複雑・ファジー小説

Re: コンプレックスヒーロー ( No.8 )
日時: 2015/10/22 22:39
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: TRpDG/gC)

 第02話

 涼しい風が吹いているのだろうと思う。
 あまり肌で感じないものだから、無縁の感覚だけれども。
 図書館内に入った時はその温度差に反応を示したものだが、慣れてしまえば特別どうということはない。
 早速館内を舐めるように歩き回っていた。

 「えっと……」

 基本僕はミステリーが好きだ。
 謎が解き明かされていくのに面白味を感じる。単純にそんな理由。
 もっと言ってしまえば、“答え”のあるものが好きで、こうすればこうなるという経緯が好きで。
 物語の中で人はどんどん死んでいくのに、読み手としては内心イキイキとして続きを読みたがるわけだから、本はやっぱり面白い。
 だからって答えのある勉強が好きかと言われると、そうでもない。

 「最新刊……出てなかったっけ」

 最近はまりだした長編小説の続編が棚に並んでいなかった。
 ということは誰かに借りられている? もしくはまだ用意されていないか。
 前者だとしたらとんだ物好きだな。この間出たと聞いていたのに。
 今日読めると思ってわくわくしていたのがバカみたいだ。無駄足だった。来なければ良かった。やっぱり帰ろう。
 悔しさ胸に重たい踵を返して、一歩。踏み出した時だった。

 (あれ……)

 まただ。またくらりと頭が揺れた。今日は多いな。厄日だろうか。
 空になった本棚にそっと、手を伸ばしてみる。よろめいた体をなんとか起こしたところで。
 意味もなくただ、振り返ってみた。

 「……」

 そういえば。詩鶴の奴が言っていた、あれは何だったっけ。
 盲目の、マジシャンとか。また意味のわからない恋愛小説。
 別に気になるとかではないけれど、自然と爪先は館内の左奥の方へ向いていた。

 題名を頼りに探すと、作家名“H”の欄に、その本は倒れて置いてあった。
 一冊無造作に棚へと放り込まれている。なんて扱いだ。
 僕はそっと手を伸ばして、本を掴み取った。
 表記は割と新しい。ぱらっと数枚、捲った。

 “序章 出会い”

 ありきたりな駆け出しで、小説は始まっているようだった。
 僕はまた一つ紙を滑らせる。新しい世界が顔を出す。

 “幼い頃恋に落ちた。それが初恋と呼ばれるものだと、最近知った。
  私は数年経った今でも、その恋を忘れることができずに……”

 そうして僕はまた、静寂へ還る。
 はしゃぐ小学生の声も、小さな秒針ももう、聞こえなくなっていた。

 恋に落ちて、その子と仲良くなって……大人になって。
 想いを告げてしまおうと決心したその日、主人公は事故に遭った。
 自分を庇った想い人が意識不明の重体——で……。

 「……?」

 ページを捲った。
 然しその先に、文字はなかった。

 “彼は眠ったまま動かない。目を覚ましてはくれない。
  何度も何度も、己の身を責め続ける日々がどんどん過ぎる。
  どうやら担当の看護婦に顔を覚えられたらしい。
  死んだような顔つきで病室に入り浸っているのを、不審な眼で見ていただろうに。
  涙の痕がくっきりと残ってしまった顔で、飽きもできず。
  彼の顔を覗き込むだけで、そこから私はいつも動けないでいた。
  そして、”

 ここで、物語は終わっていた。
 印刷ミスかと疑ったが、それにしてはあまりにもページが残り過ぎている。
 急いで先のページを捲る。何度も。何度も。親指が擦り切れるほど強く、最後まで。
 然し続きは、どこにもない。

 「……詩鶴の奴、何を考——、!」

 僕が掴んでいた本は、急にパラパラと捲れ出した。
 それも自動的に。
 風が吹いているわけでもないのに、紙は速度を増してどんどん捲れていく。最後のページから遡っていく様に驚いた。
 ついに気味が悪くなって、ぱっと、本を手離した時だった。


 本が、明るく発光し始めたのだ。


 「な————!」


 ぼとり。本は堕ちる。
 突然に頭を掻き回られるような痛みが僕を襲って、一瞬。
 既に僕はいなかった。

 図書館にも、この世界にも。





 「——っ!」

 汗を払うように、勢いに乗って起き上がる。
 べとつく掌が、柔らかいものの上をびっしょりと濡らしていた。
 呼吸は苦しくて、なかなか頭も働かなくて。
 目の前にぼんやりと浮かぶ白い壁に、別の白い何かが過ぎる。

 「君、大丈夫? 気がついた?」

 だんだんと視界は明らかになってきた。
 目の前にいたのは、白衣を身に包んだ中年の男性で。
 ベッドに腰をかけ、シーツも体にかけられている。
 僕は、寝ていたのか?

 「顔色がよくないね。驚いたよ、本当に」
 「あの、ここは……」
 「館内にある休憩所だよ。君、本棚の前で倒れていたんだよ?」
 「そうですか……」
 「持病は?」
 「……いえ、特に」
 「そうか、まあ安静にな。軽い熱中症だろうから」

 男性は立ち上がって、そのまま姿を消した。
 そうか、熱中症にかかって倒れていたのか。どうりで何度か頭が痛くてくらくらしていたわけだ。
 腕時計に目をやると、細い秒針は朝の11時を指していた。
 まだそれほど時間は経っていないな。
 ベッドから這い降りて、バッグを掴み取りその場を後にした。
 あの男性が介抱してくれたおかげで大分楽になったようだけど、まだちょっと頭が痛い。
 さっきと何一つ変わらない館内を、再び歩く。

 「あの本……一体何だったんだ」

 あの本を読み進め、白紙のページを見ていた時急に本が逆さへ捲れ始め、気がついたら意識が飛んでいた。
 続きを読まねば。妙な使命感が僕の心を駆り立てる。
 僕の足は自然にさっきの本棚へと向かっていく。
 然し。

 「あれ……」

 最新刊コーナーを、過ぎるところだった。
 その棚の一角に違和感を覚えた僕は、ぴたっと足を止める。

 「最新刊……出てる」

 さっきまで置いてなかったミステリーの最新刊が、並べられていた。
 たった数十分の間に返しに来たというのか。
 これはいいタイミングだ。僕は元々この本が読みたくてここまで足を運んだのだ。
 本を手に取って、客の列に並ぶ。さっきの本のことはすっかり頭からいなくなっていた。

 それにさっきのことは忘れた方がいいだろう。
 続きは別に、詩鶴にでも聞いてしまえば済む話だし。



 また蒸し暑い空の下へ舞い戻ってきた僕は、借りた本をバッグに入れて歩く。
 いつの間にか頭の痛みも引いていた。気分はいい。


 でも僕はこの時、確かにいつもと変わらない日を。
 いつもと変わらない、変わるはずのない僕自身と歩んでいた。

 はずだったんだ。


 家までの帰路を歩いていると、見慣れない服装がわらわら逆方向からやってくる。
 全身真っ黒な服と、見覚えのある制服。みんな顔を上げず、口数もなんだか少ない。
 不思議に思いながらも僕はその列にまぎれてついていく。どうやら黒い人達は僕の家の方へと歩いているようだった。
 僕の家を訪れる人なんて、詩鶴くらいしかいないはずだけど。
 嫌な違和感が胸の中に湧いて、自然と歩を進める速度も速くなって。
 ついにはがむしゃらに走って、家の前まで辿り着いた。


 そして、その光景を、やっと目にしたんだ。


 「え……——っ?」


 僕の写真が飾られていた。
 夏なのに、花がたくさん、咲いていた。黙り込んだ人々の中。
 ただ一人の、涙の音が聞こえてきた。
 彼女は必死に、僕の写真に手を伸ばしていた。

 「い、いや……っ嫌だよぉ……——光ちゃん!!」
 「やめ……やめて、詩鶴ちゃ……っ」

 母さんと……詩鶴……?
 何をそんなに泣いているんだと、次の瞬間。


 「そ、んな……ぁ、こ、光ちゃ……———死んじゃやだあ!!」


 たった一人が零す雨。それは弱弱しく地面を叩いて。
 何が起こっているのかわからない僕はただ、詩鶴の泣き顔を見るばかりだった。
 母も泣いてる。詩鶴も、泣いてる。
 茫然と立ち尽くすだけの僕は、もう一度、僕の写真を見た。

 まるで、誰かの葬式のような光景だと思った。