複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.10 )
日時: 2016/10/30 02:52
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: HccOitOw)

 ——あっという間に、七回陽が昇って落ちた。
 これから一週間は快晴が続くであろう、そんなことを予感させる肌寒い秋の朝が、出立の日になった。

 プレシャ大陸の南、蕩々(とうとう)と蒼い水を湛える海の上。
 眩しいほど真っ白な、俺の何倍もありそうな金属の“鳥”が、時折打ち寄せる波に微か揺れる。二対四枚の翼を持つそれは、今はまだ沈黙を保っているが、動きだせばそれはそれは大きな咆え声を立てるのだろう。俺達の背後、遠巻きに見物している者どものヒソヒソ声など、跡形もなく掻き消してしまえる程度には。
 四枚の翼の間に渡された太い鉄の棒、それに引っ掛けられた金具と紐が、波に機体の揺れる度にギィギィと怪しい音を立てて軋る。見るに牛を括れるほど太い紐なのだが、それを軋ませる程度には重たいらしい。
 始動の合図を待つ白い巨鳥をぼんやり眺めながら、零れた声は掠れた。

「……これが」

 “疾風”アエロー。
 十万を超す猛禽の群れをたった一機で圧倒し、全面勝利を成し遂げた、伝説の撃墜者。「隼より尚早く、鷹より尚優雅に舞う」とさえ猛禽達に言わしめた、竜巻の守神の名を冠する冷たい鳥。ほんの少し触れることさえ躊躇してしまうほどの皓皓たる様は、成程守神の名前が付けられるだけある。
 話では何度も聞いてきたし、猛禽の老師からアエローの写真を見せられたことはあるけど、実物を見るのは本当に初めてだ。威容にぼけっと見惚れていたら、ぐいっと頭を鷲掴みにされた。

「ぼーっとすんな、ぶっ飛ばされんぞ」
「誰に」
「コレにさ。動力炉動かす時に竜巻起こしやがるのよ、このお転婆ちゃんは」

 ロレンゾだ。今から長旅をするからだろうか、いつも雑貨屋の店主としてブイブイ言わせている時のような袖なしの服ではなく、長袖のしっかりしたつなぎをガッチリ着込んでいる。何の為か革製の分厚い手袋までしていて、軽装の姿ばかり見てきた俺にはちょっと不思議な気分だ。
 四十年前はこんな格好してたのか、とまじまじ見ていたら、またぐいと頭を掴まれる。そのままヘルメット越しにわしわし撫でてくる手を引っぺがすと、彼は困ったような笑みを浮かべた。

「もっかい会おうぜ、ちゃんと生きてさ」
「……奥さんに言ってやれよ、同じこと」
「そう言われると困っちまうな」

 更に困り顔。もう喧嘩しまくって疲れた、と続けて、ロレンゾはそれ以上何も言わずに、主を待つアエローの傍へ歩み寄っていく。
 その後ろ姿へ、何か言いたくても言葉が見つからない。もやっとした気分を抱えて立ち尽くす俺のすぐ後ろから、玲瓏としたソプラノの声が投げつけられた。

「待って、ロレンゾさん。振り向かなくっていいから」
「ラミー? 手前一体——」
「はーいはーい振り向かなーい!」

 俺には一切視線も向けず、彼方此方を飾る銀鎖からしゃらしゃらと涼やかな音を立てながら、まるで当たり前のように悠然と空を泳ぐ小さな人魚——ラミー。
 「やりたいことがある」と言って数日姿を消したまま、今の今まで俺すら所在を知らなかったのだが、一体何処へ行っていたのだろう。同じ疑問を抱いて振り向きかけたであろうロレンゾは、言い掛けた言葉を思いの他強い語調で遮られ、慌てたように元の方へと向き直った。
 ちらと横目に見れば、彼女は手にトネリコとクルミの小枝を一本ずつ握りしめている。よく見れば枝と葉は水でびちょびちょだ。
 何をするのだろうか。じっと見ていると、ラミーは静々と水に濡れた枝を掲げた。続けて、澄んだソプラノの声が、いつもとその調子を変えて言葉を紡ぐ。
 歌うような言葉は、まるで夜の闇に立つ先達のように、不思議と意識を引き付けた。

≪奇跡を導く世界樹の末裔と、水辺に佇める頑強な者の力を借りて、深層の守神『泡沫の歌うたい(メロウ)』の姫より、貴方達に水の祝(ほが)いと幸いの力を手向けます≫

 しゃん、とまた音は涼やかに。
 振られた瞬間に枝から離れた水滴が、きらきらと朝の日に光る。

≪歌いましょう、貴方達の旅とその御身に、凪にも似た平穏あれと。願いましょう、貴方の見る景色の全てに、夜の珊瑚に見る鮮やかさがあらんことを≫

 もう一度、同じ音。
 空に飛んだ雫が地面に落ち、波が一度打ち寄せる音を一度聞いた所で、少しだけぼうっとしていた意識が現実に引き戻される。
 ハッとして、隣に佇む人魚姫を見る。彼女は実に楽しそうな笑声を上げて尻尾を虚空に打ち付けた。しゃん、と尾を飾る銀鎖が冷たい空を揺らす。

「お母様とお父様からの受け売りだけど、水難除けのおまじない。お母様がよく歌ってたんだよ」
「人魚姫の水難除けか。さぞかし凄いおまじないだろうな」
「勿論っ、守神様直々のお守りが効かないわけないでしょ〜」

 ほんの少し、近くで見てやっと分かる程度の苦さを含ませて笑うロレンゾに、ラミーは自信満々に親指を立てる。かと思うと、彼女はそっと目を伏せ、それでも気を付けて、と小さな声で呟いた。
 老いた鳥が若鳥のように長くは飛べない。ロレンゾとて、英雄と騒がれ讃えられていても、老いと衰えが来ていることには変わりない。ましてや彼が挑むのは、彼等以外の陸生者は夢見るしかない空なのだ。万が一をいくら心配しても足りないことはないだろう。
 だが、ロレンゾは笑った。いつものように。

「俺の軍役時代のあだ名、何か知ってるか?」
「?」

 英雄だとか撃墜王だとか、そう言う風にあだ名されているのは知っているが、口ぶりからするにそうじゃないのだろう。首を傾げて答えを促すと、彼はぐいっと顔をこっちに向けて、にやっとばかり歯を見せて笑った。

「“フラグブレイカー”ってな」
「ふ、ふら……」
「俺が一緒の部隊にいると全然キマらんのよ、玉砕って奴が。カッコ悪いったらねぇな!」

 引きつり笑い。俺が。
 正直フラグとやらの隠喩的な意味は良く分からないのだが、要するにロレンゾがいると“物語のお決まり”が成就しないと言うことだろうか。吟遊詩人やロマンス好きが聞いたら「そこは潔く散れよ! 男らしく!」とか言って激怒しそうだ。
 けれど、そうしたお決まりを破ってこその英雄なのだろう。

「安心しろ。白旗なんぞヘシ折ってやるから」
「——それは大層頼もしいな?」

 旗を折るジェスチャーなのだろうか、棒を引き倒すように拳を動かし、何処かしたり気にぐつぐつと喉の奥で笑い声を押しつぶしたロレンゾへ、やや皮肉なものが籠ったしゃがれ声が突き刺さった。
 低く重く、あくまで冷静な老爺の声。振り向けば、視線がかち合う。狼すら視線で殺せるのではないか、と錯覚するほどに鋭い光を讃えた空色の双眸を、俺は一瞬以上直視できなかった。

「待たせたな。弾の調達に手間取った」
「何、面倒な注文付けちまったかんな。おあいこだ」

 思わず明後日の方に顔を向けた俺達には一瞥もくれず、がっちりした軍靴の踵で柔らかい海岸の砂を踏み付けながら、一直線に金属の白鳥に向かってゆく黒いトカゲ。ロレンゾと同じような長袖の作業着を着込み、操縦手より大量の荷物を抱えてはいるが、それでも彼が誰かは分かる。
 そうだ。大鍛冶師ベルダン以外に誰が居るものか。

「動力炉は普通のエンジンに積み替えてある。性能の限界まで改造はしたが、それでも昔ほどの力は出せん。一日中飛べるほどの持久力もない」
「構うものかよ。老いたなら老いたなりに飛ぶさ」

 だが今の彼は、かの戦争が生み出した二人目の英雄、それ以外にあり得ない。
 愛娘にでも触れるかのような手つきと、鍛冶師にはない鋭利で憂えた横顔が、誰よりも、何よりも雄弁だった。