複雑・ファジー小説

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編) ( No.41 )
日時: 2017/12/16 20:44
名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

 どうしても一人になりたくて、動けなくなったアレイドを放って部屋を出たのはいいものの、行く宛などあるはずもなく、ルーフェンは長い本殿の廊下を歩き続けていた。

 久々に外に出たせいか、頂点に程近い太陽の光が、異様にまぶしく感じる。
乾いた生温い大気が吹き付けて、強い悪寒を感じ、身体の芯がぞくりとした。

 廊下の一角を曲がり、ガラドの執務室の前を通り過ぎようとしたとき。
ルーフェンは、ふと、不思議な感覚に襲われた。
執務室の中から、聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ。

 足を止めて、執務室の扉に耳を近づけてみると、その奥からはやはり、何か言い争っているような声が響いてきた。
しかし、その声の主が誰なのか、一体何を言い争っているのかまでは分からない。

 しばらく、そうして声を聞くことに集中していたルーフェンだったが、神経を使いすぎたのか、ふいに目眩がして、耐えきれず床に腰を下ろした。
がんがんと叩かれているような、ひどい頭痛がして、おまけに生温いはずの空気がとても冷たく感じる。

 朦朧とし始めた意識のまま、床にそのまま倒れこむと、幾分か身体が楽になった。
もうアレイドもいなくなっただろうし、部屋に戻ろうとも思ったが、一度床に体重を預けてしまうと、もうその場から動く気力など失せてしまった。

 半月分の疲労と眠気が、全身を包み込む。
未だ聞こえてくる声を聴きながら、ルーフェンはその微睡みに意識を奪われつつあった。

 どれくらい、そうしていただろう。
いよいよルーフェンの意識がうつらうつらとしてきた時、耳元で、甲高い声が響いた。

「……ちゃ……ぶ? だい……ぶ?」

 ひんやりとした手が、ぺちぺちと頬を叩く。
僅かに浮上した意識を動員して、うっすらと目を開けると、見知らぬ子供が目に映った。

(誰……?)

 はっきりとしない視界のまま、目を細める。
子供は、その顔を覗きこんで、少し驚いたような顔をしたが、そのままルーフェンの額に掌を当てた。

「あついね。だいじょうぶ? おにいちゃん、だいじょうぶ?」

 舌ったらずな子供の声は、ルーフェンの身を案ずるものだった。
そういえば、自分は今、床の上に倒れこんでいるのだ。
何故こんなところに子供がいるのかは分からなかったが、声をかけられて当然の状況である。

「もうすぐ、おいしゃさん、くるからね。だから、なかないで。だいじょうぶだよ」

 医者がくるとは、この子供が宮廷医師を呼んだということなのだろうか。
泣かないで、とは、自分に対して言っているのだろうか。
何か言わなければ、そう思って口を開こうとしたが、襲いくるあまりの気だるさに、ルーフェンの意識はそこで途切れた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編) ( No.42 )
日時: 2017/12/16 20:47
名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

 ルーフェンは、夢を見ていた。
サンレードの人々を殺して以来、眠る度に見る恐ろしい夢だ。

 闇に引きずり込もうと伸びてくる無数の手と、自分を責め立てる声。
そして、怨みと絶望を孕んだ、多くの目。

「許して……! もう、絶対にしない! 絶対にしないから……!」

 声が枯れるまで許しを乞うても、それでも己に向けられた怨恨の嘆きは、鳴り止まない。

「もう、やめて……お願いだから、やめてくれ……!」

 耳をふさいで、うずくまる。
すると、どこからか別の声が聞こえてきた。

──もう、絶対にしない?

──あんなにも愉しかったのに……?

 脳裏に、人の死を笑っていた自分の姿が、鮮明に蘇った。
甘美な血の臭い、心地よい人々の断末魔。
嗚呼、なんて、なんて素晴らしい──。

「違うっ! あれは俺じゃない──!」

 叫んで飛び起きると、ルーフェンは呼吸を乱して、しばらく寝台の上で震えていた。
全身から冷や汗が噴き出して、顔もぐっしょりと濡れている。

 何度か苦しげに深呼吸を繰り返して、辺りを見回すと、そこはルーフェンの自室ではなく、王宮の客室であった。

「だいじょうぶ?」

 視界の下で声がして、小さい手がルーフェンの袖をぎゅっと握る。
先程、倒れたルーフェンに話しかけてきていた、小さな四、五歳ほどの少年だった。

「君は……?」

「…………」

 ルーフェンが問いかけても、少年は反応しない。
おかしく思ってよく見れば、少年は、耳に包帯を巻いており、聴力を失っているようだった。

 この少年から、状況を聞き出すのは、難しそうである。

 さて、どうしたものかと思案していると、もう一人別の気配を感じて、ルーフェンは顔を上げた。

「……お久しぶりです、次期召喚師様」

 目の前に立っていたのは、白髪混じりの髪を後ろで一つに結い、毛織りの衣を纏った、中年の男。
その優しげな目元を見た瞬間、ルーフェンは、鼓動が速くなるのを感じた。

「お加減はいかがですか?」

 それは、執務室から聞こえていた声であり、六年前にも聞いたことのある声であった。

「なんで……」

 ルーフェンの瞳が、微かに揺れる。

「サミルさん、どうして……」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編) ( No.43 )
日時: 2017/11/29 12:24
名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

 これまで、式典にも花祭りにも、晩餐会にも顔を出さなかったのに、何故。
かつて、自分の命を救ってくれたその人、サミル・レーシアスには、もう二度と会えないと思っていたのに。

 その瞬間、一気に色々な思いが込み上げてきて、ルーフェンは一度うつむいた。
小刻みに震える唇を、ぎゅっと結んで、そして、再びサミルの顔を見つめる。

 何と話しかけたら良いか、迷っていると、サミルが先に口を開いた。

「私のこと、覚えていてくださったのですね。それにしても、驚きましたよ。イオが、急に人が倒れているなんて言い出すものですから……」

 イオ、というのは、少年の名前だろう。
イオは、ルーフェンから離れ、サミルの元に駆け寄ると、にこりと笑った。
どうやら、彼が来ると言った『医者』とは、サミルのことだったらしい。

 サミルは、ぽん、とイオの頭に手をおいて、それからルーフェンの額に触れた。

「少し、熱があります。軽い栄養失調も起こしているようだ。どうしたというのです、あんなところに倒れて。それに、この包帯は一体……」

 ルーフェンの全身に巻かれた包帯を訝しげに見つめながら、サミルは問うた。
いつも穏やかだったサミルにしては珍しく、その眉間には、皺が寄っている。

「迷惑をかけてしまって、すみません……」

 ルーフェンがそう呟くと、サミルは、悲しそうに眉を下げた。

「誰が迷惑だなどと言ったのです。私は、貴方様を心配しているのですよ。王宮に入って、まともな生活が出来ているのかと思えば、随分とお痩せになられて……」

 サミルは、辛そうな表情を浮かべて、ルーフェンの頬を慈しむように撫でた。
温かくて、優しい手だった。

 ルーフェンは、思わず目頭が熱くなるのを感じて、声が出なくなった。

 本当は、王宮に入ってから、各街の領主たちが集まる行事が開かれる度に、ずっとサミルを探していたのだ。
けれど、一度だってその姿を見かけたことはなかったから、もう会えないものなのだと思い込んでいた。

 それなのに、まさか、こんな形で再会できるなんて。

「おいしゃさん、きてくれたね。よかったね」

 サミルの脇で、イオが言う。
ルーフェンは、それに対してぎこちない笑顔を返すと、イオも嬉しそうに笑った。

 サミルは、そんなルーフェンを眺めて、一旦その場から離れると、机においてあった壺から椀に牛乳を注ぎ、ルーフェンにそれを勧めた。

 微かに果物の香りがするそれは、六年前に飲んだものと同じもので、勧められるままに飲んでみると、あまりの懐かしさに、鼻の奥がつんとした。
口にしたものを美味しいと感じたのは、久しぶりだった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編) ( No.44 )
日時: 2017/11/29 12:25
名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

「貴方様がこの客室にいることは、誰にも伝えていません。少し、落ち着いて話しましょうか」

 ルーフェンは、こくりと頷いた。

「俺も、ずっと話したかったんです。でも、この前の式典ですら見かけなかったし、貴方とは、もう二度と会えないと思っていたから……」

 サミルは、すっと息を吸った。

「申し訳ありません。レーシアス家の者が式典等に参加するのは、あまり良く思われないのです」

 ルーフェンは、ゆっくりと首を振って、じっとサミルを見つめた。

「じゃあ、何故ここに? 執務室で、何を話していたんですか?」

「それは……」

 サミルは、言うか言うまいか、少し迷った様子で黙りこんだ。
しかし、ルーフェンがじっとこちらを見据えてくるのを見て、何か決心したように、口を開いた。

「……アーベリトが、難民の受け入れを行っているのは、ご存知ですね」

「はい」

 ルーフェンは、寝台の上に座り直して、頷いた。

「……しかし、最近は特に戦が多く、天候のせいか、貧しい村も増えている。難民は日に日に増して、もはやアーベリトでは、これ以上受け入れられません……施療院も、養護施設も、資金も、何もかもが足りないのです。ですから、陛下にそのことをお伝えしに参った次第です」

 サミルは、大きなため息をついた。
対してルーフェンは、怪訝そうに首をかしげた。

「でも、アーベリトの慈善事業は、シュベルテからも公認されていることでしょう? 援助がされるはずではないのですか?」

 ルーフェンの言葉に、サミルは首を振った。

「援助は、確かにされてますよ。ですが、この子達に関しては別です……」

 サミルは、イオを見ながら言った。
この子達、という言葉が、イオを指しているのは明らかである。

「イオのような子供たちは、急増しています。ですから、今日も含め、私はこれまで何度も王宮に訪れて、この子達でも援助してもらえるようにと頼んできたのです。しかし、それは叶わない」

「……何故ですか」

 眉を寄せて尋ねたルーフェンに、サミルは強い視線を向けた。
そして、まるで探るような目付きになると、はっきりと言った。

「この子達は……イシュカル教徒の子。イオは、半月前に焼かれた、サンレードの生き残りなのです」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編) ( No.45 )
日時: 2016/06/27 20:31
名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

 途端、胸の奥まで亀裂が入ったような、強烈な痛みが走る。
ルーフェンは、目を見開いたまま、言葉を失った。

「イシュカル教徒は、召喚師一族に対して否定的です。王宮にとって……シュベルテにとっては、言わば反乱分子のようなもの。援助される対象ではないのです」

「…………」

「サンレードだけではありません。暴挙に出たイシュカル教徒たちは、これまで何人も召喚師様の手により葬られ、その度に子供たちは帰る家を失っています」

 サミルは、ルーフェンの動揺した様子を見ながらも、あえて続けて言った。
ルーフェンの心中を、確かめたかったのである。

「サンレード、の……生き残りって……」

 ルーフェンは、全身が震えるのを抑えられなかった。
皮膚を突き破るような痛みが身体中を這い回って、黒い痣が、また広がったようだった。

「じゃあ……この子の、頭の包帯は……」

 弱々しい声を聞いて、サミルは頷いた。

「イオの場合は、首から頭にかけて、酷い火傷を負いました。聴力は、その時に失ってしまったようです」

 ルーフェンは、両手で顔を覆った。

 再び耳の奥から、自分を責め立てるサンレードの者達の声が、割れ鐘のように響いてくるような気がした。

 イオの顔も、サミルの顔も、見られない。
どんな表情なのだろうと想像することすら、恐ろしくて出来なかった。

「……俺が……」

 ルーフェンは、乱れた呼吸で呟いた。

「俺が……サンレードを、焼き払いました……。召喚術を使って、逃げ惑う人々を……俺は、殺した」

 ルーフェンは、顔を手で覆ったまま、絞り出すような声で言った。

「本当は俺だって、あんなこと、やりたくなかった……。だけど、もう、どうしようもなくて……! 悪魔の声がして、頭の中が、真っ暗になるんだ……自分の意思を乗っ取られたみたいに、思考を奪われて、何も考えられなくなって……!」

 ルーフェンは手を下ろすと、強ばった表情で、恐る恐るサミルを見た。

「皆が、俺に、人を殺せって言うんです。国を守るために、力を使って、人を殺せと。そうしないことは、罪だって……。もう、頭の中がぐちゃぐちゃで……っ、何が正しいのか、分からなくなる……!」

 サミルは、寝台に腰を下ろすと、ルーフェンの頭をそっと抱き寄せた。
優しいようで力強いそれに、ルーフェンはサミルの胸にしがみつくと、何かに耐えるように歯をぎりっと食いしばった。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編) ( No.46 )
日時: 2017/11/29 12:26
名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

「……貴方様のしたことが正しいのか、正しくないのか、それは私にも分かりません」

 サミルは、ルーフェンの体の震えが止まるように、頭を撫でながら言った。

「殺すことと守ることは、表裏一体なのです。貴方様がもし、サンレードを焼いていなければ、今度はサンレードの暴徒たちによって、新たに別の被害が生み出されていたことでしょう」

 きつくしがみついてくる手を、優しく握りこんで、サミルは、ルーフェンから身体を離す。

「けれど、殺しを良しと思うことだけは、あってはならない……」

 赤くなった目で、ルーフェンは、サミルの瞳に宿る儚い光を見た。

「誰が何を言おうと、そのままの心でいて下さい。六年前にも、言いましたね。次期召喚師様、人の死を悼む気持ちは、絶対に忘れてはなりません」

 サミルは、かすれた声で言った。

「……貴方様のように、どうしようもない状況に追い込まれて、結局そのまま壊れてしまった人を私は知っています。己の居場所を作ろうと、必死にもがいて……最終的に彼女は、自身の強さに陶酔し、おぞましい闇に取り込まれてしまった。……次期召喚師様には、彼女のようになって欲しくはないのです」

 サミルは、まだ微かに震えているルーフェンの手の上に、自分の手を重ねた。

「ご自分の立場ではどうにもならないことがあるでしょう。それでも、蔓延(はびこ)る闇に、耳を傾けてはいけません。心だけは、強く持って」

 サミルの目には、悲しさや苦しさ、それらが混ざり合ったような、複雑な色が浮かんでいた。
しかし、ルーフェンを責めるような色は一切ない。

 ルーフェンは、唇を噛んで頷くと、イオに視線を移した。
イオには、サミルたちの会話を理解できるはずもなかったが、それでも彼は、ルーフェンを真っ直ぐに見つめている。

「ごめん……」

 ルーフェンは、顔を歪めた。

「……本当に、ごめん」

 喉の奥からこみ上げてきた熱を堪えて、消えそうな声で告げる。

「君の人生を、奪ってしまって……」

 サミルは、イオを引き寄せて、低い声で言った。

「……サンレードの、イシュカル教徒の行いが正しいとも、言い難い。ですが、子供に罪はありません。凝り固まった思想は、傲慢な我々のものであって、子供達のものではないのですから」

 ルーフェンは、サミルの言葉を聞きながら、目を伏せた。

「この子達から全てを奪ったのは、紛れもなく王国の大人たちです。だからこそ私達には、この子達を守る義務がある。奪ったからには、新たな居場所を与えねばなりません」

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編) ( No.47 )
日時: 2017/11/29 12:27
名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

 ルーフェンは、浅く息を吸って、顔をあげた。

「……俺に、何か手伝えることはありますか。理由はどうあれ、直接的には俺が奪ったんだ。贖罪だなんて大層なことを言うつもりはないけど……責任を取りたい……」

 ルーフェンは、悲痛さの滲む声で言った。
しかし、サミルは首を横に振った。

「いいえ、その、お気持ちだけで。召喚師一族に仇なすイシュカル教徒の子に、次期召喚師である貴方様が手を貸したとあれば、周囲の反発を招くでしょうから」

「そんなの、どうだっていいです。反発だろうがなんだろうが、俺は……」

「次期召喚師様」

 サミルが、再び首を振る。
ルーフェンは、一度口を開いたが、何かを言うことはなく、そのまま黙りこんだ。
頭に渦巻くこの思いを、どうサミルに言えば良いのか、分からなかった。

 サミルの手が、ルーフェンの頬に触れる。

「恐れながら……貴方様も、まだ子供です。生まれる場所を選べなかった、まだ十四の少年なのです。ですからどうか、無理をなさいますな」

「…………」

 サミルはうつむき、悲しげに言葉を紡いだ。

「……ルーフェン様、召喚師という柵(しがらみ)から解放できない私を、どうぞお許しください。それでも私は、本当に貴方様の幸せを願っています。せめて、これ以上の災いが、貴方様に及びませぬようにと……」

 サミルは、ルーフェンの頬にかかった髪を、さらりと払った。
ルーフェンは、その手をぎゅっと掴むと、目線を上げた。

「……サミルさん、貴方の力になることを、災いだとは思いません。それに、俺は確かに子供ですが……ただの子供じゃない」

 窓から射し込んだ夕暮れの残光が、ルーフェンの顔に影を落とす。
その表情の奥によどむ、ひどく大人びた陰を、サミルははっきりと見たような気がした。

 ルーフェンは、サミルの手をするりと外すと、微かに笑みを浮かべた。

「……サミルさん、ありがとうございます。ずっと、貴方にはお礼を言いたかったから、今日、言えて良かった」

 今朝までとは比べ物にならないほど、心中が穏やかになったのを感じて、ルーフェンは微笑んで見せた。

「もう、戻ります……」

 サミルは、ルーフェンの言葉にはっとして、辺りを見回した。
部屋の中には、夕暮れの光がたゆたっている。
話を聴くつもりが、いつの間にか夢中になっていたのは、自分の方だったらしい。

 申し訳なさそうに頭を下げると、サミルは苦笑した。

「これはこれは……大変申し訳ありません。随分と長く引き留めてしまっていましたね」

「いいえ……」

 ルーフェンは、相変わらず疲れたような顔をしていた。
しかし、その顔には、心に溜まったものが取り払われたような、すっきりとした表情が浮かんでいた。

「また、会えますか」

 ルーフェンの問いに、サミルは頷く。

「ええ、きっと。貴方様がそう望んで下さるのならば」

「……はい」

 ルーフェンは、サミルの目を見て、表情を和らげた。
次いで、サミルの腰辺りにしがみついているイオを一瞥すると、最後に一度頭を下げて、部屋を出た。

 それを見送った後、サミルは寝台に腰かけると、膝の上で組んだ手に、額つけて目を閉じた。
手の震えが、おさまらない。
そうして脳裏に兄の姿を思い浮かべると、サミルは深く溜め息をついた。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編) ( No.48 )
日時: 2015/11/06 17:23
名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: Ga5FD7ZE)

 ルーフェンが戻ると、アレイドはまだ部屋の扉の前にいた。
壁に寄りかかって俯き、そして、ルーフェンの姿を認めると、気まずそうにこちらを見た。

 まさか、ずっとここで自分の帰りを待っていたんだろうかと、ルーフェンは内心驚いた。
しかし、それを口に出すことはせず、また、アレイドも、何を話せば良いのか考えているようで、しばらくは互いに黙ったままであった。

 部屋の前で佇む二人の間に、静寂が流れる。
それを先に破ったのは、ルーフェンの方であった。

「……ねえ」

 声をかけると、アレイドは、びくりと顔をあげた。

「な、なに?」

「今、講義ってなにやってるの?」

 予想外の質問だったのか、アレイドは拍子抜けしたように、数回瞬きした。
てっきり、今朝言い争ったことに関して何か言われると思っていたのだが、そうではないらしい。

 アレイドは、困ったように口ごもると、ここ何日かの講義内容を思い出すべく思考を巡らせた。

「……えっと……兄さん大分長い間、講義に来てないし、その間に色々やったけど……」

「……うん」

「とりあえず、昨日は古語をやったよ。古代魔術に関する、魔導書の読解。あとは、政のこととか……」

 質問の意図を伺うように、ちらちらと視線を送りながらアレイドが答えると、ルーフェンは、古語か、と一言呟いて、眉をひそめた。
それからルーフェンは、何かをじっと考えながら、尋ねた。

「……地理や歴史もやるでしょ? あと、経済学とか」

「う、うん……そりゃあ、もちろん」

 こくこくと頷くと、ルーフェンが一歩前に出て、アレイドに近づいた。

「それだ。それの、教本貸して」

「それって……地理とか歴史の?」

「そう、あと経済学」

 あくまで落ち着き払った様子で言ってくるルーフェンを、アレイドは少し戸惑ったように見つめた。
内容はともかく、こんな風にルーフェンに頼み事をされたことなんて、これまで一度もない。

Re: 〜闇の系譜〜(サーフェリア編) ( No.49 )
日時: 2016/05/02 00:21
名前: 狐 ◆4K2rIREHbE (ID: C8ORr2mn)

 アレイドは、またルーフェンの怒りに触れないだろうかと考えながら、慎重に言葉を選びつつ、言った。

「それは、構わないけど……普通に、明日から講義に出ればいいじゃない。そろそろ出ないと、いくら兄さんでも、ついていけなくなっちゃうよ」

 ルーフェンは、首を横に振った。

「自分で教本読んで覚えた方が、早い。……いいから貸して」

 不機嫌ではないようだが、もはや聞く耳持たずなルーフェンに、アレイドは仕方なく頷いた。

「分かったよ。じゃあ、とりあえずは地理の教本だけでいい? 経済学と歴史の教本は、明日の講義で使うから……」

「いや、全部持ってきて」

「えっ、全部?」

 アレイドは、驚いたように目を見開いた。
そして、否定するようにルーフェンの前で両手を振った。

「そっ、それは無理だよ……教本なしで講義に出たら、怒られちゃうもの。それなら、兄さんは図書室で借りてよ……。教本があるかは分からないけど、図書室なら詳しい文献とかあると思うし……」

「大丈夫。今晩全部読んで、明日の朝に必ず返すから」

 ルーフェンは、まるで何でもないといった様子で、はっきりと言った。

「いやいや、一晩でなんて無理だよ。教本といっても、すっごく分厚いんだよ?」

「知ってる。俺だって講義には出たことあるし、魔法学なら何冊か教本持ってるから。でも、あれくらいなら出来るさ。別に、全項目完璧に読み込むわけじゃないんだ」

 綽々と言い切ったルーフェンに、アレイドは言葉を失った。
同時に、これ以上は何を言っても変わらないだろうと悟ると、再び頷いた。

 ここで何か反論して、また今朝のようにルーフェンと喧嘩になっては敵わない。
一晩教本を貸すだけで、彼が満足するならそれでいいじゃないかと、アレイドは自分に言い聞かせた。

「……じゃあ、離宮から持ってくるから、兄さんはちょっとここで待っててくれる?」

「……分かった」

 ルーフェンが頷いたのを確認して、アレイドは離宮の方に体を向けた。
だが、ふと足を止め、顔だけルーフェンの方に振り返ると、躊躇いがちに尋ねた。

「……でも、兄さん。なんで急に教本を貸せなんて言ったの? 学問なんて、前まで全然興味無さそうだったのに……」

 すると、ルーフェンは、心なしか表情を明るくして、言った。

「……やりたいことが、できたんだ」

 その口元が、微かに弧を描く。

「やりたいことができたから……そのために、知識を増やそうと思って」

 いつになく力強く言ったルーフェンの、光を宿した銀色の瞳を見ながら、アレイドはどきりとした。
ルーフェンのこんな表情を見たのは、初めてであった。


To be continued....