複雑・ファジー小説

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.159 )
日時: 2018/12/06 08:30
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)

  *  *  *


 寝室の扉が開く音がして、オーラントは、反射的に立ち上がった。
居間に出てきた医師は、憔悴しきったようなオーラントの顔を見ると、穏やかに笑った。

「……大丈夫ですよ。痛み止めも効いて、今は眠っています。やっぱり、家に帰ってきて、落ち着いたんでしょう」

 穏やかだが、悲しみも孕んだような声。
オーラントは、詰めていた息を吐くと、ゆっくりと長椅子に座り直した。

「家っつっても、俺の家ですけどね……。出来ることなら、カナンの村に帰してやりたかった……」

 ため息混じりに言うと、医師は、小さく首を振った。

「カナンは、ネール山脈の方でしょう。今の状態のティアさんと、まだ一歳にも満たないジークハルトくんを連れて、あの地方まで旅をするのは、流石に……」

 言葉を濁してから、医師は、オーラントの隣に横たわる赤ん坊──ジークハルトを見つめた。
ジークハルトは、長椅子に広げた寝具の上で、すやすやと寝息を立てている。
普段から、心配になるほど泣かない子であったが、今は、その落ち着き様を眺めているおかげで、オーラントも、かろうじて冷静さを保てているような気がした。

「……カナンの村まで行かなくったって、きっとティアさんは喜びますよ。最期は家に帰って、オーラントさんとジークハルトくん、三人で迎えたいって言い出したのは、ティアさんなんですから。貴方の家である以上、シュベルテのこの家だって、立派なティアさんの家じゃないですか」

「…………」

 何を言われても、前向きな返事などできる気がしなかった。
この医師は、かれこれ一年以上、治る見込みのないティアの治療に、手を尽くしてくれた男だ。
せめて、嘘でもいいから笑って、礼を言うべきなのだろうと思ったが、それでも、うまく言葉が出てこなかった。

 医師は、部屋の隅にまとめていた荷物を持つと、静かに言った。

「それでは、私は、これで。もし、ティアさんが痛みを訴えるようなら、その時は、呼んでください」

「……ああ。ありがとう」

 低い声で礼を言って、頭を下げる。
医師は、最後に何か言いたげに口を開いたが、結局なにも言わず、後ろ手に扉を閉めて、家から出ていった。



 ジークハルトを抱き、物音を立てないように寝室に入ると、妻のティアは、寝息も立てずに、寝台に横たわっていた。

 微かに開いた窓の隙間から、物悲しげな蜩(ひぐらし)の鳴き声が聞こえてきて、身体の芯に染み込んでくる。
射し込む夕暮れの光が、骨の浮いたティアの輪郭をなぞると、刺されたような痛みが、胸の奥に走った。

 ティアは、この闘病生活の中で、何度も死の淵をさまよってきた。
その度に、生気のない彼女の青白い横顔を見てきたから、分かる。
今度こそ本当に、ティアの命の灯火は、消えて無くなってしまうのだろう。

(あの時、引き留めなければ……)

 彼女からの好意を、はっきりと拒んでいれば。
何かが、変わっていたのだろうか。

──私ね、やっぱり、オーラントさんのことが好きよ。

 光の映らぬ目でこちらを見上げ、どこか戸惑ったように、ティアがそう告げてきたのは、もう二年前のことだ。
叙任式で、オーラントが宮廷魔導師に任命された年──。
当時、オーラントは二十六歳、ティアは二十二歳であった。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.160 )
日時: 2018/10/27 19:31
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: a4Z8mItP)


 ティア・シュミレットは、北方のネール山脈の麓、その地域一帯を治める資産家の娘であった。
生まれつき身体が弱く、重度の夜盲(やもう)で、成人する頃には、完全に視力を失っていた。

 それ故に──いや、おそらくそれ以外の理由もあったのだろうが、当主であった父親の亡き後、彼女は、家督を継がなかった。
病弱な身体では、次期当主を勤めるのは難しいだろうと、ティアの叔父が、代わりにシュミレット家を継ぐと申し出てきたのである。

 叔父夫婦が、シュミレット家の資産を狙っていたことは、火を見るより明らかであった。
しかし、そのことに気づいた上で、ティアは当主の座を叔父夫婦に譲った。
財産への執着も、勢力争いをするほどの気力も、ティアにはなかったからだ。
ティアは、生まれてから父と暮らした屋敷を出て、カナンという北端の小さな村に、移ることになったのだった。

 遠征を言い渡され、カナンの村に駐在することになったオーラントが、初めてティアと出会ったのは、ある冬の日のことであった。
身が凍るほど寒いのに、二階の窓を全開にして顔を出すティアを、自殺志願者と勘違いしたオーラントが、「飛び降りなんてやめろ」と、声をかけたのがきっかけであった。

 聞けば、目の見えないティアは、外界の物音を聴くくらいしか楽しみがないから、窓を開けていたのだと言う。
屋敷から厄介払いされ、使用人とたった二人。
日がな一日、寝台の上で過ごしているから、どうにも退屈なのだ。
だから、雨の日でも雪の日でも、こうして窓を開けて、村人たちの生活に耳を澄ましているのだ、と。

 共に暮らしている使用人だって、世間体を気にした叔父夫婦が雇っただけの者であったから、身の回りの世話をしてくれるだけで、私的に話しかけてくることはほとんどないのだという。
村人たちも、突然よそから来た貴族出の娘を警戒して、なかなか近寄って来ない。
引っ込み思案な自分の性格も災いして、いよいよ孤独になってしまったと、ティアは、寂しそうに語っていた。

 そんな哀れな娘を、オーラントが気にし始めたのは、魔導師としての正義感からだったと思う。
いつしか、村を巡回する際、ふらりとティアの元に立ち寄っては、話し相手をするのが日課になっていた。
その頃は、オーラントもまだ新人に分類されるくらいの年齢で、仕事にも熱が入っていたから、魔導師たる者、村の平和だけでなく、村人たちの生活も守らねばと息込んでいた。
だから、自分が訪ねることで、本当に嬉しげに笑うようになったティアを、好ましく思っているのも事実であった。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.161 )
日時: 2018/12/06 08:35
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)

 引っ込み思案だという言葉通り、控えめな性格ではあったが、いざ話してみると、ティアは決して、言葉数の少ない娘ではなかった。
まだ目が見えていた頃に、しっかりとした教育や作法を身に付けていたこともあって、学問の知識も深かったし、一つ一つの仕草も淑やかで、品がある。
上層階級の出であることを鼻にかけることもなかったし、案外、外に出てみれば、村の奴等とも仲良くなれると思うぜ、と言うと、ティアは、どこか困った様子で言った。

「でも私、一人で歩けるかどうかも、分からないもの。村の人達に会っても、なんて話しかけたら良いか……」

 オーラントは、ティアの華奢な肩を、ぱしぱしと叩いた。

「そんなもん、俺が連れていってやるさ。誰かに会ったら、こんにちは、今日も寒いですね、とかなんとか、適当なこと言っときゃいいんだよ。あとは、そうだなぁ。湯浴みのあと、ろくに乾かさずに出歩いて、髪も鼻毛もばきばきに凍った話とか、そういうよくある世間話をしておけば、大体どうにかなるもんだって」

「……そんなの、オーラントさんくらいよ」

 おかしそうに微笑んで、ティアが肩をすくめる。
にっと笑みを返すと、オーラントは、座っていた椅子の背もたれに寄りかかった。

「実際、そんなに心配しなくても、ちょっと外に出てみりゃ、向こうから話しかけてくるだろ。カナンの村は、こんな北端でもたくましく生活してるだけあって、陽気な奴が多いしな。警戒してるっていうより、お前が家から出てこないから、話しかけられないだけさ」

「……そう、なのかな」

 オーラントは、力強く頷いた。

「そうそう。少なくとも俺は、こんな美人が出てきたら、絶対話しかけに行くな」

「…………」

 閉じられていたティアの睫毛が、一瞬だけ震える。
垂らした亜麻色の長髪で、顔を隠すようにうつむくと、ティアは、小声で答えた。

「そんな風に言ってくれるの、オーラントさんだけよ。……お世辞でも、嬉しい。ありがとう」

 恥ずかしそうに礼を言ってきたティアに、オーラントはその時、ぎくりとした。

 美人だなんて言葉、ティアは、これまでも言われたことがあるのではないかと思う。
実際、ティアは綺麗な女性だった。
目を引く派手さはなかったが、線が細く、儚げで、絵に描いたような箱入りのご令嬢だ。
流れる髪は美しい亜麻色で、病的なほどの白い肌は、見ていて心配になったが、それを好む男も多いだろう。

 お世辞ではないが、他意があったわけでもない。
ただ、客観的にみて、ティアは男が放っておくような容姿じゃないと元気付けたかったから、褒めただけだ。
そう言い聞かせている自分に、心のどこかで、恐れのようなものを感じていた。

 オーラントが突然黙ったので、不思議に思ったのだろう。
ティアは、相手の声からしか、感情を汲み取れない。
少し戸惑ったように顔をあげると、ティアは、膝にかかっていた毛布をぎゅっと握って、躊躇いがちに尋ねてきた。

「……あの、オーラントさんは……どんな女の人が好き?」

 絞り出した声が、微かに上擦っていた。
思えばこの時から、ティアが自分に好意を持ち始めていることには、なんとなく気づいていたのだろう。
気づいていて、見て見ぬふりをしていた。

「はは、なんだよ急に。そりゃあ、男だったら、出るとこ出てて、引っ込むとこは引っ込んだ、積極的な美女が好きだろ」

 だから、咄嗟に出た適当な答えが、ティアとは正反対の女性像だったとき、内心驚いた。
思ったよりも、自分に余裕がないのだと分かったのは、この時だった。

 自分がこの娘に抱いていたのは、恋情などではなかったと思う。
だが時折、自分とは違う、ティアの細い首筋や、柔らかな指先が目につくようになってから、焦燥感のようなものは感じていた。
独りぼっちの可哀想な娘に、自分は手を差し伸べているだけだ。
そう思い込んで、懸命に、距離を置こうとしていたのだ。

 叔父夫婦が建ててくれたのだというティアの一軒家は、小さな村に建つには豪勢で、頑丈な石造りだった。
けれど、若い娘が住むには寂しく、まるで牢獄のような、殺風景な空間であった。

 ティアはいつも、自室の寝台に座って、二階の窓から外を眺めている。
大気が裂くような冷たさを孕んでいても、彼女の周りだけは、いつも暖かい空気が流れているようだった。
目を閉じて、外界に耳を澄ませる彼女の姿が、繰り返し心に浮かぶようになったのは、いつからだったろうか。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.162 )
日時: 2018/11/04 18:27
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)




 月日が流れ、二十六を迎えた年──オーラントは、宮廷魔導師に抜擢された。
自分でも、何故こんなに早く出世できたのか分からない、などと言ったら同期に睨まれたが、本当に、どうして自分が選ばれたのか、そのときは見当もつかなかった。

 言われるままに各地を巡って、任務をこなしてきた。
しかし本当のところ、自分には、魔導師になった大層な理由など、なかったのだ。
例えば、かつて逆賊に妻子を殺されたから、憎むべき悪を滅ぼしたいのだとか、代々仕えてきた主君を守り、報いるために魔導師になったのだとか、そういった熱い動機が、自分にはなかった。
ただ漠然と、子供の頃に正義の味方を夢見て、他にやりたいことが見つからなかったから、魔導師になったのだ。
我ながら、笑ってしまうくらい、薄っぺらくて稚拙な理由だった。

 だからこそ、宮廷魔導師に抜擢されたとき、正直困惑した。
宮廷魔導師は、ただ才能があるからというだけではなれない、最高峰の役職だ。
浅い覚悟で魔導師になった自分が、軽々しい気持ちで就いて良いような地位ではない。
早い話が、今更になって、怖じ気づいたのである。

 魔導師という職は、子供の頃に描いていたものとは、全く違うものだった。
言わば、死ぬまで国にこき使われる、動ける武器のようなものだ。
人を助けるとは、人を殺すことであり、正義を守るとは、相反する正義を滅ぼすことだ。
宮廷魔導師になれば、きっと、もう抜け出せなくなる。
これからずっと、自分は魔導師として、一生この殺伐とした世界を生きなければならないのかと思うと、急に恐ろしくなったのだった。

 そんな蟠(わだかま)りを抱えての就任であったが、歴代最年少で宮廷魔導師になったと聞くと、周囲は手放しで喜んでくれた。
かつて、流行り病で呆気なく死んだ両親も、農作業をさぼって駆けずり回っていたどら息子が、まさか貴族と同等の地位を得たなんて知ったら、飛び上がって驚いただろう。
ティアも、宮廷魔導師になったと言うと、おめでとうと、素直に賞賛してくれた。

「まあ、なんで俺が選ばれたのか、さっぱり分かんねえんだけどな。別に魔導師になった特別な理由があるわけでもないし、魔術の腕だって、俺より上のやつは沢山いる。よく考えてみりゃあ、上司の言うことを聞かなかったこともしょっちゅうあるし、本当、なんで俺なんだか。王様ってのは、気まぐれなのかねえ」

 笑いながら言うと、ティアは、あっさりと答えた。

「そういうところじゃないかな」

「そういうところ?」

 言っている意味が分からなくて、オーラントが首をひねる。
ティアは、にこりと微笑んだ。

「そういう、どんなときでも、ちゃんと周りが見えているところ」

 照れ臭そうに下を向くと、ティアは続けた。

「普通、立派な役職に選ばれたら、自分はすごいんだって、誇らしい気分になるものでしょう? それも事実なのだから、良いと思うのだけど、オーラントさんはそれだけじゃなくて、色々考えてるみたい。本当に自分で良かったのかな、とか、他にふさわしい人がいたんじゃないかな、とか……。自分では気づいていないのかもしれないけれど、オーラントさんって、実はものすごく視野が広くて、自分のこと以上に、いろんな人のことを考えてるの。自分とは正反対の意見を持っている人のことも、全然違う立場の人のことも、ちゃんと見て、考えてる」

 肩掛けをきゅっと掴んで引き寄せると、ティアは言い募った。

「国のために頑張ってくれているのに、失礼かもしれないけれど、魔導師や騎士の人達って、なんだかぎらぎらしていて、私、少し怖いの。でも、オーラントさんは違う。優しくて、話しやすいし、それぞれに合わせた接し方をしてくれる。どんな人の考え方でも、立場でも、とりあえず理解しようって気持ちで、話しかけてくれるの。きっと、そんなオーラントさんに救われた人は、沢山いると思うわ。私だって、そう。……戦うだけじゃなくて、気持ちも助けてくれる魔導師なんて、稀有よ。そんな貴方を宮廷魔導師に選んだのだから、エルディオ陛下は、見る目があるのね」

「…………」

「これからも、私みたいな独りぼっちがいたら、見つけて、助けてあげてね。……これは、誰にだって出来ることじゃ、ないと思うから」

 眉を下げて微笑み、ティアは言った。
それを聞いたとき、オーラントは、しばらく何も返せなかった。
ティアは、純粋な気持ちで褒めてくれただけだったのかもしれないが、彼女の言葉は、彼女が思っている以上に、オーラントの胸を突いてきたからだ。

 自分は元来、単純な男だったのかもしれない。
正義の味方に憧れていた、などという子供じみた動機で魔導師になって、ティアの言葉一つで、そんな自分の在り方を、肯定されたような気になった。

 皆、心に秘めた信条があるから、血塗られた道を、歯を食い縛って走っている。
自分には、そんな大層な信条などないけれど。

──これからも、私みたいな独りぼっちがいたら、見つけて、助けてあげてね。

 それが、自分が魔導師になった理由だったような気がした。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.163 )
日時: 2018/11/08 18:58
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)


 オーラントはその後、一層頻繁に、ティアの元を訪ねるようになった。
任務で各地を転々とすることが多くなっていたが、なんだかんだで、自分にも、彼女との別れを惜しむ気持ちはあったのだろう。
宮廷魔導師になってからは、一度拠点を王都に移すよう言い渡されていたから、直にカナンの村からも、離れなければならなかった。

 ひとまず、後釜が見つかるまでの時間は、オーラントがカナンの村に常駐していたが、それも残りわずかであった。
その間も、オーラントとティアは、会って、とりとめのない世間話をするだけであったが、オーラントは、それで良いと思っていた。
自分達の間には、確かに燻った熱のようなものがあったが、今ならまだ、無視できる程度であったのだ。

 いくらティアが肯定してくれようとも、自分は、人を殺したことがある。
自分だって、いつ死ぬか分からない。
己が選んだのは、そういう人生で、そんな自分が、何食わぬ顔で人並みの幸せを掴もうというのは、やはり抵抗があった。

 王都に帰れば、もう二度と、カナンの村に戻ることはないだろう。
だから、それまでのほんの僅かな時間だけ、一緒に過ごせれば、それで十分だった。
男のくせに、情けない甲斐性なしだと、そう周囲から指差されたとしても、自分には、相手を不幸にすると分かっていて添い遂げる勇気などなかった。
家族を失った人間が、日に日に冷めた目になっていくことを、オーラントは、知っていたのだ。

 けれどある時、帰り際に、ティアが言った。

「私、オーラントさんのことが、好き」

 まるで、「また明日ね」とでも言うような、軽い調子で。
少し美人だと褒めただけで、恥ずかしそうに頬を赤らめていたあのティアが、随分とあっけなく、言えなかった一言を告げてきた。

 目を見開いたまま、硬直したオーラントを見上げて、ティアも黙っていた。
盲目の彼女とは、もちろん目が合うことはないのだが、その閉じられた瞼の奥で、じっと見つめられているようであった。

 ぱちぱちと、炭の爆ぜる音が、暖炉から聞こえてくる。
がらんとした寒々しい部屋の空気とは裏腹に、胸の奥が熱くなって、息苦しさを覚えた。

「……はは、こりゃあ、びっくり。まさかお前から、愛の告白を聞くことになるなんてなぁ」

 渇いた口から出たのは、自分でも呆れるくらい、しょうもない台詞だった。
別の女が相手だったら、もっと気の利いた返しも出来たと思う。
だが、今のオーラントには、何かを考えて話すほどの思考力がなかった。

 オーラントの間の抜けた返事に、緊張の糸が切れたのだろう。
すん、と鼻をすすると、ティアは、弱々しく言った。

「……オーラントさんが、言ったんじゃない。積極的な女の人がいいって」

「…………」

 膝掛けを握るティアの手が、細かく震えている。
それを見ただけで、彼女が、一体どれほどの勇気を振り絞ってくれていたのかが、分かった。

 下を向くと、ティアは、静かに言った。

「……オーラントさん、もうすぐ、王都に帰っちゃうんでしょう? 私、オーラントさんと会えなくなるなんて、嫌。……お願い。私のことも、連れていって」

「…………」

 ああ、もう駄目だと思った。
曖昧な関係のまま、へらへらと笑って別れを告げるわけには、いかなくなった。
ティアの言葉を聞いてしまった以上、もう、引き返せない。
この関係に白黒つけるしか、なくなってしまったのだ。

 オーラントは、ゆっくりとティアに向き直った。

「……本気で言ってるのか。俺は、いつ死ぬかも分からんような身の上だぞ」

 ようやく出た声は、随分と冷たかった。
ティアの表情が、微かに歪む。
拒絶されたことを即座に理解したような、悲しみの表情だった。

「……本気よ。それに私だって、小さい頃から、何度も何度も、お医者様に死ぬかもしれないって言われてきたような人間だもの」

 涙をこらえるように、すっと息を吸って、顔をあげる。
そんなティアの口元には、寂しげな笑みが浮かんでいた。

「でも、私ね、オーラントさんがいてくれたら、頑張れる気がするの。諦めないで、絶対に生きていようって、そう思うの。……私じゃ、オーラントさんの、そういう人にはなれない?」

 オーラントの目が、揺れる。
ティアの視線から逃げるように踵を返すと、「悪い」と、そう一言だけ告げて、オーラントは足早に部屋を出た。

 そのあとのことは、よく覚えていない。
胸の奥が、ぐらぐらと煮えているような思いを抱えたまま、オーラントは外に飛び出した。

 いつの間にか、辺りは暗くなっている。
昼間より一層冷えきった風が、身体の芯を蝕んでいくのを感じながら、オーラントは、黙々と帰路についたのだった。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.164 )
日時: 2018/11/11 19:15
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)




 それ以来、オーラントは、ティアに会いに行くのをやめた。
巡回の際、ふとティアの家を遠目に見ても、二階の窓は、もう開いていなかった。
あんな最低な別れ方をしたのだ。
きっと彼女も、呆れているだろう。
こんな無神経で、意気地のない男だとは思わなかったと、軽蔑しているに違いない。

 これで良い。これで、良いのだ。
このまま、二度と顔を合わせず、何事もなかったかのように別れるのが良い。
もしもう一度会ってしまったら、堪えきれぬものが、口を突いて出るかもしれない。
今ならまだ、穏やかな思い出の一片として、留めていられる。
今なら、まだ──。

 数日が経って、カナンの村に常駐する、後任の新人魔導師が決まった、との連絡が入った。
こんな北端での勤務を希望する者なんて、滅多にいないから、その後任魔導師とやらは、さぞうんざりした顔でやってくるだろう。
実を言うと、かつての自分もそうだった。
特に希望する任務地はない、などと告げてしまったばっかりに、こんな辺境での勤務を押し付けられてしまったのだ。
こうなるなら、嘘でも中心部を希望しておけばよかったと、当時は後悔したものである。

 魔導師になって二、三年もすれば、どこぞの街や村に常駐していたとしても、その付近で何かしら事件があれば、あちらこちらに派遣されることになる。
内戦や暴動が起きたともなれば、その鎮火に駆り出されることもしばしばだ。
しかし、まだ経験の浅い新人の内は、常駐場所の警備や巡回が主な仕事だ。
カナンの村は、厳しい寒さに脅かされているという点以外は、事件など滅多に起こらない、平和なところだった。
平和だが、目新しいものも何もない、どのつく田舎だ。
正義を掲げ、敵を打ち破る──そんな勇敢な魔導師を夢見て入団した若者には、かなり退屈な村だろう。

 まだ顔も知らぬ新人魔導師が、雪しかないカナンの村を見たとき。
一体、どんな拍子抜けした顔をするのかと想像して、オーラントは苦笑した。

(……結構、良い村なんだけどな)

 もうすぐ去ることになる、駐屯地の板張りの間を見渡して、オーラントは嘆息した。
華やかな都市部も良いが、こうして国の端々まで足を伸ばすのも悪くないと、そう思ったのは、この村がきっかけだ。
王都にいるだけでは知り得ない、様々な土地の暮らしや文化に触れるというのも、魔導師にしかできないことなのかもしれない。

 目を閉じれば、北の地に来てから出会ってきた人々の顔が、頭の中に浮かんだ。
最初は皆、王都から来た魔導師だと聞いて、顔を強張らせていたが、打ち解けてみれば、彼らと自分との間には、何の隔たりもなかった。
一人、また一人と思い浮かべて、最後に浮かんだのが、ティアの笑みだったとき、ずっと無視してきた愛おしさが、くっきりと目の前に現れたような気がした。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.165 )
日時: 2018/11/15 18:25
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)





 日が暮れて、ひんやりとした隙間風が、オーラントの頬を撫でた。
火の勢いを強めるかと、暖炉に薪をくべていると、不意に、どさりと屋根の上の雪が落ちる音がした。
今日は、降雪量もそう多くなかったのだが、自然と雪崩を起こすほど、雪が積もっていただろうか。
そう不思議に思いながらも、火を興していると、今度は、駐屯地の壁を、こつこつと軽く叩くような音がした。

 外に、何者かの気配がする。
殺気はなく、怪しげな魔力も感じないその人物は、まるで何かを探るように、駐屯地の壁をこつこつ、こつこつと叩いて回っている。
それが、入り口を見つけようとしているのではないかと気づいたとき、オーラントは、まさか、と思った。

 まさか、そんなはずはない。
だって彼女は、一人で歩けるかどうかも分からないと、そう言っていたのに。

 玄関口の扉を開けてみると、思っていた通りの人物が、壁伝いに歩いていた。
鼻先を赤く染め、白い息を吐きながら、よたよたと杖を支えに歩くその女を、オーラントは、信じられぬ思いで見つめていた。

「……ティア」

 はっと、ティアが顔をあげる。
うっすらと雪の積もった髪を、慌てて手櫛で整えると、ティアは、安堵した表情になった。

「オーラントさん……?」

「……ああ」

 ティアの顔が、ふわりと綻んだ。
悴(かじか)んで、上手く動かない指先を懸命に動かし、真新しい外套についた雪も払うと、ティアは、口を開いた。

「良かった……あの、村の人たちにね、オーラントさんはどこにいますかって、聞いて来たの。オーラントさんの言った通り、思いきって話しかけてみたら、皆、親切な人だったわ。一緒に来て案内するって言ってくれた人もいたのだけど、恥ずかしいから、断っちゃった……」

 照れたようにうつむいて、ティアは、矢継ぎ早に言った。

「あの……あのね、この前は、その、変なことを言って、困らせてしまってごめんなさい。王都に連れていけなんて、もう言いません。……ただ、このままお別れするのは、どうしても嫌だったから、最後に、ありがとうって、お礼だけ言いたくて、それで……来ました」

 ティアの声が、尻すぼみになって、消える。
次の言葉を迷っているのか、少し困った様子で黙り込んだ彼女の肩は、寒さからか、微かに震えていた。

 村の奥地にある彼女の家から、入り口付近にある駐屯地まで、そう遠くはない。
しかし、ろくに外出などしたこともないティアが、雪を掻き分けて、進んで、どんな思いでここまで来たのか。
想像するだけで、胸の奥がずきりと痛んだ。

 ティアは、辿々しい口調で、言った。

「あの……私、完全に失明した時から、ずっと、目の前が真っ暗だったの。でも、オーラントさんが声をかけてくれたあの日から、少しずつ、視界が明るくなっていって、毎日が、とてもきらきらしていた。……だから、私ね、やっぱり、オーラントさんのことが好きよ」

 一度息を詰めると、ティアは、下を向いた。
しかし、すぐに顔をあげると、泣き出しそうな表情で、笑んだ。

「本当に、本当に、ありがとう……。どうか、お元気で」

 そう言って、背を向けようとしたティアの身体を、気がついたときには、抱き寄せていた。
懐に入れた彼女の身体が、想像以上に細くて、冷たくて。
少しでも暖まるように、オーラントは、抱く腕に力を込めた。

「……ごめん。臆病で、ごめんな」

 抑えようとしたはずのものが、口からついて出た。

「俺も、好きだったんだ。本当は、ずっと好きだったんだよ、ティア」

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.166 )
日時: 2018/12/06 08:48
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)


  *  *  *


 季節が巡り、ティアの妊娠が分かったのは、それから一年ほど経った、春のことであった。

 シュミレット家との縁を切り、王都シュベルテに移り住んでいた二人は、城下町でも南端の、物静かな郊外にある、小さな家で暮らしていた。
当時、ほとんどの時間を王宮で過ごしていたオーラントのことを考えれば、王宮近くに新居を建てても良かったのだが、騒がしい中心部にティアを住まわせるのは、なんとなく躊躇われた。
故に、長閑(のどか)な下町に移ることにしたのである。

 オーラントが選んだ郊外は、自身が昔、一時的に住んでいた場所でもあって、顔見知りが多かった。
嫁を連れて戻ったとなれば、散々からかわれるであろうということは容易に想像できたので、若干気は重かったが、たった一人での生活が難しいティアには、周囲の助けを借りやすい環境の方が良いだろうと思った。
最初は、上手く馴染めるか不安であったが、オーラントの心配などよそに、ティアは、すんなりと近所の人間たちに溶け込んでいったし、簡単な家事なども、こなせるようになっていった。

 子供ができたみたい、と打ち明けてきたのは、オーラントが遠征から戻ってきて、一月ぶりに帰宅した時であった。
おそらくティアは、帰ってきたオーラントに、すぐに伝えたかったのだろう。
玄関口で、靴を脱いでいるときに突然告白されたので、持っていた一月分の大荷物を、盛大に落とした。

 この時のオーラントは、喜びのあまり大興奮していたので、ティアになんて声をかけたのか、ほとんど記憶がない。
ありがとう、とお礼を言ったような気もするし、思わず、俺の子? だなんて、失礼極まりない質問をしてしまったような気もする。
とにかく、そのまま玄関に座り込んで、縁起が良さそうな意味を持つ古語を並び立て、子供の名前にはどれが良いだろうと吟味し始めたので、まだ男か女かも分からないのに気が早いと、ティアに呆れられたことだけは覚えている。

 一般的に考えれば、幸せの絶頂期であろう、新婚生活。
にも拘わらず、宮廷魔導師としての仕事に忙殺され、家を空けることが多くなっていたのは、本当に申し訳ないと思っていた。
しかしティアは、職業柄仕方がないことだと納得して、オーラントを責めてくることは一切なかったし、近所の人達も皆、親切にしてくれるからと大丈夫だと、そう言って、いつも笑っていた。
オーラント自身、すまなく思う一方で、ティアは案外、芯が強くて聡い娘だから、きっと一人でも問題ないだろうと──心のどこかで、安易に考えてしまっていた。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.167 )
日時: 2018/11/23 18:56
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)



 そんな彼女の優しさに、甘えていたことを後悔する日が、やがて、訪れた。

 いつものように帰宅をすると、ティアが、台所の脇で、倒れていたのである。
その口から、暗い色の血液が流れ出ているのを見たとき、頭が真っ白になった。

 蒸し暑い、初夏の日の夜であった。

 慌てて近くの病院に駆け込むと、ティアはそのまま、入院することになった。
ティアは、すぐに意識を取り戻したが、家で倒れていたのだと話すと、ごめんねと言って微笑んだ後、何かを諦めてしまったような、遠い目になった。

 嫌な予感がしていた。
ティアは、カナンの村にいたときから、臥せりがちであった娘だ。
王都に来てからは、目が見えないという点を除いては、元気そうであったし、自分も仕事が順調で、何もかもが上手くいっていたから、完全に浮かれていた。

──何かあっても、ティアならうまく立ち回るだろう。
そんな風に、呑気なことを考えていた自分が、心の底から憎らしかった。

 その日は、一日ティアについていようと思ったのだが、大丈夫だから行ってほしいと言って聞かないので、仕方がなく、仕事に出た。
しかし、働きに行ったところで、集中できるはずもないので、早々に切り上げて、病院に戻った。
ティアの病室に戻ると、ちょうど彼女が、医師から自身の病状の説明を受けたところであった。

 どうだったのかと尋ねると、ティアは、静かな声で答えた。

「お腹にね、腫瘍があるんですって。治療したところで、一年生きられるかどうか、分からないって」

 言葉の内容とは裏腹に、あまりにも、落ち着いた態度であった。
ティアは、病室の寝台に横たわって、いつかのように、窓の外を眺めていた。

「昔ね、同じ病気になったことがあるの。再発する可能性もあるって、分かってはいたのだけれど、そういうことに気を張るの、最近、忘れてしまっていたの。……ごめんね」

 淡々と話す彼女の声を、オーラントは、ぼんやりと聞いていた。
寝台脇の椅子に腰かけ、血が通っていないのではないかと思うほど冷たい額に手を当てると、オーラントは、かすれた声で言った。

「……治る見込みが、全くないって訳じゃないんだろ? なに、大丈夫さ。気持ちさえしっかり持っていれば、病なんて──」

「治療は、受けないわ」

 穏やかな顔で、ティアが言った。
一瞬、何を言われたか分からず、目を見開いたまま、オーラントは硬直していたが、ややあって、椅子から立ち上がると、ティアに詰め寄った。

「……なんで。治療を受けないって、どういうことだ?」

 ティアは、小さく首を振った。

「私、知ってるもの。この病気のお薬はね、飲むと、お腹の中の赤ちゃんに、悪い影響が出てしまうの。だから、治療はしない」

「でもお前、そんなことしたら──」

「私は、死んじゃってもいい。でも、この子だけは、絶対生む」

 頭に、かっと血が昇った。
怒りなのか、絶望なのか、よくわからない激情が突き上げてきて、オーラントは叫んだ。

「馬鹿言うな! まだ生まれてもいない赤ん坊より、お前の命が優先に決まってるだろう! お前の代わりは、いないんだぞ!」

 病院中に響き渡るほどの、大声だった。
何事かと集まってきた職員たちが、ちらちらとこちらの様子を伺っている。

 何度か深呼吸すると、オーラントは、崩れ落ちるようにその場に膝をついて、ティアの冷たい手を握った。

「頼む……。頼むから、そんなこと、考えないでくれ。お前が、いなくなったら……」

 ぽつりと、雫が落ちる。
寝台にぽつぽつと落ちるそれが、自分の涙なのか、ティアの涙なのか、視界が滲んで、よく分からなかった。

 ティアが、震える声で、言った。

「……この子の代わりだって、いないよ」

 微かに膨らんできた腹をさすって、ティアは、呟いた。

「この子がいいの……」

 繰り返し、繰り返し、囁くように。

「私は、この子がいい。この子が……」

「…………」

 何も、言えなかった。
男には見えぬ強い母子の絆が、既にそこにあるのかもしれないと思うと、何も、言えなくなってしまった。

 どうして、こんなことになったのだろう。
何故、もっと早く気づけなかったのだろう。
もしかしたらティアは、自分の不調に気づいていたのかもしれない。
気づいていて、怖くなって、無意識に目をそらしたのかもしれない。
治療をすることになれば、胎児を悪影響が及ぶと分かっていた。
だから、単なる風邪か何かだと信じて、祈って、自分の胸の内に抱え込んでいたのかもしれない。

 彼女がその不安をしまいこんだとき、その場にいなかった自分を、殴ってやりたい気分だった。

 微かに開いた窓の隙間から、初夏にしては珍しい、蜩(ひぐらし)の鳴き声が聞こえてきた。
その旋律を聞いている内に、ふと、記憶の片隅に追いやっていた、イグナーツの暗い瞳が、脳裏に蘇った。

 一年前の叙任式で見た、光のない目──。
今なら、よく理解できるような気がした。
もしこのまま、ティアが死んで、腹の子も死んだら、自分は間違いなく、あんな目になるだろう。

 己は、いつ死ぬか分からない身だ。
子供だって、妻だって、命の危険に晒されている。
死は、常に自分たちの周りに、蔓延っている。
以前は、当然のようにその事実を受け入れられていたのに、ティアと結ばれてからは、そのことをすっかり忘れてしまっていた。

 寝台の下に視線をやると、そこにわだかまっている闇に、無数の人の手が蠢いているように見えた。
名も知らぬ、顔も覚えていない、自分が殺した誰かの手。
それらが、ティアの命も、子の命も、引っ掴んで、掻き乱して。
全てを、奪い去っていってしまうような気がした。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.168 )
日時: 2018/11/27 18:41
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)




  *  *  *


「ジークハルト……?」

 不意に、弱々しい声が聞こえた。
ティアが、目を覚ましたのだろう。
オーラントは、座っていた椅子から立ち上がると、彼女の身体にかかった毛布を、かけ直してやった。

「……おはようさん。つっても、今は夕方だけどな。うちのやんちゃ坊主なら、爆睡してんぞ。ほれ」

 そう言って、腕に抱えていたジークハルトを、そっとティアの隣に下ろすと、ティアは、嬉しそうに笑った。
そして、枯れ枝のような指先を、探るように動かして、優しく我が子の手を握った。

 結局ティアは、宣言した通り治療を受けず、無事に子供を生んだ。
生まれた子は、オーラントと同じ黒髪の男の子で、『ジークハルト』と名付けられた。
この名はかつて、子供が出来たと聞いて舞い上がったオーラントが、玄関口で咄嗟に並び立てた候補の中から選んだものだ。
ティアには気が早いと呆れられたので、そんな走り書きはどこかにいったと思っていたが、ティアが、ちゃんと拾って保存していたようだった。

 生まれたジークハルトが、元気に育っていくのとは反対に、ティアは、日に日に衰弱していった。
妊娠していた頃は、一生懸命食べていたが、出産後は、食事が喉を通らなくなり、みるみる痩せて、よく吐血するようになった。
やがてティアは、夢と現実の間を彷徨いながら、譫言(うわごと)のように、昔のことを語るようになった。
シュミレット家での父との思い出から、オーラントとの思い出まで、ぽつぽつと話しては、楽しそうに微笑んでいた。

 それから、三人で帰りたい、と頻繁に言うようになった。
どこに、とは言わないので、試しに、カナンの村に戻りたいのか、と問うてみたが、ティアはただ、懐かしいわ、と答えるだけであった。

 一瞬、カナンの村に行こうかと思った。
彼女の本当の故郷は、ネール山脈の麓にほど近い、小さな街であったが、叔父夫婦から追い出された土地よりも、カナンの村の方が、思い出深いだろう。
しかし、一歳にもならないジークハルトと、寝台から動けないティアを連れて、北端まで旅をするのは、無謀なことだ。
最終的に、医師と相談して、三人は、シュベルテの郊外にあるオーラントの家に、やってきたのだった。

「……また、夢を見ていたわ」

 寝台の上で、ジークハルトの手を握りながら、ティアがぽつりと言った。

「貴方と、初めて会ったときの夢。……すごく、素敵な夢だった。また見たいな」

「…………」

 オーラントは、息を吸った。
普段通りの声が出るように、何度も呼吸してから、口を開いた。

「夢もいいが、そこのやんちゃ坊主の面倒も、見てやってくれよ。泣かないのは有り難いが、どうも俺には反抗的なんだ。この前なんか、俺の目に指を突っ込んできたんだぜ? とんでもない息子だぞ」

 ティアが、ふふ、と吐息のような笑みをこぼす。
それから、オーラントの方に顔を向けると、ティアは言った。

「ジークハルトは、将来、どんな大人になるのかな。貴方に似て、心も身体も、強い人になったらいいね」

 オーラントは、肩をすくめた。

「……そんなん、分からんだろ。まだ赤ん坊なんだから」

 他にも言いたいことがあったのに、声が震えないようにしなければと思うと、あまり多くは喋れなかった。
やっと押し出した声ですら、なんだかぶっきらぼうになってしまう。
対してティアの声は、いつもより少しだけ、明るいような感じがした。

「それから、やっぱり、いろんな人の気持ちを理解できる、優しい人になってほしいわ。貴方と同じように、魔導師になりたいって言い出したら、ちょっと心配だけど、それはそれで、応援してあげたいね」

「……そうだな」

 か細い、けれど、生き生きとした口調だった。
こんなに饒舌なティアと話したのは、一体いつぶりだろう。
暮らした時間は長くなかったが、久々に家に帰れて、ティアも喜んでいるのかもしれない。
しかし、彼女を蝕むものが、決してその勢いを無くしていないことは、なんとなく分かっていた。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.169 )
日時: 2018/12/02 18:57
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: hjs3.iQ/)



「そういえばね、私、ジークハルトに手紙を書いたのよ。私たちのところに、生まれてきてくれてありがとうって、書いたの。あと、ごめんねって」

「……そうか」

「病院の、寝台横の棚のね、二番目の引き出しに入っているから。いつか、ジークハルトが文字を読めるようになったら、渡してあげてね」

「……わかった」

 返事をしてから、何度か瞬きをして、オーラントが下を向く。
でも、と言葉を継ぐと、ティアは続けた。

「私、全盲になってから、文字を書いたの久しぶりだったから、多分、上手に書けていないと思うの。だから、もし全然読めなかったら、捨てちゃっていいわ。その代わり、今の言葉、伝えてね。お母さんは、ジークハルトのことが大好きよって」

「…………ああ」

 さらさらと、命の流れる音がする。
その流れを塞き止められないことが、悔しくて、悔しくて。

 不意に、ティアが、手を伸ばしてきた。
その手は、宙を彷徨った末に、オーラントの前髪を、すっとかすって、止まった。

 ティアが、悲しそうに目元を歪めた。

「……オーラントさん、泣かないで」

「…………」

 はっと、息をこぼす。
オーラントは、首を横に振った。

「泣いてねえよ」

「……泣いてるよ」

「……お前、見えないだろ」

「……見えるよ」

 滅多に動かない亜麻色の睫毛が、すっと持ち上がった。
真っ暗な、その瞳の奥に──。
オーラントの顔を映して、ティアは、ふわりと微笑んだ。

「私、貴方に出会ってから、いろんなものが見えるようになったの」

 彼女の瞳が、一瞬だけ、光を灯す。
オーラントは、その瞳に宿った光を、じっと見つめていた。

「今も、光が沢山見えるわ。オーラントさんと、ジークハルトの周りに、光が、沢山……」

 ティアは、重たそうな瞼を、ゆっくりと瞬いた。

「……まだ、その光を、見ていたかったなぁ」

「…………」

 じゃあ、逝くなよ。
そう言おうとして、オーラントは、口を閉じた。
言えなかった。
喉が熱くなって、声を出そうとしても、嗚咽しか漏れなかった。

「──ねえ、オーラントさん」

 ティアの唇が、一瞬、震えた。

「……ジークハルトと、一緒に……どうか、幸せになってね」

 伸ばされていた彼女の腕が、ゆるゆると下がっていく。
咄嗟にその手を掴むと、オーラントは、ようやく言葉を押し出した。

「……待ってくれ。そんなの、お前が、いないと……」

 ちゃんと届いたか、分からなかった。
他にも、色々なことを伝えたくて、オーラントは必死に口を動かしたが、不明瞭な喘ぎ声になるばかりで、自分でも聞き取れなかった。

 それでもティアは、どこか幸せそうに、薄く笑った。

「嬉しい……ありがとう。……ごめんね」

 ティアの腕の力が、徐々に抜けていく。
押し上がっていた睫毛が、ゆるゆると下りてきて、つむればきっと、もう二度と持ち上がらないような気がした。

「…………」

 オーラントは、祈るように、ティアの手を額につけた。
お願いだから、待ってくれと。
一緒にやりたいことも、見たい景色も、まだまだ沢山あったのに。

「……幸せ、だったなぁ」

 ティアの、囁くような声が聞こえた。

「……すごく、幸せだった。……あのね、私ね、やっぱり、貴方のことが──……」

 その言葉の続きが、声になる前に、ティアの瞳の光が、ゆっくりと消えた。
安心したように、ふうっと吐息をこぼして。
握っていた彼女の腕が、ぱたりと落ちたとき。
目の前のものが、何も見えなくなった。

 自分はずっと、こうなることを恐れていたのだ。
一人残されるのが怖くて、怖くて、ずっと、尻込みしていた。
あるいは、自分が死んで、最愛の誰かにこんな思いをさせることが、嫌で嫌で、たまらなかった。
独り身のままであったなら、このような絶望を味わうことはなかったのに──。

 やはりあの時、ティアを引き留めなければ良かった。
彼女からの好意を、はっきりと拒んで、一人で、カナンの村から去れば良かった。

 そんな後悔が、一瞬だけ頭をよぎった瞬間。
ティアの側に横たわっていたジークハルトが、突然、声をあげて泣き始めた。

「おいおい、どうした、急に……」

 息子の目から、大粒の涙がこぼれ落ちていく。
抱き上げて、その背をあやすように撫でながら、オーラントは呟いた。

「泣くな、泣くな……悪かったよ。今のは、冗談だって。……後悔なんて、してないから……」

 立っていられなくて、後ろに倒れこむようにして、椅子に座る。
ジークハルトの背を叩きながら、オーラントは、何度も何度も、言い聞かせた。

「……男の子だろ。頼むから、泣くな……」

 もはや、どちらに言い聞かせているのかも、わからない。
ただひたすら、泣くな、泣くなと、オーラントは呟いていた。

「なあ、泣くな、ジークハルト。お願いだから……」

 溢れ出した涙は、後から後からこぼれて、一向に止まらない。
オーラントが、再び足に力を込めて、立ち上がるまで。
二人は、ずっと泣き続けていた。

Re: 〜闇の系譜〜(外伝) ( No.170 )
日時: 2018/12/06 18:18
名前: 銀竹 ◆4K2rIREHbE (ID: wC6kuYOD)



  *  *  *


 どん、と身体に衝撃が走って、オーラントは、はっと顔をあげた。
頭の芯に、まだ痺れるような眠気が残っている。
椅子の背もたれを支えに上体を起こして、寝ぼけ眼を擦ると、視界の端に、久しく見る息子の姿が映った。

「……おお。帰ってたのか、珍しいな」

「着替えを取りに来ただけだ。すぐに出る」

 そう言ってジークハルトは、自分の箪笥から衣服を何着かとると、手早く荷に詰め込んでいく。
久々に会ったと言うのに、この無愛想さ。
一体誰に似たのか、皆目見当もつかない。

 オーラントは、呆れ半分に苦笑すると、座っていた椅子から立ち上がった。
そして、強張った首をこきこきと鳴らすと、一つあくびをした。

「ていうか、俺、寝てたのか。なんかさっき、誰かに勢いよく蹴られた気がする……」

「俺だ」

「お前かよ!」

 悪びれもなく自首してきたジークハルトに、びしっと突っ込みを入れる。
ジークハルトは、外出準備を進めながら、淡々と返した。

「そんなところで、鼾(いびき)かいて寝ているからだ。寝るなら寝室に行け。邪魔だ」

「お前、ほんと口悪いな……」

 オーラントは、はあっとため息をついた。

 そういえば昨夜は、書き物をしていて、それ以降の記憶がない。
どうやら、文机で作業している途中に、疲れて寝てしまっていたようだ。

 五十近くにもなって、椅子の上で長時間寝ていたら、起きたときに全身を痛めていただろう。
加えて、風邪も引いていたかもしれない。
そう思うと、起こしてくれたジークハルトには、一応感謝しておこうと思った。
蹴っ飛ばしてきたことに関しては、毛頭許す気などないが。

 聞く耳を持たない息子を見つめながら、オーラントは、痛む左手首を回した。

 サーフェリアの前召喚師、シルヴィア・シェイルハートに右腕を奪われてから、約六年。
片腕のない生活には大分慣れたが、左手で文字を書くときなんかは、やはり不便を感じることが多い。
練習を重ねてきたので、最初の頃に比べればすらすら書けるようにはなったが、どうしても、利き手で書いていた頃に比べると、神経を使ってしまうのだ。

 オーラントは、散らかしていた文机を簡単に片付けると、やれやれと肩をすくめた。

「色々と気に食わない年頃なのは分かるが、減らず口叩きまくって、あちこちに敵作るのはやめておけよ。お前もいい大人なんだし、嘘でもいいから、にこにこしとけ。な?」

「うるさい。にこにこなんかするか、気色悪い」

 人生の先輩として助言してやっても、この様だ。
華麗に一刀両断されて、オーラントは、大袈裟に嘆息した。

「はぁー……今の言葉、母ちゃんが聞いたら泣くぜ? お前の名前はなぁ、強くて優しい……いいか、もう一度言うぞ。や、さ、し、い! 未来の明るい男になれという意味を込めて、『光』って意味のジークハルトと──」

「その下り、百回は聞いた」

 オーラントの言葉を遮るように、ジークハルトが、どかっと荷を地面に転がす。
それから、魔導師用のローブを羽織ると、ジークハルトは、作った荷を背負いこんだ。

 息子の背は、もうほとんど父と変わらない。
目線の変わらなくなったジークハルトの目を見て、オーラントは、困ったように苦笑した。

「ったく、しょうがねえ奴だなぁ。言っても無駄ってわけか。もういい、さっさと行け。へまやらかして、死ぬんじゃないぞ」

「当たり前だ」

 しっしっと追い払うように手を動かせば、こちらには一瞥もくれずに、ジークハルトは扉の方に向かった。
しかし、取っ手に手をかけたとき。
何かを思い出したように振り返ると、ジークハルトは、ついでのように言った。

「ああ、そういや俺、宮廷魔導師になった」

「……は? なんだって?」

 思わず聞き返して、硬直する。
言われたことが理解できず、しばらく反芻してから瞠目すると、オーラントは、恐る恐る尋ねた。

「……お前、今、二十歳だよな?」

「そうだ」

 短く返事をして、オーラントの顔を見る。
その驚愕の表情に、勝ち誇ったように口端を上げると、ジークハルトは、憎らしく言った。

「歴代最年少、二十六歳にして宮廷魔導師にまで上り詰めた若き天才。飆風(ひょうふう)のオーラント、だったか?」

「…………」

 ジークハルトは、ふっと鼻で笑った。

「悪いな、親父」

 それだけ言うと、さっさと家を出ていってしまう。
扉の外の光に、ジークハルトが吸い込まれていくのを見ながら、オーラントは、しばらくぽかんとしていた。
しかし、ふと脱力したように椅子に座り込むと、がしがしと頭を掻いた。

「あーあ、とんでもねぇクソガキになったもんだ。……なあ?」

 開いた窓の隙間から、爽やかな初夏の風が、そよそよと入り込んでくる。
目を閉じると、記憶のどこかで、柔らかな亜麻色が、ふわりと揺れたような気がした。



………………



 オーラントの妻、ティアの『光』のお話でした(^^)
いかがだったでしょうか?
個人的には、闇の系譜らしからぬ純愛ものになったなぁと思っています(笑)
あのくだらない『桃太郎』と『シンデレラ』の後に書いた話がこれかい、っていうw

 ティアさんは、本編には出てきません。
でも、オーラントとジークハルトに大きな影響を与えた登場人物の一人です。
ジークハルトについては、まだそんなに出してないので何とも言えませんが、オーラントに関しては、それがかなり如実に表れているかなと思います。
「これからも、私みたいな独りぼっちがいたら、見つけて、助けてあげてね」
このティアの台詞、オーラントさんの中に、生涯残り続けたんじゃないでしょうか。
だからこそオーラントさんは、本編で最初のルーフェンの理解者になったのかなぁと思います。

 ルーフェンママのシルヴィアに殺されちゃいましたが、前国王エルディオも、ティアの言う通り賢王だったんだろうと私は考えています。
本編だと、シルヴィアを騙して、ルーフェンに対して「召喚師やだ? 殺すぞクソガキ」みたいな感じで脅迫していたエルディオさんですが、それも、王として持つべき非情さだったのかなと。

 飄々としているけど、実は歴代最年少で宮廷魔導師になっていたオーラントさん。
彼はどちらかというと、ルーフェンと同じ天才タイプですが、息子のジークハルトの方は、秀才タイプです(もちろん才能もあったんでしょうが)。
だから秀才の息子が、天才の父親の最年少記録を六年も塗り替えて宮廷魔導師になったときは、すごく気分が良かったんじゃないかなぁ(笑)
既にサーフェリア編の下巻で少し描写していますが、ジークハルトは、ルーフェンのライバルになり得る才覚の持ち主です。
国を護りたいという思いが誰よりも強いジークハルトは、ルーフェンの危なげな部分を気にかけている一方で、生まれながらにして守護者という称号を有し、絶対的な力を持っている召喚師という立場を、どこか羨ましく思っている節があると思います。
対してルーフェンは、ジークハルトの強い志とか、オーラントさんの存在とか、そういった部分をやはり羨ましく思っているんじゃないでしょうか。
お互い、ないものを持っている存在。
そんなライバルとして、今後二人を本編で描いていきたいですね。

 さて、あとがきが長くなってしまったので、そろそろ切り上げます(笑)
読んで下さった方、ありがとうございました!
次はジークハルト&アレクシアの話か、ギャグを書きたいと思います(?)
それではまたー!