複雑・ファジー小説
- Re: アネモネを敷き詰めた棺桶に ( No.8 )
- 日時: 2015/10/19 21:38
- 名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: lyEr4srX)
- 参照: 第一章 紫煙
ハルティエン地区が抱える巨大都市——別名ユースティリア——は地区最大規模の観光都市として他国から有名だ。年間数百万という人が訪れ、住宅は僅かしかない。今日も変わらず、バスから降りてくるツアーの団体や、スーツケースを引いた家族連れがすれ違っていく。
ブランドショップやアンテナショップが多く混在する、ユースティリア中央街。連日引っ切り無しに行われる路上の大道芸に、数多くの観光客が足を止めていた。その道中ひっそりと姿を見せる細い路地裏で、三人の男が細かいところまで見落とさない鑑識のような目をして、先を進んでいる。
着ていたスーツから少し前に買ったカジュアルな服に着替え、久泰はじっくりと辺りを見ながら歩いていた。その後に漆原、杲と続く。杲は何処か怯えているように、眉尻を下げ漆原の後ろに隠れていた。
三人とも私服を着ているため大通りを歩けば、誰からも観光客と思われるだろう。けれど大通りはほんの僅かしか歩くことなく、路地裏をずんずんと進んでいく。
「漆原さん。此処からテル=ベラのあそこまで最短距離で行ったとして、どれ位の時間かかるんです?」
ひんやりとしたアスファルトむき出しの壁に手を付く久泰は、頭上を見上げながら漆原に聞く。杲がテル=ベラへ行くことを知っているか否か、今久泰の思考には無かった。ただ興味の全ては深夜からのことで埋め尽くされている。
その様子に苦笑いを浮かべる漆原を、杲は静かに見つめていた。
「徒歩で向かうのであれば、半日近く掛かるだろうな。今回は途中何かしら竹光が用意するらしいから……ざっと見積もって三時間弱じゃないか?」
「ありがとうございます」
久泰は既に自分の世界に入ってしまっており、返事も上の空。考え込んでいるのか、顎に手を当て一人で奥へと進んでいってしまった。
置いてきぼりをくらった二人は顔を見合わせ、足早に路地を曲がっていく久泰をマイペースに追いかける。何度か通ったことのある路地裏を、漆原と杲は特に気に留めずに進んでいた。
鉄格子の嵌められた窓、カラースプレーで彩られたアスファルトの壁、観光都市らしくない古いトタン屋根に遮られる日差し。少し変わったことといえば、壁の絵が新しく上書きされていることくらいだ。
「——行くんだ」
テル=ベラに。杲はたっぷりと間をおいて、そう漆原に言う。正確には、さも独り言であるかのように、溜まっていた息をゆっくり吐き出すように、静かに言った。大通りで呟いたなら、誰の耳にも止まることなく消えていたほどの声量。
「お前は本当に留守番でいいのか?」
「どうしてそんなに連れて行きたいの?」
漆原の黒い瞳を、黄緑色の瞳が見上げ、見つめる。目に掛かるほど長い金髪の隙間から覗く杲の目。漆原は一度薄く笑って、路地を曲がる。軽くためた息を吐き出し、漆原の後を追った。
漆原は路地を曲がってすぐの所で立ち止まっていて、その背中に「どうしたの?」と問いかけるが返ってこない返事に、首をかしげた。
「久泰が、いなくなった……?」
目の前に続く一本道の路地に、先に歩いていった久泰の姿が無いことに、漆原は驚いていた。漆原の言葉を聞き、杲は不思議そうな表情をしてみせる。
「でも、ここ前来た時は何も無かったよ? ずっと先に進んじゃってるとかじゃないの?」
「前は、な。今何があるかも分からないから、何ともいえないな。取り敢えず、杲。竹光に連絡して、久成って人と二人で来てもらうように頼んでくれ。俺は先に探しに行くから、杲は二人と合流してからまた連絡をよこせ」
早口で告げ漆原は返事を待たず、路地の奥へと駆けていった。後姿を見つめるだけの杲は、強く唇をかみ締めてポケットから携帯を取り出す。
「——ん?」
ぼやけた視界に、淡いライトが映りこんだ。中々焦点が合わなく、もどかしさが爆発しそうになる。徐々に視界が明瞭になってくるにつれて、感覚が戻ってきた。何かに殴られたように痛む後頭部と、動かそうとしても動かない腕。
変な想像が生まれたが、まさかと鼻で笑ってみせる。違和感があるくらいの静けさだったが、数回しか訪れたことのない——といっても全て観光だ——場所で検討がつかないのは、当たり前だった。
一度深く深く呼吸を繰り返し、現状の確認に入る。落ち着かないままでいるのは、自分で自分を殺すようなものだ。全体的に灰色がかった部屋。簡素な裸電球が、天井に一つだけぶら下がっている。
首を右に動かした瞬間、不意打ちで痛みが走った。血が乾いている感じがないことから、殴られるか何かしたときに打撲したんだろうと、ため息混じりに考える。窓に嵌められたちゃちな鉄格子を壊せば出られないことはないが、無駄に発達した身長と筋肉のせいで、出ることは困難だ。
「こんにちは、ザ・ルードゥ」
どうせ男だろう、という思考はばっさり切り捨てられた。
「じょーだんきっつ」
これぞ悪役女と言えるような格好をする、自分よりは年上のように見える化粧が濃い女。ブルーのアイラインを厚くぬり、唇に真っ赤なルージュを重ねている。
第一印象から重たい女だなあと思った瞬間、ずかずか近づいてきたその女に、頬を思い切り平手打ちされる。産まれて初めて女に平手打ちをされた事実に、久泰は内心面白さを抱いた。
「坊やは何しにアタシ達の領域に来たのかしら? 最近は私服警官、とかもいるじゃない? 警戒してるのよね、他の勢力ってやつ」
殴られたらしい後から続く頭の痛みが、キスできる距離まで近づいたところで話す女のヤニくささで、増す。慣れないヤニと香水が混じったにおい。反応のない久泰が面白くないのか、女はもう一度、今度は左の頬を平手で打った。
「ザ・ルードゥとか、面白いあだなを有り難う御座います。取り敢えず、俺の仲間がくるまで仲良くしません?」
口の中が切れているらしく、舌に唾と血が絡まる。味わいなれた独特な風味が、口中に広がった。女をじっと見据える久泰の目に、女はゾクリと悦にも似た快感を感じた。