複雑・ファジー小説

『“私”を見つけて』22 ( No.34 )
日時: 2014/07/31 09:15
名前: マヒロ ◆eRcsbwzWZk (ID: g2Ez2oFh)

 文化祭が終わって、記憶が戻った十月——私は一ヶ月振りの精神科へと来ていた。

「んー、なんか元気ないね」
「……そんなにすぐ、わかるものですか?」
「なんとなくねー」

 九野先生は気の抜けるような笑顔で私を出迎えた。相談してみても、いいのかな。
 ていうか結局私はもう記憶を取り戻しちゃったわけだし、ここで診察を受けるのも……最後なんだろう。

「私が記憶を戻したこと、蓮さんから聞いていますよね?」
「……うん。だから、今日で通院は終わりだよ」
「今まで、ありがとうございました。九野先生と話すの、何だかんだ言って楽しかったです」

 僕もだよ、というように笑顔で返してくれる先生。決まった日に、決まった時間でしか話せなかったけど、この人も私を支えてくれた人だ。もしかしたら一番本音を話せた人かもしれない。
 しかし先生が未だに私を心配しているのはうかがえる。意を決して、私は五十嵐家に行った時のことを話した。

「——という訳で、ちょっと選択に迷っていて」
「そうか。蓮くんはもう……」

 どうやら先生は蓮さんからあの書類のことを多少は聞いていたらしい。彼も先生に相談なんてしていたのだろうか。
 先生は少し考えるような仕草をして、控え目に口を開いた。

「……最後の最後に申し訳ないけど、聞いてくれるかな?」
「はい。九野先生の意見なら、なんでも」
「ありがとう。——わかっていると思うけど、蓮くんは打算的な人間だ。だから、見ず知らずの人間について調べて尚且つ協力するなんて、何か理由があると思うんだ」

 それは頷ける。彼は転任してきてすぐに私に記憶喪失の話題を持ちかけたし、何でもリードしてくれていた。頼もしかったのは事実だが、それと裏腹に不信感を抱いていたのも否めない。
 本当はずっと前から、この件について事細かに調べていたんじゃないか。私が貰った書類には除籍された戸籍のコピーが入っていたし、時間をかけて相当苦労したんじゃないのだろうか。
 もしこの仮定が本物だったとして、それには列記とした理由があるはずだ。そこまで必死に時間と労力をかけて調べる理由が。

「それは、私も思いますけど……」
「なら、わかってほしい。きっと蓮くんは君に自分のことだけを考えてほしいだとか言ったと思うけど、この件は彼にとっても大事なんだ」
「蓮さんが、この件に何らかの形で関わっているってことですか?」

 あくまでもこれまでの彼は部外者。当事者の一之宮家と五十嵐家には何の関係もないはずだ。それがそもそもの間違いであれば……私の決断はもっと重いものとなる。
 この真っ白な空間が、急に怖くなった。私と先生が口を開かなければなんの音もしない。喋っていない間は何もしていないのに、追い詰められている気がした。

「蓮くんがあんなに余裕がないのは、初めて見たんだ。もしかしたら彼が君の記憶喪失に関わっているのかもしれない——そう思うのが、当り前だろう?」
「……っじゃあ、私はどうすれば、」
「君は一人じゃない。先のことが不安かもしれないけど、僕だって蓮くんだっている。だったら、勇気を出してみないか? いずれはこの均衡が崩れてしまうんだ、今が一番のチャンスじゃないのか?」

 先生の言う通りだった。この決断を恐れていては前に進めない。現状維持なんて、いつかは辛くてどうしようもなくなる。だったら今が、全てをリセットするタイミングなんじゃないか。
 なら答えは一つしかない。蓮さんは私が両親に話を切り出さなくても責めたりはしないだろうけど……。私が、蓮さんが、後悔しないようにしたい。

「九野先生、ありがとうございます。私たちが後悔しないように、頑張ってみます」
「菫ちゃん……頑張ってね。僕はいつでも応援しているから……気が向いたら連絡でもしてくれ」

 先生は胸ポケットから名刺を取り出した。そこには十一個の数字たちが並んでいて、私は頬を緩ませた。
 頑張ってみよう。私は一人じゃない。優しい味方がいる。