複雑・ファジー小説

Re: タビドリ ( No.22 )
日時: 2015/12/10 23:50
名前: 月白鳥 ◆8LxakMYDtc (ID: kkPVc8iM)

 ひび割れた石畳、折れた柵、雑草。
 壊れた屋根、煤けた煉瓦、割れた窓。
 開かない玄関、這い回る枯れ蔦、古い石段。
 揺れる白いカーテン、良く晴れた空、差し込む陽光。
 床板の軋る音、食器の触れ合う固い音と、穏やかな静謐。

「お帰り、エディ」
「立派になったな」

 記憶の奥に埋もれた、二人の声がする。
 脳裏に隠し続けて忘れかけた、懐かしい声。

「どうしたの、変な顔して」
「私達が怒ると思ってるのか?」

 困ったような、けれども嬉しそうな表情は、記憶に残る通りだ。
 十年前、制止を振り切って飛び出した、小さな家の主。

「俺は……違うんだ、此処は」

 二十年前、何もかも失くした俺を拾った、俺の両親。
 いつかの日に失った、俺の帰る場所。

「あらま、あんた酷い子ねー。待たないなんて言ってないわ」
「そうだぞエディ、いい加減親孝行くらいしたらどうだ?」
「そりゃ無理だよ……痛って! 何すんだ!」

 湿っぽい気分になってたら、思いっ切り横っ面を引っ叩かれる。
 二人はさっきまでの顔に怒気を孕ませていた。

「馬鹿言わないの、さっさと帰ってらっしゃい。あんただって立派に私たちの息子なんだから」
「私達が生きている間に一回くらいは帰ってこい。私は不孝者を育てた覚えはない」

 んで、バシバシ頭を引っ叩かれる。力も勢いもないけど、羽のせいでやたら痛いしばさばさして、何だかチリチリと痛かった。
 分かったから、一回家に戻るから。いつまで経っても終わらないそれに辟易して喚き捨てたら、やっと往復ビンタが止まった。代わりに向けられたのは、ちょっと気持ち悪いくらいの満面の笑みだ。

「言ったわね? 言ったわね?」
「早く帰って来いよ、馬鹿息子」
「嗚呼もうっ、止めろよその顔! 分かった、分かったってば!」

 何と言うかもうこっ恥ずかしい。絶対だ絶対だぞ、早く帰ってこい、とインコみたいにしつこく念押ししてくるのを背中に聞きつつ、分かった分かったと馬鹿な九官鳥みたいに連呼して、俺は蝶番(ちょうつがい)の錆びた玄関口を思い切り開け放す。
 ギィイッ、とビックリするくらい大きな音がして、扉が外に開いた。いつも薄暗く、どこか陰鬱とした空気の漂っていた古い石畳の上には、真っ白い陽光が燦々と降り注ぐ。それがあんまりにもカッカと照り付けるもんだから、目が眩(くら)んだ。
 いっそ無遠慮とも思えるほどに注ぐ陽は、けれど春の陽気の暖かさ。いつも寒々しくうら寂しかった裏路地を埋めるように、穏やかな光が辺りを照らす。
 ぼーっとして、立ち尽くした。

 ……琳々、琳々、鈴の音よ……
 ……琳々、琳々、響けや天(そら)に……

 どこか遠くで、聞き慣れた声が歌っている。
 絹の糸を紡ぐように、楽しげなソプラノが詩を縒る。


「……蒼い紗の下、銀の鋏よ……」
「煌めけ白く、夜を刈りませ……」

 玲瓏と続く歌の間から、しょきしょきと何やら小気味いい音が聞こえてくる。毛か何かを鋏で切っているようだ。そして、低く芯のある男の声と、舌足らずな感じを含んだ子供の声も、ソプラノの声と一緒になって詩を諳(そら)んじていた。
 ぼんやりとそれに耳を澄ませる内、頭の下に敷かれたふかふかの何かに気付く。そして、身体全体をふんわりと覆っている分厚い布の僅かな重たさが、頭に掛かった霞を一気に打ち払った。霧が晴れるように、どこか呆けたようになっていた意識が、こちら側に戻ってくる。
 そうだ。俺はまだ、寝ていたのだ。

「珊々、珊々、鈴の音よ……」
「珊々、珊々、響けや地(つち)に……」

 相変わらず遠くから聞こえる歌を聞きつつも、目を開けた。
 途端に飛び込んでくる陽の眩しさは、夢の終わり際に見たあの白さだ。開け放たれた雨戸の向こう、秋口の空は清々しく晴れて、瑠璃玉をぶちまけたような青さが眩しい。
 しかしながら、いつもより空が明るい。もう朝なんて呼べる時間はとうの昔に過ぎているのだろう。その証左と言うべきか、寝る寸前まで確かに払われていたはずの客の姿が、今はもうあちこちに伺える。挙句の果てには、目の下にくっきりクマを作った垂れ耳の犬が、布団と枕を抱きしめてゴロ寝している始末だ。
 もう少しだけ布団の中に籠っていたい気もしたけど、夜行性の奴等が此処で雑魚寝するのなら、俺は起きなきゃなるまい。寝相の悪い獣に蹴り飛ばされるのは御免だし、物騒な寝言を聞くのだってお断りだ。

「白い綿煙(わたけむ)、銅の紡錘(つむ)……」
「縒れや細糸(ほそいと)、雨を退け遣れ……」

 外からは呑気な歌い声。聞き慣れた涼やかな声は、きっとラミーのものだろう。聞いたことのない歌だが、何なのだろうか。
 人魚の歌を聞きつつ布団を払いのけ、ふかふかの枕から頭を引き剥がして、木床にベタ寝していた所から立ち上がる。凝り固まった身体を伸ばしざま、少し頭を巡らして店主の姿を探したが、その姿はどこにも見えない。代わりに客の出入りを見つめているのは、店主の息子と思しき羊の仔だ。

「おーい代理さんよー。これどうすんだー?」
「んーとねー……置いといてー。後でおせんたくするー」
「へいへーい」

 次々にやってくる客に記名と宿泊代を請求しながら、カウンターに両肘をついて、ずらずらと並ぶ文字を漫ろに目で追う羊の仔。何だか全然やる気なさそうに見えるけど、まあしっかり者そうな店主が任せてるくらいなんだし大丈夫なんだろう。そう思いたい。……思わせてほしい。
 布団は八つに折り畳み、枕と一緒に部屋の隅。俺は傍に放り出していた装備一式を全部身に着けて、出入り口から外に出た。