複雑・ファジー小説

Re: 汝等、彼誰時に何を見るや。 ( No.6 )
日時: 2014/06/01 05:57
名前: SHAKUSYA ◆fnwGhcGHos (ID: 7hsLkTT7)
参照: 参 (語り部:菊間 桔梗)

   『八十年蝉』



 まだ御話は一桁ですのに、面白い御話が続いておりますねぇ。御二方とも、やはり霊を視る目が備わっているからで御座いましょうか。……いいえ。残念ながら、わたくしにはそれほど視る目が御座いません。お二方のような、迫力のある御話と言う訳には参りませんよ。
 ですから、今から御話致します奇談は、後に続く怖ァい御話の、ほんの口直し程度にどうぞ。
 宜しければ、御静聴願います。

 時は三十年前。暑い暑い、夏の真昼で御座いました。
 わたくし共はその時、結婚式の予定を立てていたので御座いますが——その前々から、ずっと主人が体調を崩しておりましてねぇ。主人は無茶をする方でありますし、道に逃げ水が出来るほどの暑さで御座いましたから、わたくしは勝手に主人が霍乱を起こしていたものと思っておりました。
 ……霍乱と言うのは、暑気中り、夏ばてのことですわ。人間が古いものですから、ついつい言葉も古うなってしまいますね。気を付けましょう。

 そう。起きているのも辛そうな風情でしたから、わたくしは主人を床に就かせました。
 ですがその時、暑気に中ったと言うには不自然なほど、身体が冷えていることに気付きましてねぇ。質してみますれば、確かに酷く寒いと。それは冬の寒さと言うより、悪寒のようでありました。
 しかしながら、部屋の中は居ても立ってもいられぬほどの暑さだったのですよ。そして、主人が喫食した冷たいものと言えば、数杯の氷水のみ。暑がるのはともかく、身体が冷えると言うのはどうしたことかと、わたくしも初めて重く考えたのです。
 そのような訳で、お医者様を呼びましたが——
 手を尽くしても、主人の具合は悪くなる一方で御座いました。お医者様にも原因が分からなかったようで御座いまして、その内に主人は寒い寒いと言って聞かなくなってしまいますし、お医者様もわたくしも当惑するばかりで。結局、わたくしもお医者様にはお帰りいただくしかできなくなってしまいまして。
 えぇ……主人は病院が嫌いなので御座いますよ。救急車も、あのピーポーピーポーと言う音を聞いただけで顔がこう、しかめっ面になる程なのです。あの時のお医者様には悪いことをしてしまいました。

 さて。そうしてお医者様を見送り、主人の傍へ戻ってきた、その時で御座います。
 じゃあじゃあと鳴き騒ぐ蝉達の声中に、一際目立つ鳴き声が致しました。

 ぎぃぃ……ぎぃぃ……

 と、まるでこげらの鳴くような、寂しく木の軋るような音でしてねぇ。その上、他の蝉達と違い、蚊帳のすぐ外から聞こえてくるのです。わたくしもこの真昼にこげらが鳴くものかと思いまして、その方をふと見上げました。
 そして、蚊帳の外にぽつんと止まって翅を震わせていた、その蝉を見つけたので御座います。

 一言で言えば、それはみんみんぜみのような格好で御座いました。
 真っ黒な身体に薄緑の線が幾本も入っておりまして、翅は透明——向こうの空を何処までも碧く透かしておりました。しかし身体は熊蝉より一回りも大きく、そして殊更目に付きたるは、やはり力強い十本の足と閉じきれていない六枚の翅でありましょう。
 姿形と言いなんと言い、それは普通の蝉ではありませんでしたよ。
 ——えぇ。わたくしは三十分ほど粘って見ていたのですが、それは何時までも蚊帳に止まって鳴き続けておりました。そして、気付けば主人の寒がる声もぱたりと止んで。半日ほど経った時には、もう御布団の中で大いびきで御座いましたよ。
 うっふふふ……えぇ、ええ。
 今度はもうぐっすりと。体調を崩し始めてから二週間近く、ほとんど寝付かれなかったようですからねぇ。わたくしの前では平然としておりましたけど、わたくしの目にはちゃぁんと分かっていましたよ。
 えぇ、そうです。あんまりスヤスヤと御休みになるものですから、わたくしも起こせなくって。結局、三日も寝ていらしたんです。その間、結婚式の予定はわたくし一人が頑張ったんですよ、あなた。

 嗚呼、すみませんねぇ。その蝉のことでしょう?
 主人が床から起き上がれるようになった頃、お腹を見せて、御縁側に落ちていましたわ。
 わたくしが気付いて拾い上げたときには、もうすっかり硬くなっていまして。主人はそれを箱に入れていたのですけれど、三日も経つと砂のように崩れてしまいました。三十年も経った今では、もう跡形も残ってはおりませんよ。写真も撮りましたけれど、わたくしの目には何も見えませんでねぇ……
 はい? えぇ、持って来ておりますよ。
 蚊帳しか映っておりませんが、見える方には見えるでしょう。良ければ回してくださいな。

 蝉の正体、ですか? せっかちですねぇ、今から御話しようと思っていたところで御座いますよ。
 そう——主人の体調がようやく元に戻った後で、やっぱりわたくしも聞きましたよ。
 六枚翅の蝉が居た、あれは何だ。そう質しますと、主人は床の中からじぃっと蚊帳の方を見つめながら、「八十年蝉だ」と呟きましてねぇ。わたくしの方はちらともしないで、ぽつりぽつりと、あの蝉について話を始めたので御座います。
 ——八十年蝉は、八十年に一度見られるか否かと言う、とても珍しい虫の怪。決まって主人が悪しき気に倒れたる時に現れ、これを祓い、祓が終わるとすぐに死んでしまうものだ——
 と、主人はそう語りました。ですから、わたくしは勝手に「御祓い蝉」などと申しておりますよ。八十年蝉の八十年には「とても長い」と言う意味も込められているそうですが、長くない時も御座いますのでねぇ。

 ええ。八十年蝉と言っても、本当に八十年毎に現れるものではないようです。悪しき気が溜まることで生ずる怪でありますから、溜まり方が違えば現れる時もまちまちとなるのは道理でありましょう。
 実際、主人から聞いた話ですと、主人のお父様は十の時に一度、三十の時に一度、五十の時に一度と、実に三度もこの八十年蝉を見たと主人に話したことがあるそうです。御先祖様の中には、彼の者が存命中に蝉は十度も現れたと伝わる人もいらっしゃいます。

 ですがねぇ皆様。とても珍しい蝉の怪であることに、やはり変わりは御座いませんよ。
 何せわたくし共、あの時から三十年の時を経ておりますが、その蝉はまだ一度も見ておりません。
 八十年後にまた出ると言うなら、わたくし達は百歳も越えたおばあちゃんですよ。うふふふ……

 さあ、これにてこの話は御仕舞いです。
 御静聴、有難う御座いました。