複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.11 )
日時: 2016/10/30 02:55
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: HccOitOw)

 水平線から顔を出し切った太陽が、階海(きざはしのうみ)を眩く照らす。
 まだまだ暗い、橙がかった色の光の中で、いよいよ巨鳥が空を飛ばんとしていた。

「見渡す限り障害無し。敵影無し。機体好調」

 真っ白な翼の上に臆面もなく両足を載せて立ち、あの時ロレンゾが俺に渡した鍵を動力炉の鍵穴に差し込んで、ベルダンは平生と何も変わらない、落ち着き払った声で何やらロレンゾに告げている。アエローの操り手は、彼一人がようやく入るくらいの狭い座席に身を押し込め、席の縁のところで頬杖をついていた。
 言葉はない。後ろからでは、彼がどんな顔をしているのかも伺えなかった。ベルダンなら横顔が此方から見えるが、穏やかとすら思えるほどの無表情のままだ。
 怖いとか、不安だとか、そう言った陸生者の感じるような感情は最早、この二人にはないのかもしれない。空を飛ぶこと自体も、空を飛ぶための冷たい巨鳥も、彼等の恐怖や不安を煽る要素にはならないのだろう。

「此処から先、俺の声は届かん。健闘を祈る」
「任せな、相棒」
「戯れ言を」

 ぼそぼそとした会話が微かに此方まで届く。最終確認と言うことだろうか。
 ベルダンの手が、ほんの一瞬だけ躊躇うように宙を彷徨って、鍵を回した——途端。

「……!!」
「わ、わっ、ひぇええ……!」

 全身を浮き上がらせるほどの、突風。
 隣人の声すら吹き飛ぶほどの、爆音。

 強烈な辻風(つじかぜ)に思いっきり顎をカチ上げられ、一瞬視界が逆さまになったかと思えば、俺は柔らかい砂に頭から落ちていた。首痛いとか、何事かとか一瞬色々脳裏に過ぎったが、続けて到来した砂嵐でまたそれどころじゃなくなった。
 全身に猛スピードの砂がぶち当たってジガジガと痛い。オマケに体勢が逆さまなせいで頭に血が上る。何とかして身体を起こそうともがいてみるものの、翼が風を変に掴んでしまって余計地面に押し付けられる始末だ。

「ぃって……! こンの、野郎ッ!」

 血が上り切る前に、翼を無理やりトカゲの腕みたいな角度に捩じって、身体を横転させた。翼の付け根の辺りからちょっとしちゃいけない音がした気がするけど、全部風音のせいにする。
 立ち上がらずその場に伏せたまま、首だけを巡らせ、掛けたゴーグルをもう一度しっかり掛けなおして、風の主の方を見た。

 ——鳥が、飛ぼうとしている。
 杭と紐の戒めは全て外され、動力炉から上がるけたたましい咆哮はますますその音量と音階高らかに、動力炉から繋がる三枚の羽は最早その形が追えないほどの速さで回転し、今にも飛べると全力で主張していた。
 今まで立っていた右の翼から、ロレンゾの真後ろに取られた小さな座席に身を滑らせながら、ベルダンが何某かロレンゾに向かって叫んでいる。だが、これほどの咆え声を前にして、その声は通じない。
 代わりにベルダンは、操り手の顔の真横に手を出し、進め、とでも言うかのように、人差し指を立てた。

「——!——!」

 ロレンゾが少しだけ首を後ろに捻って、何か叫び返している。後ろでベルダンがしきりに首を振っているのは、聞こえないと言うことだろうか。
 やけになったように何やらわあわあとロレンゾが叫んでいる内に、動力炉から響く咆哮の音が更に高くなり、ごん、と何か重たいものが揺れる音が、金属の舟全体から響いた。
 それがどう言うことなのかは分からない。ただ、動きがあったことだけは確かだ。それを証明するかのように、操り手が慌てて首を前に戻し、それでもちらちらと後ろを向いて、それが何度か続いた所で、意を決したように右だけしかない手でサインを送った。

「!」

 ぴっ、と勢いよく立てたのは、親指。

 ——何もかも大丈夫だ。
 ——全部任せろ。

 そう言っているようだった。

「…………」

 鳥が、遂に波間を動き出した。
 動力炉から立てられる叫び声の音階はもう上がらない。同じ高さと大きさを維持したまま、水上を滑るその速さだけが次第に上がるだけだ。そして、鳥のすぐ後ろでは、その足——曰く、水に浮いた状態を保つ為の降着装置(フロート)——が水を蹴立てて波を作っている。
 白鳥が飛び立つときみたいだ。風に煽られながらそんなことをチラと思ったその瞬間、俺の何倍もある金属の巨体が、海面を大きく跳ねた。
 着水した、と言うよりもむしろ、岩か何かを投げ込んだような音が一つ。一旦は低空に放り出された機体がもう一度、斜めに水面へ突っ込んで、大きく張り出した翼が波を切る。が、すぐにまた低空へ身を投げ出し、今度は、フロートが青い海を一瞬蹴り上げた。

「進め進めーっ!」

 楽しそうな声に目をやれば、いつの間に戻ってきたのだろう、何処かに吹っ飛ばされていたはずのラミーが、俺の横でトネリコとクルミの枝をぶん回しながら声を張り上げている。
 そして、そんな声に後押しされるかのように、アエローは遂に水からその身を離した。

「ぉおおっ」

 どよめきが辺りから巻き起こる。だが、俺はそんな声さえ失っていた。
 ——迅い。
 俺の目の前で、あれほど大きかった鳥は見る間に小さくなってゆく。飛び立った海鳥と同じように、アエローの疾駆もまた恐ろしく速い。夢か奇跡か、あるいはもう冗談のように。

 “疾風”アエロー。そして、その操り手。
 かつて空を支配した、その才が衰えたなどと、今の姿を見た誰が言えるものか。