複雑・ファジー小説

Re: コンプレックスヒーロー ( No.19 )
日時: 2015/11/01 13:50
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: kkPVc8iM)

 フードも眼鏡も。呼吸をするのにうっとうしいから、走ってる途中でマスクも外した。
 あんまり見られたくない素顔も、目を閉じて僕の方へ向く彼女には見えないわけだし。最初はそれだけ感謝していたけれど。
 今はどっちだって構わないと思ってるなんて。全く自分の心境の上下にはほとほと呆れる。
 ちょっと前に。久々に(沈みかけてたけど)お日様の下に顔を出した僕の貧相な唇が紡ぐ質問を。
 予想だにしていなかったのか、珍しい表情を見せた彼女のことを、今思い出しても笑いがこみ上げてくるのはもう抑えられそうにない。

 児童の姿が見えなくなった、本来の静けさを取り戻した図書館の。
 一番左奥の本棚の前で、僕は一冊の本を手にかけていた。

 「全てはこいつのせいだ、間違いなく」

 気づかなかったのが不思議なくらいだ。全ての元凶っぽいこの本を放り出して、ミステリー小説の新刊に目が眩んで、すっかり忘れていたあたり僕らしいっちゃ僕らしいけど。
 最も、まさか未来みたいな世界に飛ばされているとは思いもしなかったんだから、どうか大目に見てほしいかなあ、なんて。
 誰に言ってるかって問われれば、答えは明白なわけで。


 「遅くなってごめん」


 それだけ呟いて、僕は本のページを捲った。
 “盲目のマジシャン”とかいう、また意味のわからない恋愛小説の続きを読んだ。





 幼い頃恋に落ちた。それが初恋と呼ばれるものだと、最近知った。
 私は数年経った今でも、その恋を忘れることができずにいる。



 それには理由がある。
 彼を好きになった理由はとても単純で、口に出すのは少しためらわれる。
 けれど、一目見た時。初めて彼の口が、喉が、震えたのを聞いた時。
 同時に私自身の心の、うるさく、どくどくしたものと重なった。

 彼はお天道様の下までゆっくり歩んできて。
 さえぎられた私が、彼の頭の後ろを不安げに見つめているうちに。

 『こいつはわるくないだろ。わるいのは、おまえらのあたまだよ』

 そう言い放った。思っていたよりもはっきりした声で。
 まるでアクション映画の主人公が、悪役に言うみたいなセリフを。
 私はその日、その時その瞬間。



 ヒーローに恋をした。
 間違いなく私は、ノンフィクションの世界でヒロインになった。



 彼は眠ったまま動かない。目を覚ましてはくれない。
 ——早く、早く、起きて、起きてよ。まだ心が微かに弾んでいるうちに。

 何度も何度も、己の身を責め続ける日々がどんどん過ぎる。
 ——私のせいだ。私のせいで、大切な貴方をこんなにも傷つけた。

 どうやら担当の看護婦に顔を覚えられたらしい。
 ——今は静かに見守りましょうなんて言葉に、返事はしてない。

 死んだような顔つきで病室に入り浸っているのを、不審な眼で見ていただろうに。
 ——ああ、皆同じことを言う。大丈夫って。貴方の気持ちが痛いくらい胸に刺さる。

 涙の痕がくっきりと残ってしまった顔で、飽きもできず。
 ——止まらない。不安に押し潰されて、貴方がいないから、息もできなくて。

 彼の顔を覗き込むだけで、そこから私はいつも動けないでいた。
 ——早く、この目を。

 そして、








 初め、くんと鼻に通して身体の中へ取り込んだのは、乾いた夏の空気だった。次に耳が、折り重なってより一段とやかましい蝉たちの声を捉えた。
 頭が重いのは相も変わらず。今度は掌が冷たい何かの感触を辿る。恐らく布だと思う。
 そういえば眼鏡は失くしたんだっけ。起きた時に景色がぼやけるのは二度目だ。目はまだ上手く働いてくれないらしい。

 ああ、身体がだるい。軽い熱中症にかかってるみたいに辛い。図書館で目を覚ました時の、あのけだるさの再来を感じる中で。
 僕の耳にはもう一度、何か別の響きが挿した。


 「——ひ……うっ、く……ぁ、こ、光……ちゃ、ひっ……」


 細かい嗚咽だった。鼻を啜っては、吐息と嗚咽を漏らして、喉を躍らせては、また啜る。
 がくんと垂れ下がっている首と、黒い前髪。僕の寝ているベッドのシーツを、震えたままの青白い手で掴んでいた。
 最後に見た時より一回りくらい手首が細くなってる気がした。
 食べる間も飲む間もきっと寝る間をも惜しんで僕の傍にいたんだろうな。なんとなくだけど。
 きっとこいつなら、そうする気がする。

 「っ……ご……め、んね……ごめん、ね……っ、ごめん——なさい……っ!」
 「……」
 「……ごめん……なさ……っ、目、めを……お願い、だから……目を開けっ、開け、てよぉ……っ」

 虚ろな瞳から、零れる滴が真っ直ぐ頬を滑り降りる。白いシーツを台無しにしていく。
 僕の嫌いな、しょっぱいそれで。

 僕がくっきり目を開けて、詩鶴の方をじっと見ているというのに。
 やっぱりそうか。彼女は懺悔するばかりでこちらに気づきもしない。
 僕らはどう頑張っても見つめ合わないらしい。
 彼女が僕を見えないのをいいことに、ずっと、しばらく、珍しい詩鶴の、ぐしゃぐしゃした泣き顔を眺めてから。


 「詩鶴」


 僕がこう呼ぶと、彼女は驚いて振り向く。続けていつもなら。
 『珍しいね』とちゃかすのに。

 前髪が持ち上がる。黒い瞳から真っ直ぐ垂れる涙はキラキラしてるのに。
 最初から最後まで、あの夢の中で疑問に思ってた。その眼差しはちゃんと僕の方へ向くことが。
 何も変わらないでいてくれた。例え。


 「……え、ぁ……こ……っ、ちゃ……——っ」


 ——その眼が光を失っても、長い髪を短くしてしまっても。



 「好きだよ」



 嗚呼、伝わっただろうか。ちゃんと声に出していただろうか。
 喉が震えて変に聞こえてやいないだろうか。
 これだけ言いたくて。わざわざ目を覚ましたっていうのに。


 ——好きだよ、詩鶴。悔しいくらいに、君が好きだ。





 しばらくポカンと僕の方を向いていた詩鶴だが、細い手をわなわなと僕の頬へ伸ばした。
 ぺたぺたぺたぺたしつこいくらいに触ってから、だっと涙が溢れて言う。

 何でどうして、生きてたんだよかったって泣いてばっかりで。伊達に何年も幼馴染をやっていないな。一度は裏切られたけど、あの時感じたのと全く予想通りの反応を彼女は示した。

 「ごめ、っ、ん……ごめんね、ごめんね光ちゃん……!」
 「……生きてたのにまだ謝るの? 僕に申し訳ない気持ちでいられるのは、やっぱり気が引けるんだけど」
 「? やっぱりって……それ、それより……その……大、丈夫? かっ看護婦さん、えと……っ」

 (落ち着きのない詩鶴はレアだな……)

 「目、不便でしょ」
 「えっ?」
 「僕が死んだら、失明のままでいることはなかったのにね」
 「ど、どう……して、そんな……」
 「うーん……夢を見てたんだよ」
 「夢……?」
 「そう、僕が死んでいる未来————“もしも”の世界にいる夢」

 目が冴えてきたところで、そろそろ答え合わせをしようか。
 僕がいた世界は、紛れもなく——“もしも”の世界だったんだ。

 事故で意識不明の重体に陥った僕は、まず初めに過去の夢を見た。図書館で本を借りようとした、現実と夢がごちゃごちゃに混ざった、恐らく8月3日、現実でミステリー小説の新刊を借りた後の夢。
 当然新刊はなくて。代わりに詩鶴に勧められた恋愛小説“盲目のマジシャン”を読むとあら不思議、今度は未来——じゃなくて、“もしも僕が死んだら?”というへんてこな世界に連れられた。誰に連れてこられたか、もうお分かりだろうけど。
 盲目のマジシャン。当の本人であることに間違いはない。

 彼女が“鍵探し”だ、やい“イベント”だ“命を賭けたゲーム”だ何だと言って僕に挑発をかけてきたのが最初だった。饒舌な彼女の口車に乗せられて“自覚”という名の鍵探しをゆるっと始めることとなった僕だったが。
 僕が死んだ後の母と、まだ僕を想い続けていた詩鶴の反応。僕を知っているという不良男の哲と僕の間にあった共通点と、相違点。
 哲の母親が告げる、天性のものを否定しない考え方、その奇跡。
 人と関わってこなかった僕がたくさんの人と出会って、考えさせられ、そうして詩鶴との向き合い方を思い出して、僕らの関係を再認識したところで。

 気がつけば自覚してた。本当の本当は、詩鶴が好きなんだってこと。
 鍵を探せだなんて、今更思うけど、なんて意地の悪い問題だったんだか。


 あの時最後の質問で、“好みのタイプは”と聞いたのは。ただ、意地悪な問題の出題者に。
 仕返しも兼ねて、聞きたかったからなんだ。


 自覚をしたところで、何も知らないんじゃ——生きて戻った時。
 話にならないだろうからさ。