複雑・ファジー小説

Re: 【6/1更新】縁結びの神様の破局相談 ( No.8 )
日時: 2014/10/27 21:05
名前: 狒牙 ◆nadZQ.XKhM (ID: KFRilj6O)


「すいません、ただいま戻りました」

 明るい屋敷の玄関をくぐり、奥に聞こえるようはっきりと俺は声を出した。使用人である同僚がただいまと声をかけてくれる。恵子さんではなく、社長に仕えている人だ。どうやらまだ社長は帰っていないらしく、ドアの音を聞きつけてやって来たらしい。
 自分で申し訳ないと冗談交じりに声をかけたが、彼は神妙な顔つきになって黙り込んでしまった。その表情が一体何を意図しているのか俺にはとうてい分からない。社長の体調でも悪かったのだろうか。じっとりとした嫌な汗が背中から噴き出す。

「なあ、良いのか本当に?」
「ん、どうかしたんですか?」

 昔からこの家に努めているベテランの執事さんである。普段は温厚なのだが、今日の声音は普段と違っていた。険のある、という程ではないがどことなく機嫌が悪そうだ。
 とぼけるでもなく、本当に彼の言う事が理解できていなかった俺により一層顔をしかめた彼は、大きなため息を吐いた。その目線はどうやら二階の恵子さんの部屋に向いているようだ。
 これでようやく、白髪交じりの男性が頭を抱えている理由が分かった。

「良いも悪いも、仕方ないじゃないですか」

 恵子さんから、ずっと好きだったとは告白を受けた。それを聞いて喜んだ自分がいて、自分も彼女の事を悪しからず思っているのだと分かった。それは単純に、拾ってくれた恩義とかではなくて、一人の人間————異性として。
 だが、ただ自分が彼女と結ばれたいからと言って、この大事な縁談を破談にするわけにはいかなかった。社長に拾われなければ今俺はこうやって働いていない。もしかしたら死んでいたかもしれないし、生きているか死んでいるか分からないような暮らしになっていたかもしれない。
 社長には、一生をかけてようやく返済できる恩を受けた。ここで我儘を言って困らせるわけにはいかない。この婚約が成立しなければ天道家のグループは赤字の波に呑まれてしまうだろう。

「……お前が今ここにいるのはお嬢様のおかげでもある事を忘れるなよ」

 あの日、反対する社長を必死に抑え込んで説得したのが恵子さんである。今こうやって雇ってくれているのは確かに社長なのだが、その社長に無理やり俺を雇うように仕向けたのが恵子さん。だから彼女にも返さなければならない恩があるのだと彼は言いたいのだろう。
 きっとこの人は怒っている訳じゃない。むしろ悲しんでいる。その理由は俺にだってよく分かる。今までずっと社長令嬢として外でも丁寧に扱われてきた恵子さんに、ようやく好きな人が出来た。俺自身、あまり自分には自信が無いけれど、少なくともここの人たちからは認められているとは思う。
 願わくば、その二人がくっついて欲しい。要約すると彼らは皆そう思っているのだろう。社長にしたってそうだ。恵子さんの縁談が決まったあの知らせの時、ずっと俺に申し訳なさそうな目をしていた。
 一体どうして皆して俺にそんな目を向けるのか、全く分からない。恵子さんに対してそういう念を覚えるのは真っ当な反応だと思うけれど、俺に対してはきっと間違っている。だって彼女と違って、俺は一度も好きだと言った事が無い。思ってはいけないと感じていただけではなく、拾ってもらった日からずっと、雇い主だとしか見えなくてならなかったからだ。

「彼女と結ばれて、幸せにしてやるというのも、恩を返すことに繋がると思うのは私だけか?」

 政略結婚なんてどこの娘も望まない。望んでいるのは親だけだ。今回に至っては親すらも望んでいない。状況的に仕方なく、そういうものだ。だから多少の駄々は認められる。そう言いたいんだろう。でも、俺には何もできない。

「それ、本当に恩返しなんですか?」

 ふと、口からこぼれ出た。色んな想いが頭の中で絡まって、自分がそれに絡め取られてしまっていた。ありがたいほどのお節介に対する感謝と苛立ち、恵子さんの行動への不安感、二人への恩義————何もできない自分への怒り。

「分かってますよね? 先方の方が恵子さんを気に入っているって。いや、恵子さんの出自である天道家を、ですか。向こうも一流企業の御曹司、きっとお互いにいい所同士で結納を行いたいんでしょう」

 お金があれば幸せだとは限らない。世の中皆そう言う。だけど、そういう人だって結局はお金のある生活を望む。だってそうだろう、お金があるから幸せだというのは確かに間違っている、けれど、幸せというのはある程度の裕福さの上にだけ立つものだ。

「由里さんの言っている通りにして、そのままこちらが倒産してしまったらどうするんですか。僕らが結ばれて、でも家は潰れました。今まで送ってきた暮らしとは離れて一からやり直しです。そんなの……言っちゃ悪いですけど恵子さんにはできません。僕が教えるまで切符だって買えなかったんですよ」

 恵子さんを幸せにしてやるというならば、裕福でいてなおかつ彼女が愛せるような人と結ぶことしか考えられない。幸い向こうの御曹司は人が良い青年だと聞く。親が多少ブランド志向でもきっと恵子さんは無事にやっていけるだろう。
 だから、まだ顔も知らぬ彼と結ばれるように神様に願ったんだ。もし恵子さんが相手の事を好きになれば、それでちゃんと彼女は幸せだと言える。豊かな暮らしを、愛する人と共に送れる。俺も恩返しができて立派な大団円だ。

「そりゃ俺だって……!」

 声を荒げようとしたその時、ガタリと上の方でドアが動いた。その音に驚いて俺はふと言葉を止める。スリッパがフローリングに叩きつけられるパタパタという音を響かせて、恵子さんが下りてきた。明日は早いからだろうか、もう寝る支度は整っている。
 睨みつけられている気がしたので、俺は彼女から目を逸らした。由里さんに向き直り、取り乱してしまった事に関して頭を下げる。だが、彼はそれでも怒りは顔に出さず、余計に辛そうな表情をしていた。

「由里さーん、旦那さまからお電話ですー」

 奥の方から他の使用人がベテラン執事の名を呼んだ。社長からの電話だと聞くと話も途中だが切り上げざるを得ない。慌てて踵を返して電話のある広間の方へと駆けて行った。
 そうやって去っていった彼の背中を追って自分の部屋へと俺が戻ろうとした時、足音が二階から下りてきた。一段一段ゆっくりと。だが、俺はそれにあえて気が付かないようなふりをして逃げようと試みる。しかし、それがすぐにばれてしまい、結局は呼びとめられてしまった。

「逃げないで」

 鋭い声だった。けれど、ちっとも冷たくなかった。むしろとても感情的で、今にも燃え上がりそうなほどに熱いような、そんな声音。流石にこれを無視してしまうのは無理だと思い、足を止める。振り返ると仏頂面の恵子さんが立っていた。

「ただいま帰りました」
「……それで、『俺だって』どうしたいの?」

 どうやら由里さんとの話を聞かれてしまったらしい。しかも、最も聞かれて欲しくない部分を。けれど今、彼女に余計な事を告げる訳にもいかない。何を言うべきか少しの間逡巡する。そこに居るだけでも気まずいような数秒が流れ、仕方なく口を開ける。

「俺だって、恵子さんにとってこの話が良い縁談になることを祈ってます、と言おうとしたんですよ」

 だから、早く今日はご就寝ください。笑顔を作って逃げるようにそう告げる。「おやすみなさい」の言葉を盾にして、自分の城へと閉じこもる。私の事は放っておいてください。案にそう告げるけれども、そこでひかない女傑が彼女である。

「……せめてあの時の返事ぐらいしてもらえるかしら?」

 あの時、それがどれをさすのかは鈍感な俺でもすぐに分かる。

「とても嬉しいです。僕にとっても恵子“さん”はとても大事な人です」

 けれど、だからこそお断りします。確かに俺はそう続けようとした、だけどできなかった。理由はとても簡単で、目の前の女性が泣きだしたからだ。
 まだ泣くようなことは言っていないはずなのに。そう思ってしまう自分はひどく幼稚で、鈍感で、彼女が好いてくれた理由を何一つ分かっていない愚か者だった。

「何でそんな風に呼ぶようになったの? 何でそんな堅苦しい言葉を使ってるの? 何で……」

 そんな風に壁を作って接しているの?
 最後の質問は、もはや声になっていなかった。

「昔は天道って呼び捨てだったし、タメ口だったのに。普通の友達として話してくれたのに……」

 それは仕方ない。だって昔はこんな偉い人だとは思っていなかったのだから。今となっては命の恩人。それはそれは口調が固くなってしまうに違いない。

「それが嬉しかったから私は————」

 そこで彼女はようやく気付いたのだろう。自分が涙を流している事に。あまりにも気持ちの方が昂ってしまい、自分がまともに喋れないほどの嗚咽をこぼしていたのに気が付いていなかったようだ。目元の涙を指の腹ですくい、まじまじと眺める。
 目の前にいる俺を見つめて、また指を伝う涙を見る。しまいには、歯をぐっと噛みしめて二階へと帰ってしまった。

「……縁に頼む必要もなかったな」

 こんなにもあっけなく、縁というのは切れるものだ。
 一応、自分の目元に手を当てる。
 しかし、ただ指の冷たさが頬の上に広がっただけだった。