複雑・ファジー小説
- Re: 朝陽5話 ( No.5 )
- 日時: 2015/02/11 01:10
- 名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: 95QHzsmg)
そう言うと先生は一瞬驚いたように目を見開き、にやりと笑った。
「ありがとう、と言っておいてくれ、そう頼まれたよ。アホ面下げてタダ見していたカミオカシンジが、誰にも口をすべらせなかったから、毎朝集中して踊れたんだ、ってな」
先生はぽんと、まるでドラマのなかの登場人物のようにかっこつけてぼくの肩を叩き、歩き出した。
ぼくはなにも言えなかった。思いがけない言葉と思いがけない真実が、ぐるぐると頭の中をかき乱し、爆発しそうだ。
「ああ、もうひとつ、忘れていた」
先生はぼくを振り返らなかった。肩越しに手を振って、あやめだ、と言う。
「カミオカシンジはばかだから、きっと自分の名前は読めないだろう。あやめ、黒白と書いてあやめと読む、古文のテストに出るぞ、だとよ」
アホ面だとか、ばかだとか。あのひとらしい口の悪さに、苦笑いが込み上げる。
職員室へと消えていった先生の背中にちいさく頭を下げて、あらためてプレートを見る。
スイス・チューリッヒオペラバレエ学校
加藤黒白
「かとう、あやめ」
口に出して読み上げたとき、プレートの文字が歪んだことに気がついた。
早朝の澄んだ空気を切り裂くように鋭い山鳥の声が響き、遠くで朝練に励む高校球児の威勢のいい掛け声があがる。
校内でいちばん朝陽が強く集まるからと、彼女が気に入っていたあの踊り場ほどではないけれど、この場所にも朝のはじまりを告げる光は乱舞する。
ぼくは瞑目した。熱いものがまつげをわずかに濡らしたが、まなうらの残像ははっきりとしてにじむことはない。
ぴんと伸びた背筋が心地よかった。
神経の行き渡っている指先がいろっぽかった。
制服のスカートを恥じることなく閃かせて、高く上げる脚が奇跡のようにうつくしかった。
逆光のせいで多少はごまかされていたのかもしれない。
けれどぼくは、あれほどきれいな踊りを見たことがなかった。
——初恋のせつなさを知らなかったように……。