複雑・ファジー小説
- Re: タビドリ ( No.21 )
- 日時: 2016/06/03 01:57
- 名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: ZExdpBCU)
アエローの急襲から、どれ位経っただろうか。
気勢を取り戻した俺達が再び下山を始め、『登山口』と書かれた看板の根元まで来たときには既に、見上げた空は茜色に染まっていた。本当なら日が暮れる前には降りられるはずだったのだが、ちょっと腰の抜けていた時間が長すぎたようだ。
「そろそろ行くかー……ラミー、行くぞー」
「はいはーい!」
看板の傍で少し足を休め、さあ歩き出そうと意気込んだ所に、一陣の風。木の葉を揺らしながら吹き抜けるそれは、穏やかだがひどく冷たい。ふと気になって目をやれば、ラミーは自分で自分を抱きすくめながら、ひぇーとかひょぇーとか変な声を上げている。寒いらしい。
まあ、当然か。下半身はともかく、上半身は胸当てと腕飾りしか着けていない。俺達鳥と違ってヒトは羽毛なんて持っていないし、丸出しの肩に寒風は堪えるだろう。
あんまり寒がらせるのも気の毒だし、風邪を引いてもらっても困る。ひゃーひゃー言いながら、その長い髪をマフラー代わりに巻き付けようとした手を留めて、羊毛のストールを頭に投げつけた。
「髪じゃ流石に無理だろ。貸してやるから」
「わわわっ、ありがとー。うひょーあったかー! でかーっ!」
隅に縫い付けられたタグを見るに、製造元は“紡ぎ家ペトロ”。ブランケットと言っていいくらい大判の、白地に橙色の格子模様を入れたストールだ。中古品だが質は上々で、薄いがかなりふかふかで暖かい。
こんなに上等な布、ここ最近は物価が上がって市場に並ぶこともなかった。手に取る機会なんて尚のこと無かったから、ラミーにとっては物珍しいだろう。その証左と言うべきか、彼女はきゃーきゃー黄色い声を上げてひとしきりそこらを飛び回ったかと思うと、ぼさっと勢いよく頭から被った。
……元々俺用の防寒具だから仕方ないけど、ちょっと大きすぎたらしい。頭から被って身体に巻き付けても、端が尻尾より長くはみ出している。後ろから見ると、その辺の子供がよく軒下に吊り下げている、昔からの晴天のお守りみたいだ。本人が満足なら別に良いが、これならもう一回り小さいのでも良かったかもしれない。
「早くはやくー」
「分かった分かった、分かったからちょい離れろ。くっつくな。ひらひら邪魔」
防寒して俄然元気になったラミーを押し留めつつ、俺は山麓の広きを覆うトウヒの樹海の脇を、少し急ぎ足で通り過ぎる。
勿論、迂回路をぐるりと回るより、森を一直線に抜けた方が早い。けれども、コンパスはおろか渡り鳥の勘さえ狂う森の中を、そろそろ暗くなろうかと言う時に突っ切るのは流石に危険すぎる。野良の狼や熊がうろついていると言う話も聞くし、体力的にも冒険する余裕はない。
おまけに、目的地はペンタフォイル山麓駅——地獄の一丁目と悪名高い、戦場に一番近い街。一晩の宿を取るのも危うい街へ赴くのに、命さえ危うい場所を抜けていく必要もないだろう。
「だから邪魔だって。くっつくなよ」
「んむー……エディちょっと冷たいよぅ。疲れてる?」
「結構。夢見が悪かったからかね」
此処一週間、戦場のことを毎晩夢に見てぐっすり寝られなかったのは事実だ。これが一日二日ならすぐ忘れられたものを、一週間ぶっ続けで見せられると流石に辛い。辺り散らすと空気を悪くするからなるべく繕っていたのだが、日暮れが近づいて綻んでしまったか。
ペンタフォイルに向かう以上、まだしばらく良い夢は見られそうにないけれど。せめて一晩だけでも個室が取れますようにと、御祈りくらいはさせてもらおう。
そのくらいの高望みなら、きっとバチは当たらない。
「あー……生憎だけど、個室は全部埋まっててね。一階で雑魚寝するしか部屋が無いんだわ」
「やっぱり——いやでも、一晩頼む。この辺りで野宿なんてやってらんないから」
「悪いね、兄サン。布団は良いのにしてやるから。ほんと悪い」
「そんな謝んないでくれ、こんな時期にいきなり訪ねた俺も悪いんだ」
なんて、無理に元気を出してみたところで、高望みは高望み。
俺は申し訳なさそうな顔で平身低頭する羊の店主に頭を上げさせ、ストールを畳んだラミーは宿の帳簿にサインする。猫の仔みたいに小さな手は長い鉛筆を持て余し、しかし並べられる字は印刷物のように整然と欄内に収まった。ゴカイがのたくったみたいなのしか書けない俺とは大違いだ。
さて、帳簿に記名し終わり、宿代を払って、その辺から引っ張り出した椅子に落ち着き。はぁ、と思わず溜息を零したその途端、今の今まで忘れ去っていた疲労が、音さえ立てて全身に雪崩れ込んできた。今までの何倍も身体が重たくなったように感じる。
「兄サン、さすがにそりゃあどうかと思うよ」
「嗚呼、ごめん。丁度良くってついつい」
「ふぅん。鳥ってみんなそんな風に座るのかい?」
「いや、椅子自体ほとんど使わない」
俺だって普通は使わないのだが、背もたれの高さが首置きに丁度良かったもんだから、ついつい変な風に座り込んでしまった。けれども、やっぱり椅子を前後反対に使うのはだらしなかったようだ。
呆れた表情で腰に手を当てる羊の店主には謝罪を一つ、しっくり収まりかけた心中を叱咤して椅子から降り、何となく椅子を元の位置に戻しておく。あんまり物の位置は動かさないでくれ、と困ったように笑う店主に頭を下げた。
「何かもう、ごめん色々と」
「何、ペンタフォイルなんかに泊まろうって客は皆そんなもんさ。おいさんのトコは荒くれ者お断りだけどね、兄サンみたいに良く分かんないことやってくれるのはうちにも居る」
「お、おう……?」
この言い方、悪気はあるのかないのか。
多分ないんだろうけど、目の前に本人がいるのに「良く分かんないことやってくれる」奴の引き合いに俺を出さなくても良いじゃないか。微妙な笑顔も付けやがって、結構傷付いたぞ。
飛び掛かりたい衝動は抑えつけたが、顔はあからさまに引き攣った。
「ま、西明かりが消えるまでは待っといておくれよ。入り口閉めてから布団出すでな」
「あいあい、良ければ寝心地の良い布団で頼むよ」
「フフン、期待してくれて構わんよ。おいさんトコの売りなんだ」
「だろうな、羊だし」
宿屋で宿代でも設備でもなく布団を自慢するってのも変な話だけど。まあ、自認するってことは相当良いのを揃えてるってことなんだろう。期待して悪いことはなさそうだ。
——高望みも、たまには叶うらしい。