複雑・ファジー小説
- Re: コンプレックスヒーロー ( No.6 )
- 日時: 2015/10/22 19:47
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: TRpDG/gC)
長い夢の中で、君の声を聴いた。
数え切れない夜を跨いで、君の声を、聴いていた。
目が覚めた時に、ごめんって、素直に吐き出せるだろうか。
ああ、でも、まだ眠いや。
ごめんね。
ごめんね。
第01話
手首を切ってみた。
ちょっと好奇心もあって、すっぱりと。
血を見ることには慣れていたけど、流れるのはなかなか見ない。肌に一筋垂れるそれは、くっきりと映えて新鮮だった。
昔交通事故で脳に障害を持った母が、痛いの痛いの飛んでけと魔法をかけて早10分。
そろそろ飽きてきた僕は母の泣き顔を置いて部屋に戻った。
電気のついていないそこは生活感に欠けていて、唯一生きた本棚の、びっしり詰められた本のうちから一冊を適当に掻き出して、流れるようにベッドに腰をかけた。
「……」
傷だらけの視界に辛うじて浮かぶ文字。僕は本を読むのが好きだ。
その中は知らない世界で、この世界ではなくて、好きだ。
夢中になってページを捲って、世界を捲っていくと、自然に鼻を啜る母の声は聞こえなくなった。
いや、僕の耳に、届かなくなった。
「また、本読んでるの?」
せっかく築き上げた世界は、簡単に壊される。
窓の方からだ。開いたままのそこから、風と一緒にたった一人、女の子も入り込んできた
一体いつもどうやってここまで来るんだか。
聞くまでに至らないけれど、彼女はいつもそうやって唐突に現れる。
「何しに来たの」
「好きな人に会いに来ちゃだめ?」
ほら。まただ。
そうやって、嘘みたいに綺麗に笑うんだ。その笑顔で一体いくらの男の胸を貫いてきたことやら。ああ、物理的でなく。
「……もう一回聞くけど、何しに来たの」
「目も合わせてくれないなんて、寂しいなあ、幼馴染なのに」
「用件は?」
「おー冷たいですなあ。世間はカラカラの夏なのに、この部屋は温度が丁度良いようで」
「……」
「怒らないでよ。それより手首、大丈夫?」
「ご心配をどうも」
「うんと長い風邪を引いてるね。そろそろマスクぐらい卒業したら?」
「うるさいって言ってるだろ!」
無意識のうちに捲っていた本を、彼女の顔に投げつけた。
ずるっと落ちる本から、綺麗な顔がまた覗く。
無に還った表情は、一瞬、泣き出しそうな顔に変わった。
「……何だよ」
「そう睨まないで、光ちゃん。あたしは、光ちゃんが好きだよ?」
「聞き飽きたよ。それに僕は君が嫌いだ」
「光ちゃんとなら、結婚だってできるよ。寧ろウェルカム」
「聞いてた? 嫌いだってば」
「うん。知ってる」
「……」
「でもどうせ、好きな人なんてこの世界にいないんでしょう?」
彼女は、詩鶴はそう言い切った。
幼稚園、小学校、そして中学校に通う今に至るまで。
彼女は学園一の人気を誇る絶世の美女だと男子達は騒ぎ立ててきた。
僕も否定はしない。実際詩鶴は綺麗だ。
腰まで伸びた長い髪の、深い黒が孕む妙な艶やかさ。
長くて濃いまつ毛から覗く彼女の瞳が、おっきなビー玉みたいにキラキラしていて本当に綺麗だった。
彼女が笑うと、息が止まるほどだって、実際に会って話した男子は後日そう語る。その顔が見たくて目の前に立つのに、やっぱり恥ずかしいからすぐ逃げるなどとわけのわからない話をよく耳にした。
「話はそれだけ?」
「んー、他にもまだ、あったような」
「早くしてよ」
「あ、そうだそうだ」
大人しそうに見えて実は明るく無邪気な面を持つ彼女は、僕からしたら世話焼きな太陽に見える。
照らさなくていいものを、顔を出さなくていいものを。いつもひょっこり現れては、突然消えて、静寂がやってくる。その循環を作り出す、太陽によく似ている。
僕の“光介”という名前は、やはり今になっても間違いだと思う。
光というのは彼女にこそ似つかわしい単語だと。
思った、時。
「好きだよ、光ちゃん」
誰もがその声で、その顔で、言われたいだろうその言葉。
学校でそんなことを言ってみろ。前後左右あらゆる方向からカッターナイフとか飛んできそうなそんな台詞を。
彼女はいとも容易く、喉を鳴らして紡ぐのだ。
「あ、そう」
でも応えたことは、ない。
不意に、手に本を掴んでいないことに気がついた。そういえばさっき詩鶴に投げつけたっけ。
部屋にある本は大体読み尽してしまっている。同じ本を読んでもいいけど、何となく今は新しい刺激がほしい。
相変わらずにこにこしたままの詩鶴の足元に目をやる。大したものは何も入っていない薄いバッグに指をかけて、持ち上げた。
「? 光ちゃんどこ行くの?」
「図書館」
「あ〜公園の近くにあるとこ? お勧めの本、教えたげよっか」
「余計なお世話」
「一番左奥のね! “盲目のマジシャン”っていう恋愛小説!」
「窓、閉めといてよ」
「あ、ちょっと! 光ちゃんっ!」
財布と水の入ったペットボトルを、ぺったんこの鞄に放り入れた。
戸を開けて、すっかり泣き止んだ母が立つ台所を横切る。
栗色の髪が揺れて、僕の名前が呼ばれたような気がしたけど。
当然のように無視を返して、そのまま家を後にした。
窓を隔てない蝉の声はやっぱりうるさい。
じわりと溶けるような熱が体に堪える。さらけ出していない肌に暑苦しさだけが伝う。
早く早くと図書館への道を急ぐ。だから暑いのは嫌いなのに。
詩鶴が言っていた、恋愛ものでマジシャンとかいう本の話を急に思い出した。
第一、詩鶴の趣味感覚が分からない。長い付き合いを経てわかったことだけど、実は味覚もどうかしてる。
結果、彼女は外見こそ良いものの中味は重度の変わり者なのだ。
何も知らない男達は、後光差す太陽の笑顔に心を奪われ毎日想いを寄せているのか。
そっちの人間じゃなくて良かったと、この時だけ思える。
気が付いたら近くまで来ていた。
死んだ蝉を踏み潰して顔を見上げる。やっと着いた。
機械の生み出した冷たい空気に誘われて、そのまま中へ入る。
暑い空の下で歩いた代償は重たい。少しくらっときたけど、足の歩みは止めなかった。
取り残された部屋で一人、彼女は変わらずそこにいた。
帰りを待ってる。
今も待ってる。
早く、早く。逸る鼓動が忙しくてたまらない。
転がった薬に手を伸ばした。
使い古したマスクにも、水の入ったコップにも。
涙を呑んで、彼女は風を頼りに窓へ向く。
狭い空は、今も広がっているのだろうか。