複雑・ファジー小説

Re: コンプレックスヒーロー ( No.14 )
日時: 2015/10/25 10:44
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: TRpDG/gC)

 第08話

 再び訪れた静寂を破ることはなく、そもそも口が開かなかった。
 今までも何度かあった。母が事故に遭う前はよく病院に行って、診察してもらって、ちゃんと薬をもらっていた。
 塗って、呑んで、呑んで。でも最後には掻きむしってしまっていた。

 何か言おうとしたこともある。荒んだ肌を見て気味悪がる奴、ばかにする奴。僕の横を通り過ぎてから、ひそひそ、ひそひそ悪口をいう奴に、何か言おうとして。結局何も言えずにここまできた。
 我慢じゃなくて。ただの諦めだった。

 「赤みが多いのね……特に背中。遺伝か、何かなのかしら」
 「関係、ないじゃないですか」
 「……そう、ね。ごめんなさい。でも、何だか放っておけなくて」
 「放っておいて下さい。お願いですから」
 「……」
 「もう大丈夫ですから。服、乾いたら出ていきますね。時間もないし」

 真っ直ぐな彼女の瞳は僕にとって毒だ。逸らしたまま立ち上がった。
 医者は口を揃えて言う。「放っておいたら悪化する」「きちんと薬で治せるから」って。
 僕にもまだ友達がちらちらいた時。まだ明るい空の下で、肌を出して遊んでいた時。
 友達は口を揃えて言う。「それどうしたの?」「すごく痛そう」「掻いちゃだめだよ」って。

 診察は受けなくなった。
 袖の短いのを着るのもやめた。


 返ってくる言葉が予測できるから。


 「……ねえ」
 「何ですか」
 「少しだけ、あの子の……哲の、話をしてもいいかしら」
 「……」
 「耳、塞いでてもいいから」

 とても穏やかにそう切り出した。僕のこと云々ではなく、きっと、哲という息子の話を聞いてもらいたいのだろう。
 彼の持つ髪の色には、僕と似たようなところがある。それをこの人も気づいているのだろう。

 「あの子の髪、不思議だと思ったでしょう? 黒ずんだ赤い色で」
 「……」
 「私がハーフなの。可哀想に。でもあの子は一度も言ったことないのよ。何だかわかる?」
 「……さあ」
 「『こんな髪で生まれてきたくなかった』って、ね」

 墨みたいな黒髪の中で、あの鈍い赤色はさぞ目立つだろう。でも彼がその髪を黒く染めたことはないという。
 家族の血筋を誇りに思う。周りに何を言われても、その髪色を大事にし続けた彼は立派だ。不良なんてものをやっている割りには家族想いな奴だ。
 でも。

 「貴方は、どう思うかしら?」

 彼の母親は『こんな肌で生まれてきたくなかった』って。そういう意味合いで僕に投げかけたのだとしたら。
 答えは一つだ。


 「嫌に決まってるだろ。何にも知らないくせに」


 白くて綺麗な肌が並んでいるところに。
 赤くて荒れた肌はよく目立つ。

 キラキラ輝く太陽の下で海水浴をする人たちを。
 見てる僕の肌は太陽の熱を嫌う。海の塩を嫌う。

 思い切り動かした後の身体に触れる風の心地よさは。
 汗ばんだ全身の悲鳴を聞いている僕には届かない。


 「母も父も肌は綺麗な方だと思う。でも両親からの遺伝じゃないのなら、恨む相手はどこにもいない。一番嫌なのは、家族も、知り合いも、誰もわかってくれないところだよ」

 最も、仕事忙しさに単身赴任でどっかへ行ってしまった父親のことなんてよく知らないけれど。小学校の途中くらいまでは家にいたから覚えてはいる。確かに僕と同じような肌をしていたわけではなさそうだった。

 「でもお医者さんも、ご両親も、気にかけてはくれたでしょう? 苦しんでいる我が子を見捨てる親なんていないわ」
 「そうだね。もちろん病院にも通ってたよ。でも最初に彼らは何て言うと思う?「これは酷いね」って言うんだよ。自分のせいだってわかってる。でもどうしようもなくかゆくて、痛くて、でも、大人たちはみんな、嫌なものを見る眼でそう言うんだよ!」

 荒げた口調でやっと振り返った。彼の母が驚くのも想像できた。彼女は優しい人だから、あまり気を悪くしてほしくはないけれど。
 もし今までみたいに。僕の肌について触れる人たちみたいに。
 嫌な顔をされでもしたら、僕はまた軽蔑を繰り返すのだろう。


 「生まれてくるのは何も、こんな傷だらけの僕でなくてもよかったんだ」


 久々に喉が震えた。自分の声で初めて聴いた本音が、反響して胸を叩く。炎症を起こしている肌とはまた違った鈍い痛みが僕を襲う。
 彼女は笑った時目の横に皺ができる。いわゆる笑い皺だ。夫が亡くなってからは、一人で彼を育てて、大変だっただろうに、笑って生きてこれたんだろう。
 筋肉の衰えた、頬にもぼつぼつ傷を持つ僕のマスクの内側が緩まなくなったのは、果たしていつからだっただろうか。

 一体僕は、いつから。こんなにひんまがった、気持ちの悪い道の上を歩いていたんだろう。
 自分が歪んでいたせいで気づきもしなかった。
 母も詩鶴も、何度も呼び戻そうとしてくれていたのに。

 「……貴方のこと、私はあまりよく知らないわ。今までどんなに苦しい思いをしてきたのかも。でも、これだけ、忘れないで」
 「……」
 「人は……何十何百、何千億を遥かに超える“可能性”の中から生まれてくる。妊娠するタイミング、卵子や精子の一つ一つでも違うでしょう。出会った女性男性にしてもそうよ」
 「僕が選ばれたのは奇跡だって、そう言いたいの」
 「違うわ。誰が生まれたって奇跡よ。数え切れないほどの、生まれてくる“可能性”のある子どもたちは、どうして貴方の背中を押したのかしら。どうして、生まれてきたのが今の貴方だったのかしら」

 今まで考えもしなかった。僕以外の子どものこと。綺麗な肌の子どももいただろう。もう少し背丈の高い子も。
 どうしたって考えてしまう。『もう少しああだったらよかったのに』って。


 「貴方が選ばれたんじゃないの。誰が生まれても“貴方”だった。皮膚炎を持って、辛い思いをしても生きていける力を持ってるから、みんな今の貴方の、傷を負うその背を——押してくれたのよ」


 言葉が出なかったのは、口が閉じていたからだと思う。何か言い返そう言い返そうと思って準備していた唇が、弱弱しく塞がっていた。
 彼女はこうも言った。『今自分のコンプレックスや、苦しんでいることは、大体前世での“罪”だそうよ。現世ではそれを償うように、ちゃんとみんなに違う試練が待ってる』と。

 「そういう考え方もありだと思うの。辛くなったら「前世このやろう」ぐらいに思って、少しでも気を楽にしてほしい。できるだけ苦しまずに生きてほしいの。ごめんなさいね、全く面識もないのに、こんな話をして」
 「……いえ」
 「話を聞いてくれてありがとう。そして哲を助けてくれて。本当の本当に、ありがとう」

 また機会があればいらっしゃい。いつでも歓迎するわ。
 目尻の皺がくしゃっとなってから、彼女は部屋を出て行った。服はまだ乾いてないから、少し大きいけど哲のものを着て、と黒くて無地のTシャツと無難なズボンを手渡された。
 後から入ってきた彼は冷たいタオルとやらに苦戦していたらしく、一度部屋に入ろうとして廊下がびしょびしょになっていることに気がついて、廊下の雑巾がけをしていたそうな。
 廊下に出た彼の母親の叱るような声と、言い訳をする彼の声は二つとも大きくて、騒がしくも楽しそうな家であることが僕にもわかった。

 「おお? 何だもう行っちまうのかおめェ」
 「うん。実は……日没までに、帰らなきゃいけなくて」
 「? 小学生かよ」
 「僕にも色々あるんだよ。ありがとう、服貸してくれて」
 「おー。お古だしな。返さなくってもいいぜ」
 「そうはいかないよ。洗って返す。あと、お袋さんにも言っておいて……『ありがとうございました』って」
 「はあ? お袋に? まあいいけどよ」
 「ありがとう」
 「何だお前さっきから、気持ちわりィな。やけに素直じゃねェ?」
 「……そうかも」

 彼はぷっと吹き出した。僕もわずかに笑った気がする。かなり大きな彼のTシャツを着て玄関で別れ、少しだけ乾いた自分の服を袋に提げて、また長い道を歩き出した。
 なんだか歩幅が広い気がする。心の中もやけにすっきりしていた。

 外の風をこんなにも気持ちよく感じたのは、初めてだ。