに手を震わせて、じっとカガリの母を見ている。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.135 )
- 日時: 2016/02/04 10:29
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: PNMWYXxS)
トワリスは、小さく舌打ちすると、ぱんっとユーリッドの頬を平手打ちした。
「ユーリッド!」
その鋭い声音に、ユーリッドが、はっとトワリスを見る。
それを確認すると、トワリスはユーリッドの手を強引に引き、ファフリにも声をかけて、腰を抜かしたままのトバイの脇を通り石室から走り出た。
石室の中が暗かったせいか、外に出ると、ぽっかりと夜空に浮かぶ月の明かりですら、ひどく眩しく感じる。
三人は、石室から飛び出して、周囲に獣人がいないか見回すと、内郭の壁際まで走った。
それから、トワリスは腰に装備してある鉤縄を手にすると、慣れた手つきで荷物を自分の身体に巻き付ける。
「こ、これからどうするの……?」
「トルアノから逃げるよ。このままじゃ私達、兵士と偽って病人を殺した殺人犯だ」
まさか、諸々の事情をトルアノの町民たちに説明して、誤解を解くというわけにもいかないし、今は逃げるしかないだろう。
トワリスは、内郭の高さを目測しながら、早口で言った。
「ユーリッド、私は荷物を持つから、あんたはファフリを背負って」
「…………」
ユーリッドから、返事はなかった。
トワリスとファフリが彼のほうに振り返ると、ユーリッドは、未だ混乱した様子で放心している。
一般の国民であるカガリを刺したことに、動揺しているのだ。
トワリスは、ぎゅっと拳を握りこんでから、ユーリッドの胸倉を掴み上げた。
「しっかりしなさい! 奇病について調べたいって言ったのも、カガリを殺したのもあんたじゃない、私だ! それに、あんたがカガリに剣を投げなきゃ、ファフリが死んでたんだ。狼狽えてるんじゃない……!」
そう強く怒鳴り付けて、トワリスは勢いよく手を離す。
すると、ユーリッドは、辛そうに表情を歪めて、黙ったままうつむいた。
ファフリは、そっとユーリッドの肩に手を置くと、柔らかい声で言った。
「……ユーリッド、私のこと、守ってくれてありがとう。……ごめんね」
ユーリッドは、ゆっくりと顔を上げると、しばらくファフリの顔を見つめていた。
しかし、やがてきつく唇を噛むと、大きく息を吸った。
「ごめん……」
ユーリッドはそう言うと、ファフリを横抱きにして抱えた。
それに対し、トワリスは頷きを返すと、鉤縄の鉄鉤(てつかぎ)を内郭の頂上へと放った。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.136 )
- 日時: 2016/03/02 17:03
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
* * *
ミストリアの国王、召喚師リークスの御座(おわ)す玉座の間には、その両側の壁面に沿ってびっしりと、数多くの兵士達が配置されていた。
また、入り口に二人、玉座の御簾(みす)の手前にも一人、手練れの兵士を置いており、まさに虫一匹の侵入も許さぬような、厳戒体制をとっている。
だが、部屋の真ん中に突如として現れたその侵入者に、対応できた者は、誰一人として存在しなかった。
御簾の向こうに、ミストリアの宰相キリスと共に座っていたリークスは、まるで床から湧いたように現れた侵入者の気配を、いち早く感じ取った。
しかし、侵入された時点で大失態だったというのに、気づいた頃には、もう遅かった。
部屋の中心に現れた、獣人ではない侵入者に、兵士達は驚いたが、すぐさま各々の腰の剣を抜き放ち、一斉に斬りかかった。
──が、その剣先が侵入者に届くことはなく、次の瞬間、その場にいた全ての兵士が、同時にのけぞって倒れこむ。
そして、びくびくと痙攣を起こし、もがくように手足を宙で動かすと、やがて、口から泡を噴き出して死んだ。
唯一、斬りかかることなく、リークスの側に控えていた兵士──ミストリア兵団の副団長は、その一瞬にして起きた地獄絵図のような光景に、思わずたじろいだ。
しかし、剣を構えると、円状に積み重なる兵士達の屍の中心にいる侵入者を、きつく睨んだ。
「貴様、何者だ!」
侵入者は、その薄い唇に笑みを刻むと、長い漆黒の髪を揺らして、副団長の方を見た。
「……汚い口で騒ぐな、礼儀を知らぬ獣人如きが」
男とも女ともとれぬ、中性的な声で言う。
次いで、侵入者は、その血の気のない指先を副団長に向け、ふいと空を切るように動かした。
その、次の瞬間。
副団長は白目をむくと、自分の脳天に、自ら剣を突き刺した。
そのままどしゃりと崩れて死んだ様を見て、侵入者は嗤う。
それから、続けて何かを払うように手を動かすと、リークスの前に垂れていた御簾が吹っ飛んだ。
ひいっ!と情けない声をあげて、脇に控えていたキリスが飛び退く。
リークスは、玉座からすっと立ち上がると、その鳶色の目を細めて、侵入者を見据えた。
「……貴様、闇精霊か。何故ミストリアに来た」
太く、怒りのこもった声音で問いかける。
侵入者は、それに対して不愉快そうにリークスを見上げると、苦々しげに呟いた。
「……なんと、のう。口の利き方も知らぬとは。下衆(げす)の上に立つ者は、結局下衆ということか」
その言葉に、リークスはこめかみに青筋を浮かべた。
兵士達を悉(ことごと)く惨殺された挙げ句、ここまで愚弄されたとなると、本来ならば一瞬で消し去ってやりたいところだ。
だが、その時リークスは、何も言えなかった。
この侵入者と自分の間に、かつて感じたことがないほどの、圧倒的な差があると確信していたからだ。
- Re: 〜闇の系譜〜(ミストリア編) ( No.137 )
- 日時: 2017/05/08 20:00
- 名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)
召喚術を完全に己のものとしていた頃ならば、まだ歯向かう気概があったかもしれない。
だが、今のリークスは、次期召喚師である娘、ファフリに召喚術の才が多少なりとも渡ってしまっているが故に、力が万全な状態ではないのである。
リークスが沈黙したままでいると、侵入者はそれを鼻で笑ってから、ふと、足元で死んでいる兵士から剣を取り上げた。
黒光りする刀身のそれは、ハイドットの剣である。
侵入者は、それを手に持ち、高く掲げると、一気に魔力を放出した。
「……ほう、魔力を吸収するというのは、真実であったか」
侵入者の魔力を、ハイドットの剣はどんどんと吸い上げていく。
それに伴い、周囲に転がっていた他の兵士のハイドットの剣も、まるでその強大な力に誘われるようにして、かたかたと震えながら侵入者の方へと吸い寄せられていった。
侵入者は、満足そうに笑みを浮かべると、放出していた魔力量を更に増加させた。
空気が振動するほどの、莫大な魔力。
きーんと耳鳴りがして、キリスが思わず身を縮めたとき。
甲高い金属音がして、侵入者の握っていた剣が砕けた。
「……吸収できる魔力量には、限度はあるのか」
そう呟くと、侵入者は、残った剣の柄を投げ捨てる。
キリスは、その様子を信じられないといった思いで、見つめていた。
侵入者は、リークスに向き直ると、長い袖を口元に当てて言った。
「ミストリアの王よ、此度はこの魔力を吸う剣について、話があって参ったのだ。この剣を作り出している地へ、我を案内せい」
リークスは、それを聞くと、怪訝そうに眉を潜めた。
「……ハイドットの武具は、我がミストリアの南大陸で造られたものだが、もう二十年以上前に精錬は中止させている。もうこのノーレント周辺にしかないはずだ」
「二十年前だと?」
侵入者は、それを聞くと、突然からからと声をあげて笑い始めた。
そして、実に可笑しそうに口元を歪めると、すっと目を細めた。
「愚かな王よ、そなたの目と耳はどこについている」
キリスが、その言葉にぎくりと反応する。
それを見ると、侵入者は楽しそうに再び笑って、続けた。
「まあ、よい。そちらの男の方が、真実を知っておるようだ。後々尋ねてみるがいい。……とにかく今は、我をその南大陸とやらに案内しろ」
リークスは、焦ったように震えているキリスを、ぎろりと睨んだ。
だが、その時点では何かを言うことはなく、再び侵入者のほうに視線を戻すと、はっきりと言った。
「……何故貴様がそのようなことを申すのかは知らんが、それは出来ぬ。私はミストリアの守護者だ。ここを離れるわけにはいかぬ」
侵入者は、それを聞くと、橙黄色の瞳でリークスをじっと見つめた。
次いで、己の周りに散乱する獣人の兵士達の屍(しかばね)を見回すと、また最後にリークスを見て、言った。
「……では、そなたがこの城に戻るまで、我が兵にこの城を守らせよう」
「兵だと?」
眉根を寄せたリークスに、侵入者は笑みを向けると、唱えた。
「汝、苦闘と貧困を司る地獄の侯爵よ。
従順として求めに応じ、可視の姿となれ。
──ガミジン……」
詠唱が終わるのと同時に、侵入者の影から漆黒の馬が飛び出した。
黒い煙のような馬は、一つ嘶(いなな)いて霧散すると、霧となって散乱した兵士の屍を包み込む。
刹那、まるで見えない糸で上に引かれたように、死んだはずの兵士達が立ち上がった。
兵士達の顔は青白く、生気がない死体そのもののようだったが、彼らはゆらゆらと揺れながらもその足で立ち、手にはしっかりと剣が握られている。
言葉もなく呆然としているリークスとキリスに、侵入者は言った。
「我が死者の兵は、この世で最も忠実で強い。感情もなく、死ぬこともないからのう。こやつらならば、そなたが戻るまで、必ずこの城を守ってくれよう。どうだ、これで文句あるまい?」
リークスとキリスは、尚も、何かを口に出すことができなかった。
それどころか、この突如現れた侵入者の雰囲気に飲まれて、指一本動かすことができなかったのだ。
キリスはともかく、リークスにとっては、こんな経験は初めてであった。
この侵入者は、瞬く間にこの玉座の間を邪悪な魔力で満たし、異様な空間に変えてしまったのである。
立ちすくむ二人の様子に気づいたのか、侵入者は、楽しげにくつくつと笑った。
「何を驚いている。まさかそなたら、未だに我の正体が分からぬとでも言うつもりではあるまいな」
侵入者は、底光りする目を二人に向けると、唇で弧を描いた。
「我が名はエイリーン。アルファノルの召喚師にして、闇精霊の王。『忘却の砦』の主であるぞ──……」
To be continued....